ねぇ、神様。お願いだから、間違いだと言って………。





悪夢に私を誘ったのは、一本の電話のベル。
ホテルのベッドの枕元に設置された、白くて無機質な普通の電話。
音さえ、ありふれたベルで。
けれどその音は私に地獄を見させるには充分すぎるほどだった。



その時期の私は、割と良い精神状態だと思っていた。

年に数回、海外で演奏を行い、それ以外は日本でやはりリサイタルを行ったり、時には専門雑誌の取材を
受けたりもした。
バイオリン中心の生活が、何よりも心地よかった。
日本にいる間は、月に一回、欠かさずに面会にも行った。
差障りのない会話をして、彼は必ず最後に身体の具合を尋ね、私は決まって大丈夫だと答えた。
薄い板ごしの会話が、二人を強く結んでいた。



最後に会ったのは、11月末。
真冬のような寒さで、気候の話から始まった。
渦巻いた哀しみや苦しみも、流れる時間に伴って薄れて行き、今は静かな感情が心を占めていた。
月に一度しか会えないという哀しみではなく、たった一回でも心を通わせる時間のある幸福に、私の心は
宥められていた。

『来月に入ったらすぐにウィーンに発つ。1月末まで日本には帰ってこないけど、身体に気をつけて』
いつもは彼が言うセリフを、なぜかその時は私が口にした。
『向こうは寒いだろう。お前こそ、無理をしないように、気をつけて行っておいで』



いつもと同じことば。同じ別れ。





でも、本当は知っていたんだ、わかっていたんだ。


この穏やかな空気とは裏腹に、不安も残っていた。
まるで心をコンクリートの壁で二つに仕切ったように、静かで穏やかな空気と、哀しくて不安でめちゃくちゃに
荒れ狂った心とが、半分半分に同居してた。
だから心の半分では、ちゃんと知っていたんだ、覚悟してたんだ。
こんな風に、いつもと同じ別れが、最期の別れになるって、いつの日かそんな日がくることくらい、どこの誰よりも
知っていたはずなのに。



そのベルは、遥か海を越えてウィーンのホテルの私の部屋を呼んだ。




遠征中は、特別な予定を除くと23時にはベッドに入ることにしている。
特別な予定といっても大したことではなくて、コンサート関係者と打ち合わせを兼ねた食事会とか、
楽団なんかと共演した時には、団員に誘われることも、ままある。
そういう予定のある日以外は、コンサートが終わると、まっすぐホテルに帰ってシャワーを浴びてそのまま
ベッドに入る。
言うことを聞かない身体と上手に付き合うには、それなりのコツが必要だ。
だから、それも遠征先では日常のことで、私はいつもの通り、そのホテルの少し柔らかすぎるきらいのある
ベッドに身を横たえてうつらうつらとし始めた時だった。

軽やかな音を立てて、電話が鳴った。
日本からだと、フロントは告げた。
誰だろう。
音楽関係者は私が23時前にベッドに入ることを知っているし、もちろん躾の行き届いた響谷家のメイドも
それくらいはわかっているから、違うはずだ。

けれども、すぐには不吉な予想は思い当たらなかった。
昔、深夜の2時に電話を掛けてきた人がいた。
同じように、海外でコンサートを開いた時だ。
時差を考えずうっかして、そんなことではなかった。
ただただ、思いつくままに電話をしてきたのだ。時差どころか、ひとの生活時間なんて全く考えもしない人が。
母親が。
明日、そちらに行くから、久しぶりに食事でもしましょうって。
深夜に大音響の電話のベルで起こされることが、私の心臓にどれほど良くないことだと知ってはいたはずなのに、
考えもしなかった様子で。
だから、深夜に掛かってくる電話が必ずしも急を要すものではないと、知っていたのだ。
身を持って。
「こちら、響谷。寝たばかりのバイオリニストを電話で起こす常識知らずは、名をなのれ」
こちらの言葉が終わるのが早いか。

『あたしよ、マリナ』

勢いよく返答が帰ってきた。
やっぱりだ。23時を回ったばかりでは、深夜とも呼べない。
海外だろうか深夜だろうが、いつも唐突なマリナが相手なら、怒る気力さえでない。
しかし、付き合ってやる程親切でもない。こちらはコンサートを控えた大切な身なのだから。
「おーや、久しぶり。悪いが、あたしゃ明日の朝早いんだ。切るぜ」
『あのね、ちょっと話を聞いてほしい。ちょっとでいいから。どうしても!』
大音量で響いたマリナの声に反射的に受話器から耳を離して顔をしかめた。
ちらりと時計に目を流して考える。
この勢いのマリナを断るのに要する時間と、話を聞いてやるのに要する時間を考える。
マリナのことだ、もし今断ったら、後で散々言われるに違いない。むしろ、断りきれるかが疑問だが。
その労力を考えれば、話を聞いてやったほうが早く済むに違いない。
「しょうがないな。じゃ、話しなよ。なんだい」
これでも、眠っていたところをたたき起こされたにしては、充分な回答だと思った。
何度も言うけど、コンサートの途中だったんだぜ?
ほんの少し私の体調が悪いだけでも、大勢のスタッフにまで影響が及ぶ世界だ。
それでも、親友がわざわざウィーンまで電話を掛けてきたのを断るなんて、冷たいじゃないか。
なのに、マリナときたら。
そう言ってやった瞬間に沈黙して、ややして言ったのが、
『あたし、今それを話したいんだけど、話せないの』
おどおどと申し訳なさそう声だろうが、怒らない奴がいたら、是非ともお目にかかりたいね。
あたしは、ははんと、思わず笑ってしまった。
「真夜中に、に楽しい冗談だったな。おやすみ、マリナ」
電話を切ろうとしたが、焦ったようなマリナの声に引き止められた。

『あ、あのねっ!』

引き止める為に、とりあえず口を開いただけで、話すつもりなんてないんだろうと思った。
マリナはそういう奴だ。決めたことは絶対に曲げない。
ちょっとやそっとで、話すはずなんてないのだ。

『あのね、実は和矢が重病なの!だから早く帰ってきて』

そのマリナのことばには全く真剣味が欠落していた。
『それで和矢は、すごく薫に会いたがってるのよ。早く来て、顔を見せてやって』
せかされて言うようなことでもないだろうに。
それに、何だって重病の和矢があたしなんかに会いたがるんだ?
嘘をつくなら、もうちょっと信憑性のあるものを考えればいいだろうに。
第一、コンサート前のバイオリニストに向かって、すぐ帰ってこいもないもんだ。
「1月末には帰る。それまで待たせておけよ」

『危篤なのよっ!そんなに待てるはずないじゃないのよ、バカ薫』

その瞬間、マリナの声がガラリと変化したのをあたしは聞き逃さなかった。
『和矢のために、すぐ帰って来ようぐらいの気持ちに、なんでなれないのっ!?
今までさんざんお世話になってきたのにさ!!』
だらだらと続くマリナの大声を聞きながら、あたしはふと、引っ掛かりを感じた。



それは本能的な反応だった。




頭で考えるより先に、心が感じていた。

違う、そうじゃない。これはもっと重要な、何か。

緊急だ。自分の知らないところで、緊急の事態が起こっている。間違いない。


けど、和矢じゃない。
じゃなきゃ、なぜマリナ本人が電話してこられる?
できるわけない。和矢じゃない。



………じゃ、誰………。


誰に、何が起こってるって………?



………それは、あの人のこと………?






受話器を握る手が、急激に冷えていった。

「わかった。帰りゃいいんだろ」
堅くこわばった唇が、何とかことばを紡いだ。
『今すぐ、さっそく飛んで来て。その足で、そのまま空港に行くのよ』
マリナの声も、殆ど心の中には届かなかった。
反射的に、サイドデスクの引き出しを開けて、時刻表を捲っていた。
「おい待てよ、今から行って乗れる機なんて………」
逸る気持ちを抑えながら、日本への便を探す。
そして、目に0:25分の文字が飛び込んできた。
今から急行しても間に合うかどうかだ。半ばパニックを起こしかけていたあたしは、その飛行機に乗れるかさえ、
わからなかった。
「0:55分がある…。間に合うかもしれない」
呟くように言うと、電話の向こうでマリナが叫んだ。
『それに乗るのよ!お願い、乗ってちょうだい!!』
「切るぜ。成田まで迎えに来てくれ。あ、和矢に待ってろって言っとけよ」
マリナの声が背中を押した。
必要なものだけをスーツケースに突っ込んで、他のものを処分してもらうようにフロントに頼むと、タクシーに
飛び乗った。


凍りついたように何も考えられなかった。
どくどくと心臓だけが早鐘のように鳴りつづいていた。
ただ、あの人に関わる何かだと、感覚が伝えた。
間違いであればいいと、願った。気のせいだと、誰かに言って欲しかった。

神様。お願いだから、間違いだと言ってください。


最終の搭乗案内で乗り込んだ機内で、どうしても眠れないときのために処方してもらっている睡眠導入剤を
飲み下した。
じゃないと、とても日本まで持たないと思った。
飛行機が夜の滑走路をゆっくりと進む。
夜のウィーンの街を背に飛び立つ飛行機のなかで、あたしはゆっくりと目を閉じた。



神様。お願いだから、間違いだよと言ってください。


けど、神は間違いだとは言っては下さらなかった。
誰も、あたしの考えを否定してくれる人はそばにいなかった。




この世の時計がすべて止まったんじゃないかと思えるほど、日本へのフライトは長かった。
馴れているはずの、14時間が、これほどまでに長く感じたのは初めてだ。
次第に鼓動が早くなるのを感じながら、あたしはまどろっこしい入国手続きを終えて、ロビーへ出た。

瞬間、顔を背けてしまった。

殊更に衆目を集める一団がいた。
まず、目に入ったのは、蜂蜜のように輝く金髪。
なぜ、ガイがここにいる………。
プラチナブロンドを揺らしているシャルル。

そして……、ガイがシャルルに話しかけるのに身体をすこし動かし、その影に隠れている人物が見えた。
和矢だった。
いつもと同じ人を和ませる彼の笑顔が、目に焼きついた。






神様。


お願いだから………。



間違いだと言って下さい。気のせいだって、誰か言って下さい。





神様………………………………………!






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