僕らの恋人たちへ




     和矢は緊張の面持ちで、椅子に腰掛けた。




     響谷薫の兄が起こした事件を、和矢も当然知っていた。
     教師が教え子に手をかけた事件は類をみない凶悪な事件として、新聞やTVでも随分報道されたし、
     週刊誌などはエリート一家に生まれ育った犯人について、面白がって色々と書き立てていた。
     繰り返し報道される学校内での卑劣な殺人事件に、驚きと共に犯人への恐怖や怒りを覚えた。
     その犯人に直接顔を合わすことになろうとは…。


     殺人犯の妹、という目で響谷薫を見たことはないし、そのことで差別をしようとも思わない。
     むしろ、それを理由に誹謗中傷した高原香織をはじめとする他のコンクール参加者には憤りを感じたくらいだ。
     それでも、それでもやはり、メディアを通して知った殺人事件の犯人に顔をあわせるのは、不思議な気分だった。
     そんな身近なものなのかと、響谷薫に出会ったときに思った。



     落ち着かず、あたりをきょろきょろと見回してみた。
     とは言っても、ただただグレーのコンクリートの壁に包まれた部屋で、特にこれといって何もなく、和矢はまた
     視線を立ちはだかるプラスチック板に戻した。

     ほどなく係員に連れられて、面会相手はやってきた。


     「はじめまして」

     型どおりの挨拶をすると、相手は穏やかな笑みを浮かべて会釈をした。
     なるほど彼の妹とよく似ている。
     長い拘置所での生活のせいか顔色は冴えず、少し悲壮な感じがしたが、それがまた
     今の妹の姿を連想させた。
     顔の造りはもちろんだが、湛えている雰囲気が何よりも似ているのだ。

     「はじめまして、響谷巽です」

     優しく、落ち着いた声ではあったが、ことばの奥には隠しようのない緊張が感じられる。
     今がコンクールの只中であることは、彼も承知しているのだ。
     妹よりも幾分冷静そうで、罪人らしからぬ理知的で美しい瞳と穏やかな雰囲気に、安堵を覚えた。
     「どうしても、お伝えしたいことがあって………」
     そう和矢は切り出した。




     薫の友人が面会を求めていると聞いて、巽は不安を感じた。
     自分が言い出したこととは言え、最近まで入院していた薫が軽井沢で泊り込みでコンクールに
     参加するのだから、どれほど身体が衰弱しているか、想像するだけでも恐ろしくなる。
     入院していた時の詳しい症状を弁護士を通じて確認し、改めて薫の今の病状がひどいものであるかを知った。
     少し会わないうちに、随分と病状は悪化していたようだ。
     安静にしておかなければ危険なくらいな状態で、とてもそんなコンクールに臨めるような体調では
     なかっただろう。
     もちろん本人だってそれはわかっていたはずだ。自分の身体がどういう状態であるのかを。
     しかし、そんな状態でコンクールに出ると決意したということは、また自分の言葉が彼女を
     動かしているのだろう、昔のように。
     後悔したが、今さら辞退をもとめることもできない。
     できたのは、勝てなくてもいいから無事に顔を見せて欲しいと祈ることだけだった。

     そんな時に、彼女本人ではなく、友人が面会を求めていると言われれば、一瞬に最悪のことまで考えてしまう。

     だが、予想に反して面会を求めてきたのは池田麻里奈ではなかった。
     相手は誠実そうな漆黒の瞳と黒いくせ毛が印象的な少年だった。
     聞けば、医師の指示により池田麻里奈と一緒に、薫のコンクールに付き添ってくれているという。




     その彼が伝えた今の薫の状況に愕然とした。
     彼女の身体に疲労を残してはならない。
     少しでも身体に負担を掛けるようなことがあったら、そのあとはできる限りの休養を与えてやらねば、
     身体が参ってしまう。
     それくらい彼女の身体は繊細なのだ。他人が想像しているより、ずっと弱いのだ。
     自分の身体を省みず、彼女はどこまでも突き進んでいく。
     だから本人の代わりに、側にいる誰かが大切に彼女を守ってやらねばならないのだ。


     まして、今の薫の体調は万全でなく、どれだけ気を使っても使いすぎることはないはずなのに。


     狙われている、だと?




     「今回のコンクールに当たって指導者になってくれた瀬木さんは、人間的にも信頼のおける人で、薫さんも
     慕っているので安心してもらって大丈夫だと思います」
     少年の話し振りはとても誠実であったが、端的でわかりやすく、信頼のおける様子だった。
     その彼も信頼するというのは、しっかりとした指導者なのだろう。


     ただ…。


     「ただこの二日、薫さんはろくに眠っていません。ただの嫌がらせで済む程度ではありませんし、
     彼女ばかりに害が及んでいるのも気になります。明らかに、薫さんを狙ったものです」



     初日には、ニトロの盗難とそのタイミングを狙って彼女にショックを与えて発作を起こさせる。
     昨日はさらに生き物を使ってショックを与えるという悪質な嫌がらせ。
     コンクールのストレスも相まって、眠るというよりは意識を失っているといったほうが近いと彼は言った。


     彼の言うとおり、薫にとっては嫌がらせではすまない問題だ。ニトロがないときに発作を起こせば、
     命を落とす危険性だってあるのだ。
     ごく軽い発作の時は、薫は副作用を嫌気してニトロを使わないときもある。しかしあくまでそれは、ごくごく
     軽い発作で体調もいいときに限られている。
     今の状態で発作時にニトロを飲まないのは、自殺行為だ。

     「それでも、薫さんはやり抜こうとしています」

     すこし眉根を寄せて、彼は語った。


     「こんなことを言ってもいいのか…。どんどん生気がなくなっていく気がして……。
     身体の限界は、とっくに超えているはずなんです。顔色も真っ青だし、ほとんど食事も摂っていない。
     でも、薫さんはやめようとしない。マリナも俺も、見ていられなくて」


     今の薫と、周りの人たちの困惑がありありと伝わってきた。


     「薫がコンクールを辞退することはないだろう」

     このことばは、もしかすると目の前の少年を傷つけるのかもしれない。
     衰弱していく薫を見ているのが辛いのだろう、この少年も池田マリナも。


     「何を言っても無駄だと思う。あれは、一度決めたらどんなことがあってもやりとおすだろう。
     周りがどんなに止めてもね」

     例を挙げれば、キリがない気がした。
     ずっとそうやって、薫は無理を強いてここまできたのだ。持病のハンディを乗り越え、常人以上の練習に
     耐えて技術を磨いてきた。
     犯罪者の妹というレッテルと闘い、一般社会を生き抜いてきた。

     「手紙と荷物をひとつ、託ってくれないか」

     苦悩の中にいる薫に、どうしても伝えたかった。

     本当の気持ちを。

     それは、エゴであるだろう。直接伝えたことのない本心。人を使って嘘を伝えてまで、この愛情を
     隠し続けてきた。
     それを今伝えることは、僕の勝手に過ぎない。
     けれど、伝えるのは今しかないと思った。

     ヴァイオリニストとして歩んできた僕の全てを知っているのが、愛用していた僕のアマティ。

     グァルネリのもつ渋い音色は、とても薫の個性に似合った楽器だった。
     アマティのもつ柔らかく澄んだ音色もまた、薫の情熱的でいて丁寧で気品のある演奏に向いているといえた。
     しかしアマティの音の小ささは、体力的に弱みをもつ薫にとっては、使いこなすのは困難だと僕は判断していた。
     薫の奏でるアマティの音色より、僕は彼女の身体を優先させてきたのだ。

     一度だけ、彼女はそのアマティで舞台に立ってみたいと僕にせがんだことがある。
     しかし、僕はそれを認めなかった。
     今でも薫は僕がその願いを断ったのは、僕がアマティに愛着を持っているからだと思っているだろう。
     本当は、彼女の身体を守るためだったのだが。
     全力を使わねば大きな音を引き出せないアマティは、むしろ、極限まで体力の落ち込んでいる今の薫には
     もっとも向かない楽器かもしれなかった。
     それでも僕の全てを受け継いだアマティは、なにより薫の心の支えになるに違いなかった。


     「僕の愛用していたヴァイオリンだ。それをやるから、頑張れと伝えてくれないか?薫が勝って、ここにくるまでは
     必ず待っているからと、そう伝えてくれないか?」


     黒須和矢は、しっかりと頷いた。

     「必ず、伝えます」


     彼なら、必ず薫の見方になってくれるだろう。池田マリナと同じように。
     池田マリナのことは、良く知らないが、彼女にはエネルギーがある。周りのものを巻き込んで尚、生気に
     満ち溢れている。
     薫には必要な存在だと思った。
     黒須和矢には、突っ走る二人を止められる落ち着きと英知が見られた。
     ともすれば行き過ぎる二人を、正しい方向に導いてくれるだろう。


     「…すごい、ですね」
     手紙をかいている時に、ポツリと黒須和矢は呟いた。
     先ほどまでとは少し違う、少年らしいくぐもりをもった声だった。
     「何がだい?」
     短い時間の中でいかに正確に真意が伝わるかと、僕は文章を練っていた。
     「ナゼ、そんなにも相手のことを考えることができるんでしょう。響谷もあなたも」
     あ、あなたも響谷さんですよね、とぶつぶつと訂正していた。

     「マリナちゃんのことを言っているのかい?」

     彼が、薫や池田マリナとどういう関係か、僕は尋ねていなかった。
     薫のコンクールにまで同行するくらいだから、最初は薫の友人かと思ったが、すぐにそうでないと勘付いた。
     どうも、彼自身も池田マリナの友人らしく、薫とはさほど深い仲ではなさそうだと。

     「いつも、売り言葉に買い言葉で、ケンカばっかで」
     苦笑の中に、過去を思い出す甘い響きが隠れていた。

     「ケンカもいいものだ。後々、甘い思い出になる日も来るだろう。苦い思い出にさえ、しなければ。
     それは互いの努力で何とでもなるからね」
     僕が言ったところで何の信憑性もないが、と続けると、彼はちょっと笑った。
     「実は、今も大喧嘩になりそうな火種を抱えているんです。隠してるんですが、打ち明けたら最後、
     痛い目を見るに決まっている」
     口をへの字に曲げて、言う。
     「出来るだけ早く、打ち明けることだ。神に反しない限り、全てを打ち明けて謝ってしまえばいい。
     マリナちゃんだって、わかるはずだよ」

     僕は書き上げた手紙を、便箋と同様に厚手の白い封筒の中に入れた。


     「これを、薫に。頑張るように伝えてくれ」
     薫に、今の僕の考えを受け入れてもらえるようにと願いながら、僕は手紙を彼に託した。
     「君も頑張りなさい。後悔のないように」
     寒い中、薫の為に、いやマリナちゃんの為に駆けつけた彼をねぎらうために言った。
     彼は、人懐こい笑みを浮かべた。
     初めはこわばった表情だったが、面会室の独特の雰囲気に慣れたのか、僕の言葉が届いたのかは
     わからないが、その笑みはとても力強く、輝いていた。

     僕は思った。
     大丈夫だろう、この彼ならば。
     きっと池田マリナと仲直りをして、そして二人で薫の味方になってくれるに違いないと。


     和矢は、巽の暖かい眼差しに、勇気を得た気がした。
     コンクールが終われば、打ち明けよう。
     ずっと前に記憶が戻っていると。少し、からかってみたくて黙っていたんだ、と。

     自分だって、愛せるはずだ。
     自分の全てを投げ打った、目の前のこの人のように。
     自分の全てを捧げようとしている、あの強い女性のように。

     自分だって、全てをマリナのために…。

     そうして、今度こそ告げよう。

     愛してる、と。









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