慈雨              








その練習室には長時間にわたって途切れることなくヴァイオリンの音色が響いていた。

まだ日のある時間から続くその音は、深夜となった今もやむ気配なく鳴り響く。



額から汗が流れ落ちるのを気にする様子もなく、響谷薫は一心不乱に弓を動かし続ける。
納得がいかなければ、徹夜してでも気のすむまで弾き続ける。

翌日になってしまえば、基礎練習を繰り返し、感覚が今の状態を取り戻すには時間がかかる。
仕上がった曲ならまだしも、納得のいかない練習中の曲ならなおさらのこと。



流れ続ける音楽は、しかし、クライマックスでぴたりとやんだ。

「………っ!」

胸に違和感を感じ、薫は手を止めざるを得なかった。

乱れた呼吸を整えようと幾度か深呼吸を繰り返しても不規則に強まる鼓動は落ち着きを見せず、のどの渇きを
自覚して練習室の片隅に目をやれば、いつも常温で用意されている水は一口しか残っていなかった。
苛立たしげに舌打ちすると、薫はヴァイオリンをレストに立てかけた。
首にあてていた布は、汗を含んでしっとりと濡れていた。
塩分の多い汗はヴァイオリンには大敵だ。

すべてが彼女に休息を求めているかのようだ。


軽く溜息をつくと、ガチャリと重い窓を開けて密度を増した空気を解放した。
冷たい外気が淀んだ部屋の中を浄化していくかのようだったが、澄んだ空気を大きく吸い込んでも、まだ息苦しさは
ぬぐえない。

薫は階下に足を向けた。


冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、一気に煽る。


喉はさわやかに潤されたが、長時間の演奏で火照った身体に思いのほかその水は冷たく、強い刺激に
抗議するかのようにまたひとつ胸元の苦しさが増して、反射的に強く服を握りしめて耐える。

冷水ひとつで悲鳴を上げる自分の虚弱さに苛立ち、薫は手にしていたグラスを冷水ごとシンクにたたきつけた。
この心臓がもっとまともに働きさえすれば………。

寝る時間も食事の時間も惜しむつもりはない。
すべてをヴァイオリンにつぎ込む気でいるのに。

この出来損ないの心臓が、ついてこないことが恨めしい。







ガシャン‐!!



夜遅くになって帰宅した巽は、館に入るなり静まった洋館に響く激しい音を聞いた。

キッチンに駆け込むと、薫が立ち尽くしていた。





グラスはシンクに粉々になって砕け散っていた。
故意であることは、明らかだ。



「…大丈夫か?」


ビクリと肩を震わせて薫は無言で立ち去ろうとしたが、僕は一瞬早くその細い腕を捕まえた。

「薫?」


もともと白い顔はひどく青ざめ、薔薇の花弁を思わせる唇は強く引き結ばれ、荒い呼吸に震えていた。
感情を余りなく映し出す褐色の瞳には今にもこぼれんばかりに涙が溜まっていた。
僕は眉をひそめた。

薫は応えることなく顔をそむけて出て行った。
この年頃ならば悩みも多いだろう。
放っておいてやったほうが親切だというのも、わからないではない。
しかしこのキッチンの惨状に体調不良を思わせる先ほどの顔色。
とても放ってはおけなかった。

「待つんだ!」

追いかけると、すぐにその背中は見つかった。

ホールから伸びる螺旋階段の半ばで薫は壁に身を預けて立ち止まっていた。
肩は荒い息に上下している。


「座れ!」

追い付いた僕から逃れるかのように、足を前に出そうとした薫に思わず声を張り上げた。
ちょっとでもバランスを崩せば、間違いなく階段から落ちそうだった。
壁を支えに段を上ろうとする薫を今度こそ捕まえ、華奢な肩に手をやってその表情を覗き込めば、整った眉根は
きつく寄せられ、冷や汗がその額を濡らしていた。

「…ねが……、か、ま…」

続きは小さなうめき声に変わり、声にはならなかった。
「………っ」
指先が真っ白になるほどの力で胸元を握りしめ、震える唇から微かな呻き声とともに荒い呼吸が繰り返される。


「薫!」

苦しげにその表情をゆがませ、壁に背を預けるようにして支えていた身体も、力をなくして崩れるように倒れこんだ。

「薫!?」









軽い音が耳に入り、ふっと意識が引き戻された。
寝かされていたのは意外にも自室のベッドだった。
あの状況からすれば、病院に運ばれていてもおかしくはなかったのに。

兄のとっさの判断で病院に運ばれ、事なきを得たことが幾度かあった。
反面、目覚めたとたんに帰宅を促されることも一度や二度ではない。
いくつかの経験を経て、兄のとっさの判断は血のつながりが伝える危機感や以心伝心などという非現実的で
ロマンティックなものでもなく、ただ単に彼が心配性すぎるだけなのだと、いつしか理解した。

帰宅直後だった彼はシャワーを浴びたらしく、黒のVネックのTシャツに綿のイージーパンツという至ってラフな
格好だった。
首元にタオルを掛けつややかな髪は濡れているようだ。


「…兄さん」

大きな声は出なかったが、呼びかけると彼はすぐに気づいた。


「起こしてしまったか。…気分はどうだい」

「大丈夫…」

苛立ちをそのままぶつけて醜態をさらしたことが恥ずかしかったが、時間がたっても気分は晴れることはなかった。


「随分、無理をしているんじゃないのか」

眉をしかめ強い口調でそういった彼は、ベッドに向かいながら手にしていた小さな袋を顔の横に掲げた。

「あ………」

それは貼付式のニトロを入れている袋だった。
中身を見ればどれくらいの頻度で使っているかなど、すぐにわかるだろう。

皮膚が弱くてかぶれやすい私は、舞台に立つときなど、どうしても発作を起こせない時に予防的に使っていた。



………それから今のようにひどく調子が悪い時と。


その状況であの残数を見れば、自分のここ最近の体調の悪さなど、彼にはすべてお見通しだろう。


「水を用意してある。少し飲んだら、もう休め」

「ダメ、練習の途中だったんだ。何もかもそのままだ」

兄にしては珍しく強い命令口調に気付かないふりをして、軽く受け流し立ち上がった。


「薫っ!」
焦ったような声が響いた時には、もう私は彼の腕の中にいた。
瞬間、何が起こっていたか理解できなかった。
天地さえ曖昧で、足が床についているのかも分からない。

ゆっくりとベッドに戻され、横になってなお、おさまる気配のない眩暈に唇をかんで耐えながら、立ち上がることに
失敗したのだと、ようやく理解した。


「無茶をして根を詰めたって、何もいいことなどないさ」
「それくらいの練習をしなければ、完璧な演奏ができないことは、兄さんのほうがよく知っているはずだ」

予め備わった才よりも、努力のほうが重要である。
誰もが口にすることだ。
誰しも知っている。
何よりも重要なのは、才能よりも努力なのだと。

そう、こうしている間にも、先程まで指に教え込んでいたあのフレーズを失いそうだと思った。
まだ完成していない。
掴みかけた感覚を、確実なものにしたい。

そう考えるだけでも苛立ちが募る。
こんなところで、悠長に寝ている時間はない。

早く、早く練習を再開したい………。


「確かに練習は必要だよ」


「だが、上達の見られない間違った練習ならば、しないほうがましだ」

一呼吸おいて発せられた言葉は、鋭かった。
彼は優しいだけの兄ではない。指導者なのだと思い出す。
自分のいいところも悪いところも、すべてを知られている。

つかみ損ねているあのフレーズも、彼は解決策を見つけているのかもしれない。


「いまやりたいんだ!」
苛立ちのあまりに叫ぶと、落ち着いていたはずの動悸が再び激しさを増し、それ以上言い募ることができなかった。
言い訳さえ、反論さえ、今の私には許されないのか…!

悔しさに、涙が溢れそうになる。

「薫?」
不意に呼吸を乱した私に、彼は厳しかった声音をいつものトーンに抑えた。

「気分がまだ悪いようなら、病院にいったほうがいい。車を出すから…」


「…どうせ甘やかすなら、好きなようにさせてくれ………」
過保護は必要なかった。
飼い慣らされるのはご免だ。
深夜に病院に付き添う優しさがあるならば、自由を認める優しさがほしかった。
身勝手を赦す寛大さがほしかった。

「今日の薫は手に負えない」
苦笑とともに、ゆっくりと髪を撫でられた。

「生憎だけどレッスン室は片付けてしまった。体調の良し悪しはともあれ、もう練習する時間でもないだろう?
………少し待っておいで」
ポンポンと優しく頭をたたかれる。

部屋を出ていく均整のとれた背を見送り、深いため息をついた。
今すぐに練習をしたいと気持ちが焦る。監視していた兄もいなくなった。
それなのに身体が動かない。
焦りだけが募り、苛立ちとなる。

結局、焦りのままに身体を動かそうとしても、かなうことはなかった。
昼間に軽い発作があって、ニトロを使った。
普段ならニトロなど使わずにいる程度のものだったが、兄から指摘されるまでもなく、最近の体調不良は
自覚しているつもりだ。だから、後にひきずらないようにと、あえてニトロを服用したのだ。
結局、二度目の発作を起こしてしまったことになるのだが。
副作用よりも発作をおさえることを重要視する兄のことだから、間違いなくニトロを使っただろう。
現に口中にはニトロ独特のクセのある甘みが微かに残っている。

一日に二錠のニトロはきつかった。
もともとの不調なのか副作用なのか、もはや判断も難しかったが、ひどく気分が悪かった。
胸元に漂う不快な吐き気、襲ってくる眩暈。絶え間なく頭蓋内を駆ける耳鳴り。

練習どころか、ベッドから起き上がることすら出来なかったのだから。

それでも何とか起き上がろうと足掻いているうちに、兄は戻ってきた。
手には数枚のCDを持っている。


「音楽は、音を楽しむと書く」
程なく流れてきたのは、耳に張り付いたあの曲。

「薫も僕も音楽家だ。聞く人が楽しめる音楽を奏でなければならない。しかし、まずは自分が楽しんでこそだということを
思い出す必要がある」

耳に入ってきたのは、とても快活な音だった。
あぁ、こんな曲だったっけ、と思うほどに。

聞いていると、少し落ち着いてきた。
長い曲ではない。耳を傾けて心を落ち着けているうちに、終わってしまうくらいのものだ。
でも、またすぐに同じメロディが流れてくる。

はっとした。

柔らかい、と思った。

「僕は、こちらのほうが好きだ。おまえの音も、どちらかというとこちらに近い」

音を邪魔しない、優しい声。

「音楽は技術だけではない。正確に気持ちを反映させる。だから、練習をしなければならないとがむしゃらに無理を重ねても、
それは技術の向上につながったとしても、音楽の上達にはならないよ」

すべてを見透かされている。

「おまえの身体は、望む練習時間に耐えられないこともあるだろう。けれど、身体に無理強いをしてヴァイオリンを弾くこと
だけが練習じゃない。音楽鑑賞も立派に練習だ」

音楽鑑賞、か。
確かに、音楽を聞かせる立場に慣れすぎていたかもしれない。

「明日の朝まで様子を見よう。もしまだ体調が悪いようなら、その時は受診だ。異常を感じないなら普段通りに
登校すればいい」


何人の演奏を何回聞いただろうか。
実のところ、数回も持たなかった。
眠ってしまったから。
ただ、あんなにも激しかった苛立ちや焦りは知らずに薄れていて、解放された気分だった。


かなわない、と思った。



翌朝。


兄が私を起こしに来た。
昨晩のように荒れると思っていたのだろうか。

すでに兄は身なりを整えていたが、時計の針はいつもの私の起床時間を指していた。

「気分は?」

荒れた感情はなくなって、爽快な朝だと思った。

「いい」

本当に、機嫌はよかったんだ。
けれど兄は、少し悲しそうに困ったような微笑みを浮かべた。
理由はすぐにわかった。









起き上がろうとして、そのまま床に倒れこんだからだ。
「薫!」
兄に支えられなければ、上体を起こすこともできなかった。
ベッドに、という兄の手を握りしめた。昨晩と同じで天地もわからない程の眩暈に襲われたからだ。
何かにしがみつかなければ、震えがくるような…。
動いた刺激で嘔吐もした。



問答無用で病院に連れて行かれ、そのまま3日間の入院だった。


過労で心機能が著しく悪化している、と責められた。
朝、本当に気分は悪くないと思っていたのに。

「顔色も唇も真っ白だった。それなのに、随分さわやかな笑顔だったから怖かったよ」
と兄は振り返った。


病院にいる間、四六時中、音楽を聴いていた。

あの曲は、ヴァイオリン演奏以外のものも聴いた。
ピアノにアレンジされたものも。ヴァイオリンデュオも。
何度も、何度も。


ヴァイオリンの演奏は体力を要する。
特に世界を目指している私の練習は、医者の想像していたものと違って、かなり激しい。
この心臓には過負荷だと、医者からは何度も忠告をされてきた。
知ったことではないが。

ヴァイオリンを弾けない生活など、退屈だ。
生への意味を見いだせない。
だから、そんな忠告はいつもせせら笑って無視を決め込む。


ただ退院後も1週間は安静に、と聞かされると、兄は厳しい態度で練習を禁じた。
医者に逆らえても、彼には逆らえない。今更なのに。
代わりに山ほどのCDを与えられた。

休日には来日中だったベルリンフィルのコンサートにも連れて行ってくれた。
開演直前まで、馴染みの関係者に無理を言って空けてもらったホール内の控室で横にならされるという驚くべき
過保護ぶりではあったけれど。


退院後一週間たって、ようやくヴァイオリンを弾くことを許された。

ヴァイオリンを弾かなければ、とあんなにも思っていたのに。
弾かなければならない、練習をしなければ鈍ってしまうと感じていたのに。

ヴァイオリンを手にしても、その時間を取り戻したいとは思わなかった。
その隙間を埋めなければという焦りを感じなかった。
不調が続き、ヴァイオリンに触れられない時はいつも感じる焦燥感。

でも、今回はそんな焦燥感からではなく、ただただ純粋にヴァイオリンを弾きたいと思った。
ヴァイオリンを弾く歓びが勝った。

ウォーミングアップをする。
10日ぶりにもつ弓は、重く感じた。
ヴァイオリンを構えるのも、努めて意識をしないと腕が下がってしまう。
ヴァイオリンを弾く時に使う筋力が10日で衰えるからだ。



ブランクがある分、普段と同じだけの基礎練習だけでは足りない。
自分でも、音程の不完全さを悟る。

それでも弾きたいと思った。あの曲を。

楽譜を閉じた。
そう、音符の羅列をなぞるのではない。
音楽を奏でるのだ。

入院中、何度も繰り返し聞いた曲。
苦手だったフレーズは、いつしか確固たるイメージがうまれた。

弾ける。
そう感じた。

実際、多少音程は不安定だったものの、掴めきれていなかったイメージが自分のものになっていた。


「いい音じゃないか」

兄がいつの間にか立っていた。
最近では彼が進んでレッスンをかってでることは少なくなった。
お互いの生活時間がずれているためだ。

私のレッスン中に彼が入ってくるとき、その美しい口から出るのはほとんどが小言だ。
いいとか悪いとか、どんな曲をやっているのか、とか。
そんなことを長らく言わなくなった。
代わりに、練習をしすぎるなとか、身体を大事にとか、そんな言葉になっていた。
いつの間にか。

「まだ、弾くよ」
完璧ではないとわかっている演奏を褒められて、そのまま彼のペースに持って行かれると思った。
いい音であるはずがない。
久しぶりに手にした楽器。
音量はいつもよりも格段に弱く、音程は弾いている自分さえ気分が悪くなりそうなほど、不安定だ。

「ビブラートを少し抑えたほうがいいかもしれない」
思いがけないアドヴァイスに、彼の瞳を見返した。

優しくて、美しい瞳を。


「どうした?」
「練習をやめさせに来たのかと思ってたから」
少し仏頂面でいうと、困ったような笑みをにじませる。


「信用がないんだな」
「信用されていると思ってんの?」




愛している。
兄としてではなく、一人の男性として。
何よりも信頼し、大切な人。

だが彼は私をどう思っているのだろう。
もちろん一人の女性として扱ってほしいなど、高望みだと知っている。

ただ…。
以前は彼にとって私は妹であると同時に、一人の音楽家であったはずだ。
二人は世界の頂点を目指していたはずだ。
ライバルというには恐れ多いけれど、少なくとも世界を目指す音楽家の輪の中に彼も私も存在した。
今はそうではない。
今は、彼にとって私は音楽家でさえない。
ただ単に庇護すべき対象でしかなくなったと思う。

時間を忘れて二人で音楽に没頭することがなくなった。
二人で共通の時間を過ごす目的は常に音楽で、一切合切を忘れられる時間だったはずなのに。

けれど…。


「約束もしていないのに、兄さんが入ってきたら、それしかないだろ」

ヴァイオリンさえ。
ヴァイオリンでさえ、認めてもらえない。
もはや演奏の良し悪しなど彼の眼中にはない。
自由にさせてもらえない。

過保護なまでに甘やかされても。

彼の庇護のもと、自由はない。


「練習をしろという人間はゴマンといても、するなという人間はほとんどいない。それに、するなと言っておまえが従えるのは、
僕だけだろう?」

ソファの上に鞄とジャケットを置きながら、苦笑交じりに彼は言う。
傲慢なセリフを、易々と。

確かに、医師の忠告など聞いたことなどない。
私の体調がどうであれ、学校の教官が練習をするなと言うはずもなく。


走りすぎる私を止めることができるのは、目の前の彼一人だ。
その少し切れ長の美しい瞳を悲しげに曇らせて。
女性のそれよりも白くて美しく、それでいて楽器に触れる指先だけは堅い。
その手で、限りなく優しく手首をつかまれ、制止される。

どんなときであれ、逆らえるはずがない。



「貸して」

右手で私が閉じた譜面を開きながら、左手だけを無造作に差し出す。
視線はこちらには向かず、譜面に向いたままだ。
私がヴァイオリンを手渡すと、無造作に構える。

小さく弦をはじいて音を確かめると、一呼吸おいて彼はその曲を弾いた。

驚くほど甘くて、優しい音色が私を包む。
彼特有の、切なさを感じさせ細やかなヴィブラートはかけていなかった。
その分音の正確さが問われるが、久しぶりに私の楽器を手にしたとは思えないほど、音は正確にクリアに響く。

いつまでも聞いていたくなるような、天上の音楽。

「この曲はお前が思っているよりも、もっと爽やかな曲だと思う。甘ったるく細かにヴィブラートを掛けたり。
徒に音を伸ばすのではなく、もっと区切りをつけたほうがいい」

幾枚のCDより。
何人ものプロの奏者より。

たった一度の彼の演奏は、私の指針となる。

演奏を聴くことが出来てよかったと思った。



「今日は、もう休む」

自然と口をついて出た。
気まぐれであっても、彼がレッスンに付き合ってくれるのなら。

10日間ぶりのヴァイオリンに触れたときに真っ先に浮かんだのが焦燥ではなく愛着なら。

彼の音と、自分の気持ちを大事にしようと思った。

気付かないフリをしていても、一度ヴァイオリンを手放してしまえば無視できない倦怠感が全身を襲う。
無理をすれば明日の練習はできないぞと、自分自身の身体が訴える。


付き合わねばならないのだ。

どんなに出来損ないの心臓だろうと。

常人以上の練習を必要とする環境で、身体は常人以下であろうと。

それでも付き合わざるを得ない。だましだましであっても。



「…そのほうがいい」
同意を口にして、一呼吸おいて彼は苦笑した。

「顔色があまり良くないから、心配だ」
そして、また少し困ったように眉根を寄せた。
過干渉をするまいと、彼も頭ではわかっているのかもしれない。



「まだ、いつも通りの練習がキツイことはわかってる」

所在なさげにおさまっていたヴァイオリンを彼から受け取り、メンテナンスをする。
付き合わざるを得ないのだ。



「いつもわかってはいるんだ…」

そう、いつだって頭ではわかっているのだ、私だって。
ただ感情がついていかないことだってある。
自分はすべての現実を受け入れられるほど大人ではないのだから。

ヴァイオリンをケースに収め、パチンと留め金を掛ける。


「自分で止められないなら、僕が止めてやるよ」
クスリと優しく笑んで、ソファからジャケットと鞄を取り上げる。

「とにかく休もう。今晩から明日にかけて急激に気温が下がるようだよ。暖かくして休みなさい」



巽が大きく扉を開くと、薫は電気を切って外に出た。
防音室が並ぶ響谷家の一角に静寂が訪れる。

古い屋敷は夏の熱気を通しにくい一方、酷く冷える。
しかし、居室が並ぶ一角は外気の影響を受けにくいように改築されている。

特に薫の部屋については、身体を心配した巽によって改良が施され、常に快適に過ごせる工夫がなされていた。

夜に冷え込むからと言って、部屋の中まで冷えが及ぶことはない。


そんなことは双方承知のことだ。

それでも巽は言わずにはいられないし、薫はそれに慣れていた。


どんなに身体を案じても、ヴァイオリンの過度の練習を止めることはできても、ヴァイオリンを弾くこと自体をやめさせることなど、
巽には到底できなかった。
薫から無理やりそれを取り上げても、もしかすると従うかもしれない。
ただ漫然と日常を送る程度ならば、彼女の心臓にそれほど負担があるわけではない。
それでも…。
きっと薫からヴァイオリンを取り去ってしまえば、彼女はもはやここにいられないだろうとわかっていた。

だから、出来るのは純白に輝く繭に包み込んで、守ることだけ。






どんなに肩肘を張ってヴァイオリンに打ち込もうと。
優しい制止に負けてしまう自分を、薫は知っていた。
必要のない甘言に屈してしまう自分を、もはや変えることなど不可能だと知っていた。




繰り返される過保護も。
反発するフリをして、すべては言いなりであることも。


すべては双方承知の上。



見て見ぬふりをする二人は、それでも今日も廊下で立ち止まり。


「暖かくして、休みなさい」
「もう子供じゃない、それくらいの自己管理はできる」


少し哀しそうに揺らめく、同じ表情を宿した4つの瞳が交錯する。

物言いたげに一瞬絡み合った4つの瞳は、緩やかにほぐれていく。



「そうだ………ね」
ぽん、と薫の肩を叩いて巽はつぶやいた。
こういう時、少し前まではあの柔らかい巻き毛をくしゃりと撫でていた。
しかし、それをするには薫の背が伸びすぎてしまった。
手の届かないところへ。



「おやすみなさい」

ゆっくりと小さな往復をしながら、やがてウエスタンドアが閉じた。

どんなに繭を作り続けて囲いをしても、いつかは羽化する。
手の届かないところへ成長してしまうのだ。
気付きたくなくても、気付かされるのだ。
繭の中に閉じ込めておきたくても、繭の中で安穏としていたくても。




出来ないことは双方承知の上。




それでも…。
壁際に座り込み、薫は思う。


ヴァイオリンを弾きたい。
少しでも彼に近付けるのなら…。
少しでも認めてもらえるのなら…。

私にはヴァイオリンしかないのだから。
彼への接点も。生きる意味も。
ヴァイオリンにしか見いだせないのだから。


この苛立ちも、焦燥も。忘れ得ぬ、この愛情も。

この身なくしてヴァイオリンを弾けずとも、
この身なければ、その感情をもてあますことはない。

だから…。


だから私はヴァイオリンをやめられないのだ。
彼との接点だから。



ヴァイオリンこそが。
彼と関わることこそが。

この世に私が存在する、唯一の目的なのだから。




 




                   あとがき


                   以前、オフ会で配布した妄想で【焦る巽さんと冷静な薫】をテーマにしたお話を書きました。(【ふたり隔てるカベ】)
                   とにかく薫の身体を第一にと、これ以上悪化させてなるものかと冷静さを欠く巽さんと、そうではなく、
                   心臓が悪いことはそれはそれで仕方ないと、冷静に考える薫の物語でした。

                   しかし、やはり薫にも焦燥というものは存在するはずです。ただ巽さんの抱く焦りとは少し、違うだけで。
                   ということで、今回は薫の焦燥をテーマにしてみました。

                   『愛よいま風にかえれ』のこのセリフは、薫の刹那的な生き方の現れと言えるでしょう。
                  
 【人は、目的の為に生きるのであって、生きること自体が目的ではない】
                   これこそが、薫なのだと思います。


                   薫が抱える焦燥やそれに伴う哀しみや苦しみを、救えるのはやはり巽さんなのではないかなと。
                   巽さんであったらいいなと、思います。刹那的な考え方に陥りやすい薫を巽さんが救ってくれたらなぁと。
                   干天の慈雨がごとき優しさで。

                   お互いがお互いに対して盲目的である。
                   この二人の愛に関する考え方はとても哀しいものがあって、誰しも簡単に理解できませんが、
                   あえて言うなら、互いに盲目であると。
                   しかも、お互いがそれに気付いている節がある。
                   気付きながら、見えないフリをしている。

                   微妙な………関係ですね。
                   恋は盲目、なんてかわいらしいものであったら、どれほど救われたことか………。

                   



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