別千尋


それは、彼が自らこの世を去って、20日程が過ぎようとする頃だった。
彼女は思ったよりも冷静だった。

彼女も覚悟していたのだろう。きっと彼がそうするに違いないと、誰もが気付いていたのだ。


そして、現実は予測どおりに動き、彼女は嘲笑を浮かべた。
彼女は涙を流したが、さっぱりと言い切ったものだ。
『わかってたんだ、こうなること。もう、充分すぎるほど話をして、愛しあったから、いいんだ』
彼を止めることを諦めたと、彼女は言った。
哀しかっただろう、苦しかっただろう。
けれど、その結論を彼女はしっかりと受け止めた。
きりっと伸びた背筋が美しかった。人を縛り付けちゃいけない、そう言い切った彼女を強いとも思った。
ただ、長い睫毛に縁取られた三白眼だけが、哀しく曇って、どうしようもなく私の胸をかき乱した。







薫はアルディ家の図書室から本を借り、自室へ戻るところだった。
図書室から彼女の部屋まではかなりの距離があり、散歩をかねて庭を通ることもしばしばだ。
咲き乱れる季節の花々に囲まれて散歩をしながら、色んなことを考える。
まだ、巽を過去のことと思い返すには辛い。余りにもその思い出は生々しく薫の心に残っている。
けれど、いつかは過去のこととして受け止めることができると、薫は信じていた。
まるでそこだけ時間が止まっているかのように静かなアルディの庭園で、ゆっくりと夢の世界から現実へ戻る練習をしていた。
まだシャルルの下を離れるのは不安だった。
そんなことを考えるくらいに、薫はシャルルを頼っていた。
意地悪なほどに冷ややかな声は、この心の曇りを一気に流し去ってくれるようで、心地よかった。
硬質の甘さは、哀しさと怒りで一杯になった心の中に染み渡って、優しくそれらを解きほぐして、今を切り開いた。
そんな毎日を、薫はただただ、アルディの広い邸内で過ごした。



その日はうららかな秋晴れで、薫は遠回りをして庭を歩くことにした。
空は澄み切り、どこまでも青く美しい。
秋とは思えないほどの暑い日差しの下を散歩し、薫はふと眩暈を感じた。
薫は散歩を中断し、丁寧に手入れされた芝生に踏み込み、本を読むための木陰を探す。
もう少し行けば、温室へ続く小道にでる。そこには、ちょうどよい木陰があるはずだ。
そんなことを考えながら、何気なく空を仰ぎ、そこで薫は激しい眩暈を感じて芝生の上に倒れこんだ。



目覚めたのは自室のベッドだった。カーテンが引かれた室内は太陽光がさえぎられ、ベッドサイドに優しいライトがともされていた。
目覚めても、嘔吐感を伴う眩暈は治まる気配を見せなかった。
ベッドサイドには、いつもの通りエビアンが置いてあった。
ゆっくりと身体を起こしてクッションに身を預け、薫はエビアンを取り上げて、一気に飲み下した。
喉を通り過ぎる冷たい水のお陰で、少しだけ身体が平衡感覚を取り戻したように思う。
低血圧のためか、眩暈を感じることは多かったが、身体の中枢を揺るがすような激しい眩暈は初めてだった。
またエビアンを口に含みながら、収まりきらない眩暈に瞼を閉ざした。



そして時を同じくして、シャルルは絶望に瞼を閉ざした。普段でも白い顔色は、ショックの為にさらに青ざめて見えた。

「………シャルル様…………」
血液検査の結果を確認した助手が、緊張した声を投げかけた。
手渡された結果に目を通し、シャルルはかすかに首を振った。
それは信じられないとも、また信じたくないというようにも見えた。
一度目を通せば、その全てが記憶される。もう彼に出力されたデータは必要なかった。
珍しく乱暴にカルテをデスクに投げると、どっさりとソファに腰掛けた。
庭で倒れていた彼女の様子を初めに診たときに、微かな危惧を覚えたのだ。
血液検査の結果が、その予感が外れていなかったことを無情に知らせる。
知りたくなかった事実。心の片隅で、何かの間違いであればいいと願った。
もちろん、それが真実であることは、誰よりも彼が一番良くわかってはいたのだ。

どうやって、本人に告げろというのか。


大きなため息と共に天を仰ぎ、シャルルは神を呪った。

なぜ、あなたはそうやって彼女を苦しめるのか………。

神からの回答など、あろうはずがないこともまた、彼が一番良くわかっていたのだ。



まだ眠っているかもしれない薫に配慮して、シャルルはノックをせずに静かに扉を押し開いた。

カチャリと静かな音を立てて扉が開き、シャルルが姿を見せた。
弱いライトに照らされた白皙の美貌は、僅かに緊張してるようだった。
彼は、厳しい。薫が無茶をして体調を崩した時には、まったく遠慮などせずに、シャルルは怒った。
わかっては、いるのだ。
少しでも不調を感じたら、静かにベッドで横になっているべきだと。
でも、もともとベッドで大人しくベッドで寝ている性分ではないのだ。
そして無理を通して倒れては、シャルルが怒る。それにも馴れていた。
今日は、どんな言葉で罵倒されるのか。半分諦めたように、クッションにもたれかかった。
ゆっくりと優雅な足取りでベッドに歩み寄るシャルルを仰ぎ見て、ふと薫は違和感を感じた。
上品なブルーグレーの瞳は、いつも以上に物憂げに翳っていた。
僅かに潜められた眉が、泣いているようにも見えた。彼が、そんな表情を見せるのは珍しい。
ひねくれものの鉄面皮。何度か、シャルルに向けていったことのあるセリフだ。

なのに、今日の彼は何かが違う。

「気分は?」
「悪くない」

ふっと、シャルルが目を細めた。儚い雪のような美貌に浮かんだのは、微笑か。
あるかなしかの、微かな笑み?

「よく言う。真っ青な顔をして……」
細い神経質そうな指が伸びて、クシャリと髪を撫でられる。
「やめろよ……」
その手を払いのけようとして、また大きく視界が揺れて、右手で瞼を覆った。
確かにクッションに身を預けているはずなのに、体中がふわふわと浮いているようで、無意識に何かにつかまろうとして、
左腕を伸ばした。
伸ばした腕はそのままシャルルに捉えられ、強く抱きしめられた。
シャルルの鼓動が、間近に聞こえる。
「…シャルル?」
抱きしめたまま放そうとしないシャルルを、薫は不審に思って呼びかけた。

「話さなければならないことがある」
ゆっくりと身を離して、両手で薫の肩を掴んで覗き込むようにして、シャルルは言った。

彼女の身体には、新しい命が宿っていた。
言うまでもなく、彼の忘れ形見。二人の愛の証。

こんなにも喜ばしいことはない、そう普通の恋人同士なら。普通のカップルで普通の夫婦で。
誰もが祝福するだろう、新しい命を。

けれど、彼女には。苦しすぎる現実が待っていた。

「君の中に、新しい命が、宿っている」
信じられないくらいに、私の声は小さく響いた。
彼女の瞳を、直視することさえできずにいた。
まるで知らない国の言葉を聞かされたように、彼女はふと眉根を寄せた。
「……こども、が?………」
ほんの僅かに震えた声には、喜びと、不安が混在していた。勘のいい彼女は、私の様子に、これから続く悪夢を感じていたのだろう。
「君の身体じゃ、産ませられない。早い時期に、手術をすることになる」
彼女の中で、一気に恐怖が膨らんだ。

「っいや!!」

これ程までに絶望を宿した声を聞くのは、一生のうちでもこれが最初で最後だと思った。
彼女の瞳に、自分はどう映ったのだろう。
悪魔か、阿修羅か。
それでも、私はこの役目は他にはやらせない。私がやらねばならなかったのだ。
華奢な肩を震わせ、虚ろな瞳からははらはらと涙が零れ落ちる。

「どうなってもいい、私は、どうなってもいいから………」

彼女が懇願することは、わかっている。
私は、首を横に振るしかなかった。

「駄目だ。君の身体は、そこまでもたない。結果は同じだ」

なぜ、こんなことを言わねばならないのだろう。

突きつけられた現実を、彼女は嫌というほど理解していたのだ、本当は。
その分だけ、絶望は深かった。

色白の手は、私の言葉を拒否するように両耳を塞ぎ、彼女は声にもならない微かなうめき声を挙げつづけた。
私とて、その絶望の淵から彼女を救う術など見つけられず、ただ力任せにその肩を引き寄せ、抱きしめるしかなかった。

そんなことしか、できなかったのだ。

やがて泣き疲れた彼女が、私の腕の中で眠り始めるまで、私は彼女を抱きしめ、その背を撫で、涙を拭った。
憔悴しきった頬に、涙が溢れる。眠っても、彼女の絶望が癒されることはない。






青ざめた瞼が開かれたのは、どれくらい経った頃だろう。
さほどの時間は経っていなかった。
目覚めた時の薫はどんな反応を示すのか、冷静に見極め、冷静に対処せねばなるまい。
それが自分に出来る、ただひとつのことなのだから。
彼女は常に現実から逃げようとはしない。向き合い、傷付き、それでも逃げない。
だから傷が深まる前に、誰かが彼女を守ってやらねばならない、そう誰か、が。

彼女は一瞬、視線を空に彷徨わせ、私のそれに行き着いた。
しばらく彼女は私を見つめていた。美しい瞳に写る絶望が自分の中に流れ込んでくるようだった。

「どうしても、無理なの」

青い唇から掠れた声を発した。
それは質問ではなかった。絶望の淵からの懇願でもなかった。
どうしようもない現実への、確認だった。

「私にはどうすることもできない」
彼女の言葉に、私は真実を答えた。
それが、一番良いことなのだと思ったからだ。
彼女は憐れることを嫌う。それを嫌って、彼女は強がろうとする。
それをさせないために、私は冷静に真実を告げた。無理をさせたくない。せめて、私の前では。
弱い、生(き)のままの彼女でいさせてやりたかった。
「せめて、もう少し…。少しでも長く……」
「駄目だ。時期が遅れれば遅れるほど、手術の時に危険が増す。それに、今の君の身体が、どれ程持ちこたられるかもわからない」
突きつけられた現実の重さのせいか、彼女は顔を背け、右腕で顔を覆ってその表情を隠した。
「…もう、いい」
「君を、君自身を、死なせたくないんだ」



「シャルルが、やるの…?」
やがて、震える声で彼女が尋ねた。
恐怖と絶望の中で、もはや彼女が全てを預けられるのはシャルルしか居なかった。
それをするのが、シャルルで無ければ絶対に嫌だった。どんなに彼を苦しめることになっても、
彼以外の手でそれをされるのは嫌だったのだ。
「他の誰にもさせやしない、安心しろ」
透明で澄んだ少女のような声の中に、彼らしい硬質の強さを感じた。
どんな言葉より、今は彼の声が信じられた。
「なら、いい」
まるで自らに言い聞かせるように強く言って、彼女はうっすらと微笑んだ。
それは、哀しい哀しい笑みで、聖画のように美しかった。
美しいなどと、そんなことは何のプラスにもならないことだが。
澄んだ瞳からこぼれる涙は、今までに見た誰の涙よりも美しいと感じた。


手術中も手術が終わった後も、部屋にはシャルル以外の誰も入らせなかった。
シャルルは身体よりも心への影響を考えて、治療室ではなく、自室へと薫を運び込み、ずっと付き添っていた。
生ませてやることが出来ればどれ程良かっただろう。
否、おなかのこどもと心中したかったのかもしれない。この世に、彼女が求めるものなど何一つないのだから。
そうして私はまた、彼女を苦しみばかりが待つこの世界に留めおいてしまう。あの時のように。

しばらくすると、うっすらと薫は目を開けた。
「終わったの…?」
ほんのわずかに首を傾けて私を見て、彼女は聞いた。
私は小さく頷いた。

「お腹………痛い………」
まるで独り言のように彼女が小さく呟く。
危うげで、壊れてしまいそうな声。少し震えていて。
そっと形のいい額に手を伸ばして、彼女の表情を隠す前髪を梳き流した。
虚ろな眼は、傷ついた心を映していた。普段より少し舌ったらずな話し方は、まだ麻酔が残っている証。
「鎮痛剤を使おうか?無理して我慢する必要はない」
強い薬は彼女の心臓に負担を与える。できるだけ負担のない薬を選び、使った。
鎮痛剤を多少打っても、影響は些少で済む。
苦しげに歪む表情を見ているのは、こちらも辛かった。今、一番辛いのは彼女だろうけど。
「………いらない」
静かに、でもきっぱりと彼女は拒否した。
「赤ちゃんは、もっと痛かったはずだから……。だから、要らない」
どうして、そんなに強いんだろう。何より強くて、そして脆い。
肌理の整った柔らかい頬に止めたまま、動かせないでいる私の手に自らの手を重ねてゆったりと薫は瞼を閉ざした。
「しばらくはこうしていて……。………気持ちがいい…」
また彼女は泣く。そうやって声を立てずに泣く彼女をどれ程見てきただろう。
自分がこんなにも無力だとは知らなかった。傍らに付いていながら、涙を止めてやることさえできずに。
どんな言葉をかけてやればいいのかもわからずに………。
「おとこのこだった?おんなのこだった?」
麻酔が切れるにつれ、痛みが増すのだろう。白皙の額にうっすらと汗が滲んでくる。
息遣いは苦しげで、いつも通りに話していても不自然に力が入っている。
無駄だと知りながら、シャルルは薫の腰に手を伸ばし、ゆっくりとさする。痛みは取れない

だろうが、精神が安らぐ。
優しく手を動かしながら、シャルルは自分が取り上げたものを思い出した。
「まだどちらかはわからなかった」
産まれることを拒否されて、闇に葬られた小さな小さな胎児。
存在意義が、あったのだろうか………。
「………そ、残念……」
「名前を、付けてやらないか?」
「え…?」
突然の提案に、薫はいぶかしげに眉を潜める。
それもそうだろう………。
「せめて、ほんの僅かでも君の中で生きていた証に、名前を」
「そんなことして、どうするの」
気のない声。
「巽の墓に一緒に名を刻み、共に葬ってやろう」
何も出来なかった代わりに。たったそれだけのことでも、何もないよりはいい。
きゅっと、薫は目を閉じた。こことを落ち着けるように何度か息を飲む。
「…ありがとう………」
彼女は笑った。
頬は引きつって、瞳は潤んでいたけれど、それはその時に彼女が浮かべられる精一杯の笑顔だった。





あの時、どうしてあんなにも泣いていたのだろう。
哀しかったし、新しい生命が可哀想だとも思った。

でも、本当は………。

こども一人産めない自分が憐れで、そして悔しかった。
心臓が悪いことを悲しいと思ったことはない。人並みの生活が出来ないことも不便だったが、それ程嘆くことでもなかった。

それ自体は。



でも、今でも思うことがある。

もしこの身体が、人並みのものであったなら、兄は私の傍にいただろうか。

どんな形でもいい。犯罪など犯さずに、生きて、いただろうか。


そんなことを考える時、この身体を悔しく思った。

そして今度も。
彼の、たった一つの形見を。思いの寄らぬ形でもらった、神からの贈り物さえ。
諦めねばならない自分を、悔しく、歯痒く思った。






思いの分だけ、泣いていた………。




こんな展開で、ホントすみません…………


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