抱 擁


しん、と静まった住宅街に轟音とも言えるほどのエンジンの音が響く。
巽の愛車、AlfaSpiderのエンジンだ。
響谷家に続く角を曲がった時点で、エンジン音は抑えて走っていが、手を加えたアルファには、
静かに走るなど無理な相談だ。
巽はシフトを落としながら、車専用の門を操作する。



深夜2時、特徴のあるエンジン音が耳に届く。
バルコニーにいた薫は、眩しいほどの輝きを放つ望月から眼下へと視線を向ける。
予想通り、巽の車が敷地内を走ってくるのが見えた。
バルコニーに据えた椅子に座っていた薫は、手すりに足を掛けた状態で左手でもてあそんでいたグラスに、
ブランデーを継ぎ足した。


こんな時間まで何をしていたんだろう。


女と出かけるときには、アルファには乗らない。
「女性には、向かないよ」
身体がもっていかれるような、独特の加速力に女性は驚くからね、と腹立たしいまでに整った微笑を
唇に浮かべた巽を思い出す。
それは嘘だと知っていた。
彼が繰り返す女性との付き合いなど、遊びに過ぎないと、薫自身、よく知っていた。
そして、意外にも彼がその車を大切にしていることも。
女性が嫌がるのではなく、彼自身がその車に女を乗せることを嫌がっている。
薫はそう思っていた。
少しでも女性と出かける可能性があるときは、
決して巽はアルファには乗らず、レクサスを選択していた。
そのあたりを徹底させるのが巽だ。
だから、きっと巽にとっては女性よりも車のほうが大切なのだと。

何をしていたんだろうな…。

彼は、完璧な微笑に全てを隠してしまう。
昔から、自分以上に乱れた生活をしていたはずなのに、誰にもそれを見せなかった。
今でもそうだ。
どこで何をしているか、気付かせないし、聞かせる隙を与えない。
何をしていたんだろうな……。
知りたいような、知りたくないような、そんな思いで薫は継ぎ足したブランデーを飲み下した。
既にアルコールが回っている舌は鈍感になっており、本来なら口いっぱいに広がる芳醇な香りも、
もはや感じてはいなかった。
火照った顔に、冷たい風が気持ちいい。


響谷家所有の白いベンツの隣にアルファを横付けすると、無造作に助手席に放り出してあったジャケットを取り上げた。
近づいている高校の学園祭の準備に追われ、大学の研究室に戻ったのは、既に20時を回っていた。
まだ年若い巽はイベントの時には、格好の人物だ。
学園祭の雑用が、なにかと押し付けられる。
明後日はユキ辻口の研究室に行く日だ。
彼女の元で弾くことを考えれば、少しでも練習しておきたかった。
結果がこれだ。
つい夢中になってしまい、気付いたら既に22時を過ぎていた。
行きつけの店で軽い食事を取って帰れば、既に0時。
明日は大学で1講目から講義が入っている。
早く休むに越したことはない。


冷たい秋の風を身体にうけて、足早に邸内に向かいながら、ふと巽は家を見上げた。
薫の部屋から、まだ光が漏れているのに気付いたからだ。
まだ、起きているのだろうか。
中学の一時期から乱れだした薫の生活は、高校に入っても、
改まってはいなかった。
アルコールの量も目立って増えてはいないが、減ってもいない。
身体のことを考えると、何としてでも止めさせたいところだが、少しでもストレスが解消されているならばと、
多少のことには目を瞑っているが、あまりひどいなら、注意をしておくに越したことはない。

でないと、彼女の場合は命に関わる。


僕は静まり返ったホールを横切り、音を立てないように、螺旋階段を昇ると、僕は明かりのもれる薫の部屋をノックした。

返事はない。

もう一度、先程よりは強くノックをし、僕はその扉を押し開いた。
「薫?起きているのか?」
小さく声を掛けながら、僕はベッドへと目を向けた。
一人には大きすぎるような、ダブルロングのベッドは、メイドが整えたままで、皺1つなかった。
少し首を傾げて、ふと巽は窓が開いていることに気付いた。
10月の冷たい風が吹き込んでくる。
昼間なら、まだ日差しを暖かく感じるが、夜ともなれば吹き付ける風は、随分冷たくなってきた。
まさか、と思いながらバルコニーに出ると、予想通りというか、薫がそこにいた。

バルコニーに据えられた小さなテーブルの上には、今まで飲んでいたと思われるブランデー。
籐の椅子に腰掛けて眠っている薫の白い手には、バカラのグラスが握られていた。
吹き抜ける風が、無造作に羽織っているカシミアのショールの裾をはためかせていた。

「薫、起きなさい」

声を掛けると、白い瞼が持ち上がって、物憂げな三白眼があらわれる。
アルコールが回っているせいか、ゆるやかに動く瞳が、驚くほど艶めかしく、瞬間、見惚れてしまう。

見ほれて声が止まってしまった自分に微かに首を振り、自分を取り戻しながら、薫の肩に手を掛けた。

「薫?」

「何、今頃帰ったの?」

とろんとした寝起きの声で、薫が言った。

「いいから、中に入りなさい」

凍死でもしたいのか、と怒鳴りたいところだ。
この様子では、今日はかなりアルコールが入っていることだろう。
それでこの気温の中で眠っていられると、本当にどうにかなってしまいそうだ。

気分良く寝ていただろう薫はすこし不機嫌だった。
いやいやと言ったように、椅子から立ち上がると、ふらふらと部屋へと戻る。

「すこし、身体を温めてから寝たほうがいい」
「いらない。いいから、兄貴も寝ろよ」

僕の手を振り払う時だけ、普段の力が戻っているようだった。
今の今まで抱きしめたという衝動を抑えていた僕にとって、それは痛いまでの拒絶に感じた。
振り払われた時の衣擦れの音が、たまらなく哀しい音に感じた。

「じゃ、ゆっくり休むんだよ。おやすみ」

開け放たれたままだったカーテンを閉めると、僕は、ひとこと言い置いて、部屋を出た。


均整の取れた背中を見送ると、薫は大きなため息と共にベッドに身体を投げだした。
触れられた肩が、驚くほど熱い。
触れられた右肩を、そっと左の手のひらで包み込んだ。

あの綺麗な手は、今日は何を触れてきたのだろうか。
女性か、ヴァイオリンか。それとも、もっと別なものか。
考えると、どきどきと心臓が脈打つ。

アルコールが回っていたはずの頭は、一気に冴えてしまった。

今晩も、眠れない夜になりそうだった。




それから、1ヶ月近く。
自宅では相変わらず、顔をあわせることは少なかった。
むしろ、高校で講師と生徒として顔を合わすほうが多いのではないかというほどだった。

「おはよう」

珍しく、その日は朝食が兄と一緒になった。
兄の向かいに座り、メイドから熱い烏龍茶を受け取る。

「珍しいな、朝から烏龍茶か?」

いつも通りの紅茶のカップから目を上げて、巽が問いかけた。
烏龍茶用にわざわざ揃えたポットからすかし模様の入った磁器のカップにお茶を注ぎ、兄へと差し出した。

「結構、美味しいよ。はまってるんだ」

いつものような気だるげな雰囲気でありつつも、カップを差し出す薫は、朝にもかかわらず、
少し明るいように見えた。

「兄さん」
自分にもお茶を注ぎながら、薫は、上目遣いに呼びかける。

「なに?」

変化のない日常、それでも着実に深まっていく兄への愛情。
夢中でバイオリンを弾いていても、ふと手を止めれば波のようにその気持ちは迫ってきた。
アルコールを飲んだって、気がまぎれるのはその瞬間だけ。
離れていようと、もはや兄のことを忘れることなど、愛さないことなど、できるはずもなかった。
何か、変化がほしかった。
兄を兄としてでもいいから、独り占めして、全身で彼を感じたかった。


「軽井沢の別荘、行きたいんだけど…」

「もう軽井沢は冬なのに?」

「あぁ…だめ?」

薫と一緒に朝食をとるなんて、随分久しぶりのことかもしれない。
それでも僕は、常に薫を見ていた。
廊下ですれ違う度、朝、こんな風に食堂で顔を会わせる度、研究室の窓から覗いては、
中庭を横切る薫を探していた。
ほんのひとときも、目を離してはいられなかった。
それほど、僕は薫に惹かれてしまっていたのだ。

兄、という立場を忘れてしまいそうなほどに。


そんな中、薫と二人で別荘に出かけるのは気が引けた。
けれども、それよりも、不安定に揺れる薫の視線のほうが気になって、放っておけなかった。

そして、彼女と二人きりになることは、この上なく恐ろしく、この上なく嬉しかった。

「僕の車で行こうか」

「アルファ?」

「そう」

「いいね」



雪こそ降っていないものの、11月の軽井沢は真冬のような寒さだった。

関越道から上信越道を順調に飛ばすと、軽井沢までは2時間半程で到着する。
真夏の賑わいはすっかりと息を潜めた旧軽井沢銀座を通り抜け、別荘を目指す。

別荘に着いたのは、14時頃だっただろうか。

いつもの通り、別荘で何か特別にすることがあるわけではなかった。
僕と薫はバイオリン2台を積み込み、ビオラとチェロをそれぞれ1台ずつ積んだ。
僕のアルファは2ドアで決して広いものではなかったが、2泊分の荷物は、あってないような後部座席に収まり、
楽器もトランクに納まった。

必ず弾くとは限らなかったけれども、寒すぎて、夏のように裏山を散策したり、沢で遊んだりするわけにはいかなかった。
普段の練習を忘れて、気侭に楽器を弾くくらいの時間はあるだろう。

僕は連日の雑務から開放され、別荘に着いてお茶を飲むと、そのままベッドに身体を伸ばした。
運転の疲れもあいまって、すぐに眠りに付くことができた。
その間、僕は薫も部屋で寝ているものとばかり思っていたのだ。
眠っていなくても、本を読んだり、一人で何かを弾いているか…。

それくらいにしか思っていなかった。


目が覚めたのはどれくらい経ってからだろうか。
時計の針は、17時を指し、既にあたりは真っ暗だった。
クリスマス前後ならまだしも、こんな半端な時期に別荘に来るのは僕らくらいのもので、
別荘の立ち並ぶ近辺はしんとした静寂に包まれていた。




別荘に着くと、別荘番をお願いしている夫婦が
手作りのケーキをお茶を用意していてくれた。
素朴だけど、素材の味を活かしたケーキは、いつもの通り美味しかった。

ケーキを食べ終わると、兄はすぐに部屋にこもってしまった。
一度サービスエリアで休憩を取っただけで、3時間近くも運転していたのだから、疲れていても不思議ではない。

楽器を取り出して、巽を起こしてはと思って、薫も同じようにひとやすみしようとベッドには入ったのだ。
本を読みながら、うつらうつらと眠り始めた。
けれど、すぐに悪夢にうなされて目覚めた。

巽の夢だった。

眠っている巽に、口付けする夢。
甘く、残酷な夢だった。
決して現実ではありえないのだから。

目覚めた時、うっすらと汗をかき、心臓は高鳴っていた。

どうしようもなく、薫は逃げるように別荘を飛び出した。
現実ではなくても、夢に見るということは、本心でそれを願っているということだ。
まざまざと、抑え切れない巽への愛情を認識し、身体が戦慄した。
すぐ隣には巽がいる。

国立の本家とは全く違う兄までの距離。
薫は、居ても立ってもいられず、逃げるように別荘を飛び出してきたのだ。

でないと、夢の中のように巽に触れてしまうような気がしたのだ。

きっと、アルファで来たことも関係しているのだろう。
妹だからのはずなのに、巽の最も大切にしてるアルファに、他の女性の触れられない聖域に、
自分が入り込んだことで、何かしら、興奮していたのだろう。

自分はいつもそういう目で巽をみているに違いない。
はたから見たら、それはどんな感じなのだろう。
隠しきれているのだろうか。
そうだとして、いったいいつまで持つのだろうか、この理性が。
すでに枯れ木になった並木道を歩きながら、薫は考えた。



「薫がどこに行ったか知りませんか?」

目覚めた巽は、キッチンですでに夕食の支度を始めていた別荘番の主人に、尋ねた。
「いえ…お部屋で休まれているとばかり…。いらっしゃらないのですか?」
「えぇ…。こどもではないので、大丈夫だとは思うのですが…。
どうも、最近の薫は精神的に不安定になっているみたいで…」

原因はわからなかったが、それは間違いなかった。
でなければ、誰が真冬の軽井沢へ行こうなどと思うだろうか。
高校生が、酔いつぶれるまで一人で酒を飲むだろうか。
心臓病を悪化させるほどに、ストレスを溜め込むだろうか。


「探してきます…」

それを言うのが、精一杯だった。
体中が、薫で支配されていたから。

僕はトレンチコートを羽織ると、別荘を飛び出した。

今、薫は一人で何をしているだろうと思うと、不安でならなかった。
両手から砂が零れ落ちるように、こどものころから知っている薫が、さらさらと逃げていくような気がしていた。

僕は小走りに薫を探してまわり、しばらくしてその姿を見つけた。


「薫!」


ぼんやりと歩いていたところを呼び止められ、ふいに現実へ引き戻された。


「上着も羽織らずに、なにをしてるんだ」

少し息を切らしているところを見ると、兄は私を探しに来たようだった。
心配そうに、兄は語りかけ、ごく自然な素振りで腕を伸ばし、私の肩に触れた。

その暖かさが、その優しさが、先ほどの夢を思い出させた。
折角忘れかけていた衝撃が、胸を貫いた。
そのまま、抱きしめて、美しく整った唇に口付けたい衝動に駆られた。
バカだと思いながらも。

その衝撃を抑えるため、私は精一杯兄から顔を背けて、唇をかみ締めた。


薫は、上着一枚、羽織ってはいなかった。
僕は着ていたコートを脱いで、薫に羽織らせようとしたが、その瞬間、彼女が震えたのを痛いほどに感じた。

泣いているのだろうか、顔を背けてしまった彼女の表情は伺えなかった。
けれど、ひどく何かを思いつめていることに違いはない。


僕はどうしようもなく、手にしていたコートで包み込むように背後から薫を抱きしめた。
薫は、泣いていた。
熱い涙が、薫の白い頬を伝い、僕の手の上に落ちた。


それが、最後だった。

告白しよう。
僕はそのとき、薫を妹として抱いてはいなかった。
一人の男性として、一人の女性と思い、僕は薫を抱きしめてしまった。

誰にも気付かれない、誰も知らないことであったとは言え。


僕は、そのとき始めて、自分を抑えることに失敗し、男性として薫を抱いてしまったのだ。




これが、僕の理性の最後だった。

残ったのは、愛情でもなんでもなく…。




狂気のみだった。





2005年夏に開催された『巽祭』に奉納させていただいた作品です。
大辞典1のイラストをイメージして書きました。

BACK