いつか日は沈み

















何かが違う。

真っ先に思ったことがそれだった。


助けて…。



次にそう思った。そして、最期に……。




もう一度、顔を見たいと………。





ほとんど眠らないままに、朝を迎えた。
そんな日だった。
いつまでこんな日が続くのだろうと、嘘の笑顔に取り繕われた欺瞞の日々。
毎日毎日、そんなことばかりを考えていたが、その夜は格別に哀しく、狂おしかった。


昨夜、夜遅くに帰宅した兄とすれ違った。

おかえり、外は少し冷えてきたんじゃないか。

ただいま、お前はまたそんな薄着で、風邪をひくよ。


そんな他愛ない会話をするにも、辛くて。

離れ際に、彼のものでも自分のものでもない残り香が、彼を求めて止まない心をさらに傷つけた。
また、女が変った。
この前と、香水の香りが違う。
多分この香りは、ディオールのDUNEだ。嫌いじゃなかったはずのその香りが、いやに臭く感じる。
彼はどんどんと女を変えていく。
そのうち誰かに刺し殺されるよと、冗談で言ったことがある。
彼は笑っていた。
二股はかけないよ、と。


そんなことは知っている。
付き合っている間、彼は誠実だ。二股はしないし、相手には優しいし、紳士的だし。
でもなぜか続かない。すぐに別れてしまう。
けれど、別れたその瞬間にはまた別の女がやってきて、拒むことなく彼は付き合いを始める。
一度だって長続きしたためしがないのだ。
いっそ結婚くらいしてほしいのに。
そうすりゃ、その大勢の女性の中に一度たりとも入れない自分を嘆く必要も、嘆く自分を嘲笑することもないのに。
彼が、確かに愛している人を見つけてさえくれれば、諦めもつくかもしれないのに。


悶々と考えているうちに、寝るタイミングを逃してしまった。






手を付けらることのないピンクがかった赤い液体が、しゅわしゅわと炭酸のかすかな音を立てていた。
『誰を見ているの?』
3ヶ月ほど付き合った相手から、突然そう尋ねられた。
『誰って?』
なかなか上品で優しくて、いい女性だった。
聡明そうな眼差しが気に入った。
無理に連れてこられたといった様子で、コンパに来ていた様子が可愛く思えたのだ。
話の成り行きで付き合うことになった。
とはいっても、コンクールの審査に掛かりきりになり、ほぼ2週間ぶりとなるデートだった。
食事のあとでバーに寄り、そこで何気に彼女が口にした。
『なぜ、誰もあなたと続かないのか、わかったわ。あなたは優しいけれど、それだけ。決して、愛そうとはしてくれないのね』
『目一杯、愛してるよ』
スコッチをゆっくりと傾けながら、頭の中で次はどう持っていこうかと考える。
彼女の柔らかい髪に指を絡ませ、じっとグラスを見つめる彼女を自分のほうへと向かせた。
『愛してないわ。愛そうともしてくれない。いっつも誰か別の人を求めてるじゃない』
ただの嫉妬ではなかった。日々、自分を見つめられていた結果だった。

冷静な、観察だった。

『あたしを見ないで、誰を見ているの?誰を抱きたいの?』
責める口調ではなく、純粋な質問なだけに、その言葉は僕のこころを傷つけた。
大きな瞳に、うっすらと涙が溜まる。その涙を、心の底からぬぐってあげようという愛情はなかった。
ただ、こういうときにはぬぐってやるものだという、まるでコンピューターが回答を打ち出すような、そんな対応しか
思い浮かばなかった。
そっと右手を伸ばすと、彼女は身を引いた。
『やめて、触れないで!』
カタンと音を立てて、彼女は店を出て行った。

『悪かったね』

静かな空気を乱してしまったことを、カウンターの中のバーテンダーに一言わびて、僕も続いて店を出た。
愛していなかった彼女をそれ以上追いかける気にはならなかった。
ただ、ひどく傷付いていた。
彼女に振られたという事実ではなく、彼女に言い当てられた真実に。




僕が見ているのは、昔から薫だった。
この腕の中にかき抱いて、口付けをしたいと、いつも考えていた。

昨夜すれ違った薫は、さらに美しさを増したように思う。
抜けるように白い肌は、まるで真珠のような滑らかさで、輝いている。
シャワーの後だったのだろうか、柔らかくゆれる髪は、少し水気を含んで艶めかしい影を与えていた。
一度でいいから、その身体を抱きしめたいと思った。
どんな女性でも代わりになどなってはくれない。
薫の、その愛しさの代わりには。
同時に、そんなことを考えてはいけないと押さえ続け、僕はその狭間でもがいていた。
愛してはいけない相手を愛し、それを隠しつづけることが、こんなにも苦しいものだとは思ってもいなかった。
忘れなければならないと、愛してはいけないのだとどんなに自分に言い聞かせても、
心のうちの愛情は募るばかりだった。





眠れないまま朝を迎えて、ドレッサーの前に立った。
寝不足のためか、普段以上に顔色は冴えなかった。
もともと白い肌の上に、皮膚が薄くて、ちょっとした寝不足でもすぐに顔色が悪く見える。
………やだな………。
少しでも顔色が悪いと、周りがなにかと心配し、気を使う。
それが面倒なのだ。
そんなことを考えていた矢先に、ふっと苦しさを覚えて胸に手をやった。
もちろんそれで楽になることはないのだが、押さえずにはいられないのだ。
だが、次の瞬間には異常を感じていた。

これは普通の発作ではない。痛みの種類が違う。

体が発する警告を受け取っていたが、もう一歩も動ける状態ではなかった。


ガシャンと耳の傍でビンの落ちる音がして、自分が倒れたことを知った。
助けて……!
できたのは、心の中で助けを呼ぶことだけだった。
「……けて、兄さん……」
死ぬことなんて怖くなかったはずなのに、心の中で助けを求めていた。

会いたいと、死ぬ前にもう一度彼の顔を見たいと…。


彼に見守れて死にたいと………。



かすむ脳裏でそう考えた。






「巽様、今日はコーヒーになさいますか?それとも紅茶にいたしましょうか?」
朝食を取り終えた巽にメイドが確認した。
『誰を見ているの』
その一言が心にひっかかり、すれ違った薫が美しくて、妖しく胸がうずいて、眠れなかった。
「コーヒーにしてくれ」
寝不足ぎみの頭を微かに振って、巽は言った。
言って、再び巽は手元の新聞に視線を向かわせようとして、ふいに顔を上げて振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「いや……誰かに呼ばれた気がしたんだ。気にしないで」
確かに声は聞こえなかったが、誰かに呼ばれる気配がした。
振り返った先にはメイドしかいなかった。
不思議そうに問いかけるメイドに、巽もまた腑に落ちない様子で首を傾げて答えた。


瞬間、だった。


ガラスの割れる音が館に響いた。

巽にコーヒーを運んできたメイドが不安げに足を止めた。
「何かしら」
音は拡散して、発生源を掴むのは難しい。
メイドが誤って調度品を落としたのだろうか…。


けれど。


冷静沈着な巽が、大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
何故かその瞬間に、薫の声を聞いた気がしたのだ。
先程の自分を呼んだ気配が、彼女のものに思えてならなかった。
巽は直感的に薫の部屋へ向かっていた。

ホールから伸びる階段を2段飛ばしで駆け上がり、3階の薫の部屋を開け放った。
その広い部屋の片隅で、薫が倒れていた。
「薫!?」
僕の大きな声に、反応さえない。
割れた窓ガラスから吹き込む冷たい風がカーテンを揺らしていた。
薫の傍へ駆け寄って腕の中に抱き上げると。意識を失った体はぐったりと僕にもたれ掛かり、力なく手が垂れた。
その顔はすっかり顔色を失って、蝋のように白かった。
喘ぐような息を繰り返す唇の端には泡が溢れ、一目で危険な状態だと見て取れた。

「巽様!?」
「救急車を呼んで!早く!」
遅れてたどり着いた執事に向かって、怒鳴っていた。
「早く!!」

薫はドレッサーのすぐ傍らに倒れていた。
周りには倒れたときに落ちたと思われる、化粧品が散乱していた。
「薫、薫…」
無駄だと思いつつ、声を掛けつづける。
散らかったもののなかに、ニトロは見当たらない。
ドレッサーの上にニトロのケースが置かれていたが、飲んだ気配はない。
意識のない薫の体を絨毯に横たえると、ケースを取り上げた。
タブレットを吸収しやすいように噛み砕いて、口移しに薫の口に含ませてやる。
それでも楽になった様子は見受けられない。
割れた窓から入り込む風から庇うようにその華奢な体を抱きしめる。
冷たい空気が入り込む窓ガラスに目をやると、バルコニーにはスワロフスキーのハクチョウが無残な姿で転がっていた。
人を呼ぼうと思って、ガラスを破ったのだろうか。

「薫……」

先程、自分を呼んだのは、薫に間違いない。
声に出して呼んでも聞こえはしないだろう。目を閉じ、腕の中の薫に向かって、心の中で呼びかけた。
死なないでくれ、薫、薫、薫………。







プップップッ………。
心電図の音が規則正しく響く。
面会を許されたのは、丸二日経ってからだった。
未だCCUに収容されているため、巽はその身に医療用のガウンを羽織ってベッドの傍へと歩み寄った。
うっすらと目を開けて、薫は巽を見上げた。
「に……さん……」
かすれた声で、薫は微笑みを浮かべた。
酸素マスクを止めるゴムが、頬に食い込み、色白の頬に唯一の赤みを与えていた。
脂汗の滲む額にそっと手を伸ばすと、しっとりと冷えた感触が伝わった。
「こ……こ……」
「大丈夫、病院だよ。身体に障るから、喋るな」
差し伸べられた手をそっと包み込んで、汗の絡まる髪を梳いてやった。
安心したように、また笑みを浮かべると、ゆっくりと焦点の合わない目を閉じて眠りに入る。
部屋で抱きしめた薫は、何の反応もなく僕の腕の中に納まっていた。
眠っても、ほんの微かに浮かべられたその笑みが、僕を安心させた。
「患者に負担が掛かりますので、そろそろ………」
退室を促すナースに、巽は頷いて握っていた薫の手に優しく毛布を掛けた。
名残惜しそうに、もう一度薫の髪を撫でて、ナースに言われるがままに出入り口に向かった。


外とCCUを隔てるガラスのドアまで来た時、悲鳴も似たナースの叫び声が、僕の心を揺さぶった。
「先生!血圧が……」
それは、明らかに異変を知らせる声だった。
荒い動作で、医療器具の間から医師が姿を現した。
どくんと、僕のこころが一緒に鳴った。

死なせない。僕の知らないところでは死なせない。


僕は、薫の元へと引き返していた。
「どうしたんですか?」
「治療の妨げになりますから、出て行ってください」
先程、穏やかな笑みを浮かべていたはずの顔は、苦しげに歪み、荒い呼吸を繰り返していた。
「薫っ!!」
まるで人形を扱うように、ナースと医師は次々と薫に管を繋ぎ、治療を施す。
長時間続けられる点滴の為に青く腫れあがった腕に、医師は容赦なく太い針を突き立てる。
あまりに痛々しい姿に、目をそらした。


死なせない。
僕より先には逝かせない。


ベッドから少し離れた位置に立ち、その様子を見守る。
慌しく医師が手当てを施しても、なかなかその症状は楽になっていない様子だ。
居ても立ってもいられず、僕はナースを押しのけるようにして、薫の傍に戻った。
「邪魔になりますから、離れてください」
ナースの制止を無視して、僕は再び薫の手を取った。冷たく汗の滲んだ手を包み、自らの胸元へと引き寄せた。


わかるだろ、薫。

僕はここだ。目を開けてごらん、こちらを見てごらん。

聞こえているだろう、薫。

逝く時は僕も一緒だよ。

だから、僕をごらん。




「先生、安定してきました」
心電図を写したモニターを注視していたナースが、静かな声で医師に告げた。
確認するように、医師もモニターをしばらく見つめていたが、軽く頷いた。
「大丈夫だな……」
肩の力を抜いて、医師は言い、薫の手を握り続ける僕を見た。
「祈りが、通じましたかね」
「良かったですね」
同じく微笑み、ナースも言った。
僕はしばらく付き添うことを認められ、いつまでもその手に触れていた。

その、美しい手を………。


彼女の身体は、医者の想像よりもずっと早いペースで悪化していた。
初めて発作を起こしたその日から、僕の望みをあざ笑うかのように、発作の回数は増え、酷くなっていく。
その様を、僕は黙って見ているしかなかった。
発作の苦しみについて薫が話すことは殆どなかったが、それが相当のものであることは発作の時の顔をみていればわかる。
けれど僕はそれを想像することしかできない。
どんなに苦しいかと想像をめぐらせても、結局は体験したことのある苦しみしか、理解することはできないのだ。
代わってやることもできずに。


こんなにも愛しているのに。
この愛を告げて、その愛で包み込むことさえ許されない。
僕はどうしたって“兄”という立場の下でしか、彼女に接することは許されないのだ。
どんなことでも良い、薫の為に何かをしたい。
どんなに利己的なものかは、僕も充分承知していた。
それでも、何かをしてやれるという幸せを、僕は感じたかったのだ。
自己満足であると、気付いていながら………。






「また、来てたの?」

眠っているとばかり思っていた薫に声を掛けられて、僕は窓の外に向けていた視線をベッドに戻した。
まだ少しぼんやりとした憂いを湛えた瞳が、まっすぐ僕を見つめていた。
薔薇の花弁のような唇はうっすらと微笑んでいる。
「目が覚めたのか?」
薫は少し頷いて、寝返りを打ち、僕のほうへと向き直った。



目覚めた時、兄がいることが、こんなにも幸せなことだとは知らなかった。
愛していた。愛してるけれど、それを告げることもできず、その狭間でもがき、その日々に疲れていた。
あの時、確かにそのまま死んでしまってもいいと思った。
それなのに、CCUで彼の優しい手を認識してしまった瞬間に、私は生きたいと思った。
ずっとずっと彼の傍で彼を見ていたいと、彼の手に触れていてほしいと、望んでいた。
その手を、独占したいと………。

執事が教えてくれた。
最初にあの部屋にたどり着いたのは、兄だったと。
そして、もう少し発見が遅ければ、ダメだったかもしれないと。
意識を失う最後まで、彼を求めていた。

彼を呼んでいた。


祈りが通じたかな………。


ガラにもなく、乙女チックな考えが薫に苦笑を招いた。


その手を独占できるなら、どんなに苦しんだっていい。
愛されていなくてもいい、妹のままでもいい、傍にさえいてくれるのなら……。
目覚めれば、そこに彼がいる。
それは、なんて幸福なことだろう……。





穏やかな息遣いで薫が眠り始めたことを見届けて、僕は立ち上がった。



入院してから一週間が過ぎていた。予定では、まだ後10日程の入院が必要だった。
その間に、3学期の期末試験が終わり、春休みに入ってしまう。
3学期の成績は総合評価で、たとえ試験が受けられなくても、さほど成績には響かないだろう。
教科によっては、課題を提出すれば、評価してもらえることになった。
実技試験は日程を調整してもらったが、これも問題ないだろう。
ただ………。


薫は入学の歓迎式典でのカルテット奏者に決まっていた。
高校生とは到底思えないその音色と技術からすれば、彼女の右に出るものはいないと思っていた。
そして創立以来、カルテット奏者が1年生から選ばれたのが薫が初めてであったことは、それを証明していた。
だが昨日、器楽科の主任に呼ばれ、薫がその奏者から外れたことを聞かされた。
理由はもちろん、彼女の身体にあった。
どれほど演奏が素晴らしくとも、演奏会に出られなければ意味がないのだと、そう言われた。
それは間違いではなかった。舞台に立てなければ、どれほど素晴らしい技術を持っていたとしても、意味がないのだ。
それを知れば、きっと薫は無理をして、その身体に負担を強いるだろう。
そんな彼女を見ることに、僕は果たして耐えられるのだろうか。

これ以上、苦しむ彼女を見ていられるだろうか。



僕は、日々、見えぬ何かに追い立てられるような焦燥に駆られていた。
愛してはいけないと、忘れなければならないという理性は、もう長くは持たないだろうと思えた。


いつまでこの穏やかな顔を見ていられるだろう。
見つめることに耐えられるだろう。
彼女の傍らにいるというだけで、僕は苦しかった。
内奥から溢れ出る情熱を抑え続けることが、もう出来なくなっていた。
愛する女性の傍にいることが、こんなにも苦しいものだとは思わなかった。



薫なしでは、僕は生きていかれない。
だが、目の前に薫がいれば、いつか僕はこの情熱をぶつけてしまうだろう。

ならば、その前に僕は自らを葬ってしまおう。
薫より先に。
この情熱を抱えたまま、闇へ沈もう。


しかし、どうやって…………。






僕は、すでに狂気に捕らわれていたのだ。


彼女がこの世に産まれ出でたその時から………。





設定は薫が高校一年生。『愛からはじまるサスペンス』のなかに、
「生死に関わるほどの発作は2,3年に一回で、去年の冬にやっている」という記載があるのですが、一応、その発作時ということで。

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