ガーディアン

 



「ひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか」



判決を翌日に控え、緊張の面持ちを隠せない弁護士団に対して、彼一人だけが落ち着いていた。

彼は刑が軽くなってほしいとは思っていなかった。むしろ極刑を望んでいたのかもしれない。
彼女の前から自分を、正確には自分の気持ちを葬り去るために。

「何でしょうか」
「明日の公判に薫には来ないでもらいたい。そう、伝えて頂けないでしょうか」
一家の中から犯罪者を出すということは、その家に少なからず被害が及ぶ。
マスコミが押しかけたり、近所からの目もある。嫌がらせを受ける場合もある。

それでも薫はいつもそこにいた。
容赦ない誹謗中傷の中央にいることを拒否することはなかった。

「わかりました、伝えましょう」
「僕がそう望んでいると、そう言えば薫も聞くでしょう」





弁護士から伝えられた巽の言葉を、薫は受け入れた。
学校を休み、自宅へ戻って薫は判決を待っていた。
自室のベッドの傍らに両膝をついて、組んだ両手はベッドの上におかれた聖書に重ねられる。

彼の罪を神が許してくれることを。
彼の日頃の良い行いを法廷で証言してくれた人々のためにも。
そして反省をしているだろう彼自身のためにも。
どうか彼の罪が赦されるようにと。

薫は朝から祈りつづける。



世間を騒がせた大事件だっただけに、TVの速報でもその結果はしらされていたが、薫は身動きせず、
弁護士からの報告を待っていた。
結果が知らされたのは、午後になってからだった。


「裁判官の心は揺らいでました。このままで行けば判決を覆すことは可能です。……ただ、巽さん自身が
控訴はしない、と…」
苦い表情で、響谷家の弁護士は薫に報告をした。
結果を聞かされて、体中から力が抜けるような気がした。
自分の人生からも未来が無くなってしまったかのように思えた。


「……そうですか。それでは私も兄に従いたいと思います」


うそだった。闘うことが、かえって辛かったとしても、被害者の遺族を苦しめたとしても。
それでももう一度、闘ってほしかった。
自分より先に彼がいなくなってしまうなんて、考えられもしなかった。
なのに、そんな気持ちよりも彼の意思が強いことを知ってしまっていた。
何を言っても、誰が説得しようと兄の意思は変わらない。
だからそう答えた。本心などでなくても。そう答えざるをえなかった。

その言葉に、弁護士団は驚きを隠せなかった。彼らは勝つ自信があった。
控訴すれば勝てると、確信していた。控訴しないということは、そのまま彼らの敗北を意味する。
巽にその気がなくても、薫が巽を説得すると思っていたのだ。
無期懲役を勝ちとり、模範囚として罪を償えば、塀の外に出てこられることもあるのだ。
「しかし、薫さん……!」
さらに言葉を続けようとした響谷家の弁護士に、薫は改めて言った。
「兄のわがままを、きいてやって下さい。お願いします」
依頼者にその気がなく、深々と頭を下げられれば弁護士団は解散するしかない。
「わかりました。受け入れましょう……」
「ありがとうございます」
薫はもう一度、頭を下げた。
「…薫さん、この後は………」
事務所に帰ろうとした響谷家の弁護士は、ふと薫を振り返って尋ねた。
二人は仲のいい兄妹であったことは、彼も良く知っている。この判決に薫がショックを受けていないとは思わない。
意外に冷静なように見える薫ではあったが……。
その顔色は悪く、ショックを隠し切れなかった。けだるげな三白眼はいつも以上に翳り、虚ろだった。

「寮に戻ります。ここにいても……どうしようもないことですから」

彼女はそう言って微笑んだ。けれどその頬は強張っていてぎこちなく、彼女の緊張が見てとれた。
何か声を掛けようとしたが、つまらないなぐさめはかえって傷つけるだけだとわかっていた。

「それでは、気を付けて。何かありましたら、私までご連絡を下さい」
「本当にありがとうございました」
もう一度深く頭を下げて、薫は丁重に弁護士を見送った。

「薫様、本当に寮にお戻りになるのですか?」
様子をうかがっていた執事がそう尋ねた。
弁護士が出ていったドアに目を向けたまま、感情のない声で答えた。
「戻るよ、言っただろう?ここに居たって、何かがかわるわけじゃない」
ふっと振り返って、また薫は微笑んだ。痛々しく哀しい微笑だった。






エメラルド館に戻り、自室に入ると、薫は部屋の真中に座り込んだ。
覚悟はしていたはずだ。
最悪の結果を。

けれど。





薫は傍にあったバッグを壁めがけて投げつけた。
……神様の意地悪。言ったくせに、罪は許されるって。
「……どうして………」
誰から回答の得られるはずもない。
零れた涙が服に落ちて、涙の色に染めていく。
何に怒っていいのか。ただ、この世が余りに無情なものに思えて仕方なかった。

ひとしきり泣いた後、重い体を引きずり上げて、薫は本棚の扉を開けた。
いつも哀しいときに自分を慰めてくれるものはない。ただ、時間つぶしにお酒を飲むだけ。
幸せな気分になんてなれないし、紛らわすことさえできない。
それでも時間をやり過ごすことはできた。
給湯室から水を汲み、氷と一緒にバカラのグラスに注いだ。
その上からウォッカを注ぎこむと、キラキラ光って、綺麗だった。
薫は、つとグラスを光にかざしてしばらくその光を見つめていたが、やがてストレートに近い濃度のウォッカを
一気に飲み干した。
刺激が喉に伝わる。霜が落ちて、さらに透明度の増すロックにウォッカを継ぎ足す。
味も香りも感じなかった。ただ、アルコールが喉を刺激した。



どれくらい飲んだだろうか。
ソファに持たれかかると、放り出された携帯電話が目についた。

……まりな。

何を話していいのかわからなかったけれど、彼女の声が聞きたくなった。いつも自分を励ましてくれる存在だから。
けれど彼女の自宅は空しくコールが響き、彼女は出なかった。
まずそんなことはないだろうと思いながら、出版社に居所を聞くと取材のために甲府にいると言う。
仕事、してるんだ。ちゃんと。
そう。。マリナにはマリナの生活があって、人の面倒ばかり見ていられないだろうな……。
考えると、ひどく孤独を感じた。誰も、いてくれない。母親でさえも、父親でさえも。日本に帰ってこようともしなかった。
取材先にいるマリナはいつもどおりだった。
適当なことを言うと、またいつもの通りに、怒った。
「兄貴の面会が、月に一回になったんだ……」
言い聞かせたかったのかも知れない。そう伝えることで自分が納得したかった。
慰めてほしかったのかもしれないけれど、恐ろしくて、直接的には言えなかった。



薫は電話を切るとエメラルド館を抜け出した。
あたりはすっかり闇に包まれていて、寒いくらいだった。

あてもなく、歩く。
歩いて、歩いて、薫は、広大な敷地を持つ墓地にたどり着く。
深夜、幽霊さえ怖がって避けて行く暗さだった。
けれど気にも留めずに、ただ微小な光をもらす自動販売機でお線香と蝋燭を買った。
真新しいお墓には、花も供えられていなかった。
ポケットからマッチを出して、買ったばかりの蝋燭に火を灯す。明るい炎が立ち上った。
お線香にも火を灯す。


暗い墓地に、そこだけが明るかった。
それは、生前の彼女にふさわしい静けさに満ちた明るさだった。
「…みんな、あたしの前からいなくなる」
呟くと急に涙が溢れてきて止まらない。
「レディ、あたしもそっちに行きたい」
次から次へと涙が零れていく。


彼を助けてと、祈ったのに。

神様は聞いてはくれなかった。
罪は許されると言ったのに。
静かな墓地に、そうして彼女の嗚咽だけが響く。
燃え尽きた蝋燭から、火が消えた。薫は新しい一本を取り出して、また火を灯した。
繰り返して、彼女はそのまま墓地で眠り込んだ。



夢を見た気がした。

暖かい光に包まれて。

『そうして、誰も見ていないところで子爵は泣くのね。ひどい方。
ワタクシの前で、一度でも泣いたことがあったかしら』
可憐に笑う。
『人は、一人になんてなれないものよ、子爵。どんなに願ったって一人にはなれないのですよ。
ですから子爵、孤独を感じて泣いてはだめよ』
けれど、可憐に笑う美しい少女は、決して自分を傍に寄せ付けようとしない。
『泣いたら、お戻りなさい。ワタクシの定めた門限を破ることはさせませんよ』
そう言いながら、少女は薔薇の咲き乱れるエメラルド館の庭を駆け巡る。
『子爵、ワタクシがあなたをお守りするわ。だからあなたは一人になんてなれないのよ』
くすくすと笑うレディの声が響く。なのに、咲き乱れる薔薇に邪魔をされてその姿が見えない。
『さぁ、子爵。雨が降りますよ。お帰りなさい、子爵。待っている人がいますよ』
目覚めたら、朝だった。




『ワタクシが守ります、子爵。あなたを一人になんてさせません』


もう一度、レディの声が聞こえた気がした。


暖かい朝日が差し込んでいた。
薫は一本だけ残っていた蝋燭に火を灯すと、お墓を後にした。






神様、あなたを責めた私をお許し下さい。

今以上の試練が彼に起こらないように、お守り下さい。

自分勝手な望みだと承知していますから。



どうかこの小さな望みを、お聞き下さい。




アーメン







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