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「全くひどい母親だね」
響谷薫は長旅の疲れで機嫌が少々悪かった。
が、彼女の不機嫌の理由は他にもある。

「うるさいわね、いつまでもくどくどと。見苦しいわよ」
華やかな巻き髪をかきあげるようにして、薫子は悪態をつく娘を見やった。
場所はパリ郊外のアパルトマン。それなりの広さと格式のあるアパルトマンだ。
日本の誇るピアニスト、響谷薫子のフランスの住まいだ。
春休みに薫は、パリの音楽学校に研修に来ていたが、その間薫子の家に身を
寄せることになっていたので、薫子が付き人を連れてわざわざド・ゴール空港まで
迎えに来たのだが。

「言いたくもなるね!」
「あんたが、突然そんな格好でやってくるからでしょ!わかるわけないわよ」
母親らしからぬ、開き直りかたで薫子は言い放った。
「お生憎さま。変わったのは髪形くらいだろう。娘の顔も、わかんないのかよ」

言い合いの原因は、ド・ゴール空港にあった。
薫子が迎えに来たのはいいが、ばっさりと髪を切って雰囲気の変わってしまった
薫に気付かず、前を素通りしたのだった。
『薫子さん、ここなんだけど』
薫が声をかけて初めて、薫子は少し離れた所に立っていたボーイッシュな女の子が
薫だと気付いた。

「そんなつもりはないんだけど、覚えてなかったのかしらね」
悪びれる様子もなく、薫子はメイドの運んできた紅茶に手を付ける。
「ま、いいじゃない。私と薫が空港で大切だったのはたったひとつ」
何だかわかる?とそんな風にいたずらっぽい笑みを薫子は見せた。
首を傾げて、薫は答えを催促する。
「簡単よ。会えれば良かったの。私が見つけようが、薫が見つけようが大した
ことじゃないわ」
「あっそ……」
呆れはてたようにため息をつくと、薫はそういって黙ってしまった。
薫がカップを持ち上げたときに、ソーサーの上に置かれたスプーンがかちゃんと
小さな音を立て、沈黙を助長した。


「そうねぇ」
しばらくの沈黙の後、薫子が突然ことばを発した。
すこし嬉しげな響きの篭った声に、何事かと視線を上げれば、にやにやと
笑っている。
考えたくないけれど、そういう時、自分の中に確かに薫子のDNAを感じる。
「今から、ピアノを見ようと思っていたんだけど、……ショッピングにいこっか?」
ティーカップを手に包んだまま、薫はまだ不機嫌な顔を崩さない。
「疲れてるんだけど…ピアノなんて弾かすつもりだったの?」
「当たり前でしょ。薫は巽以上にピアノ嫌いなんだし。時差ぼけはね、どんなに
辛くっても、一日目に寝ないことがポイントなのよ」
だから、遊びましょと気軽に笑う。
「それに。薫、その服、メンズでしょ?いくら身長があったって、メンズじゃラインが
合わないって、やめなさい」
「………やなひと」
「あら、私のセンスを疑うの?男装なんて、ナンセンスよ。あなたは綺麗なんだから、
もっと、こう…ユニセックスな雰囲気を纏えば、ずっと素敵な女性になれるわ」
母親の勘、とでも言うのだろうか。
髪が短くなったことに対して、何も言おうとはしない。
もちろん…髪を切ること自体は別に変なことでもない。小さな頃は何となく
伸ばしている子でも、中学にもなれば自分の好きなようにどんどん変えていくの
だから。
それでも薫子は、今の薫のある種の決心のような“何か”があることを理解している
様子だった。
「あぁ、ピアノは明日以降に見るわ。学校とバイオリンの練習で忙しいかもしれない
けど、仕方ないわね」
奔放な性格の薫子は、いつも好き放題、言いたい放題だ。
カップをソーサーに戻すと、薫は大きくため息を付いた。とりあえず、薫子に
逆らうことはできそうにもない。



「その靴、すてきね」
薫を連れてショッピングに出た薫子がまず最初に選んだのは、靴だった。
「いい?薫。覚えておきなさい」
店員がサイズを見に行っている間に、薫子は優しげな視線で薫を見つめた。
「靴はね、他の何よりもいいものを身に付けなさい。いい靴を履いていれば、
その靴がちゃんといい所へ連れて行ってくれるのよ。だから、いい靴を選んで、
大切に履きなさい」
そう言って、薫子が薫に買い与えたのは、革の紐靴だった。
フォルムが洗練されていて、パンツに良く合う。
つぎは、シャツ。イージーオーダーのシャツを4着、色と襟の形を変えて買った。
そして最後はパンツ。
驚くほどのスピードで薫子は薫に似合うものを選んでいく。
どれも、決して女性を意識しないデザインのものばかりだが、ラインは綺麗で
与える印象は、悪くない。
「うん。いい感じ。好みのハンサムに仕上がったんじゃない?」
満足げに薫を見て、薫子は自慢げに笑った。
自分自身のものを買ってもらったにも関わらず、薫子の買い物に付き合わされた
ようにさえ感じる。
不思議なことに、薫子の直感で選ばれたものは、確かにセンスも良く自分に
似合っている。
邪魔な荷物を全て自宅に送る手配をすると、薫子は食事に誘った。


「肝要なのはね、自分を知ることよ」
したり顔で、食前酒を口に運ぶ。
幾つになってもその華は失われず、相変わらずの美貌だと、確かに薫も思う。
それでも昔のままでもない。口紅は昔のようにピンク色を付けなくなった。今は
赤やボルドーが殆どだ。
グレーのペンシルで描かれていた眉も、今はブラウンのシャドウに変えられていた。
今の自分に最も合う姿を、ちゃんと認識している証拠だろう。
「でも、巽のように冷めた目で自分を見るようになっちゃダメよ。薫の場合はね」
「なぜ?」
「あなたの魅力が失われるからよ」


「巽はね、自分で自分を制御するからこそ、あれだけの音を出せるの。どうすれば
自分を魅力的に見せるかを、そこまでをもう理解しているのよ。薫は違うわね。
あなたは、自分でも知らない自分の魅力を引き出そうとして、音を出しているの。
だから、あなたが自分に興味を失ったら、あなたは芸術家としてはダメになる」
音を通して、薫子は自分を見ている。
余りに的確で驚く反面、少し寂しくもあった。
彼女が音で自分達を捕らえるということは、彼女が生徒をみていることと大した
違いはない。甘えが許されないように感じる。
巽に感じるような、愛情を感じられない。
「あなたのピアノが下手なのも、そのせいね。バイオリンで表現しうることがピアノで
表現できないの。そこに苛立ちが生まれてしまってる。巽は、あれはただ、
ピアノよりバイオリンが好きなだけでしょ。ちっちゃい頃しごいたから、トラウマでも
あるのかしら」
「わからないな。兄さんは自分を見せないから…」
薫は、会えば薫子に随分と可愛がってもらった。会う機会は殆どなかったのも
事実だが。
海外から帰ってくるときは、巽によりも多くのお土産を買ってきた。
二人きりで出かけることも、ままあった。ただ、レッスンを見てもらった時間は、
巽よりもずっと少なかった。
薫の音楽の教育は、殆ど巽に任されていた。直接、薫子にピアノを見てもらった
のも本当に短い時間だった。
自分が産まれる前は、薫子も今より日本に居る時間が長かったと言うし、薫を
身ごもって日本に居る間、ずっと薫子は巽にピアノのレッスンをしていたと聞いた。
「下手なのは、薫子さんのレッスンをしてもらってないからだよ」
精一杯の甘え。
「妬いてるの?薫はいつだって、巽の後ばかりついて、私になついたことなんて
なかったじゃない」
後ばかりついて…。
「今は…そんなことない」
否定したことばには、力が篭ってしまった。
ふふん、と意味ありげに、薫子は笑っただけだった。


影響下を出たいと、その迷いの真っ只中にいた。
そして、自分以外の人間から、巽の影響を受けていることを指摘されるのを、
今の薫はひどく嫌っていた。


「悔しいのなら、巽を越えなさい。薫が追いかけるんじゃなくて、巽に追いかけさせて
みせなさいよ」


悪魔なのか天使なのか。
自分の影響を巽に及ぼすことが出来るなんて、考えもしなかった。
それができるのなら、今の状態に何か変化を生ませてくれるかもしれない。

すこし心が晴れた気がして、ワイングラスを傾けた。
3分の1ほどになったグラスに、薫子はワインを継ぎ足した。

「悩まないことよ、薫。フランスは未成年の飲酒もオッケーよ。たまには女同士で
飲むのも悪くないと思うわ」




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