なつかしい土地の思い出
〜Souvenir d'un lieu cher〜
「狭くて申し訳ありませんが、明日、楽屋代わりに使っていただく部屋にご案内いたしますので、こちらへどうぞ」
声を掛けられ、もう一度、薫は背後の景色を振り返った。
少し、高い建物が増えた、京都の街を。
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『清水音舞台?何それ』
楽譜を棚に戻しながら、あたしは振り返った。
ピアノの鍵盤を拭きながら、巽は視線だけを薫に向けてちょっと笑った。
『京都の清水寺は、薫も知ってるだろ?そこでコンサートをするんだよ、毎年10月にね。有名な、あの清水の舞台で』
巽はピアノの蓋を閉めてカバーをかけると、グランドピアノの上のクリアファイルを取り上げ、ソファへと歩み寄る。
『寺で?京都人の考えることって、わっからないなー』
巽は手招きをして薫をソファに呼び寄せる。
薫も本棚を整えて鍵をかけると、巽の隣へと腰掛けた。
同様に行われて好評だった昨年のパンフレットを薫に見せる。
『そうでもないよ。音楽は宗教と共に発展してきた。万国共通さ。教会でコンサートがあるみたいに、
お寺でもするんだ。まして、夜にライトアップされれば幻想的で、素晴らしい舞台さ』
ふうん、と薫はパンフレットに見入った。
ライトアップされた清水の舞台は、確かに昼間のそれとは、様相を異にしていた。
写真で見ても、幻想的で、独特の気迫のようなものがある。それこそ数百年の重みが与える空気かもしれない。
『少し遠いけど、お前もおいで。いい勉強になるよ、きっと』
『え、いいの?』
こんなにも間近に巽の顔を見上げるのは、本当に久しぶりのことかもしれない。
忙しくて、最近は家でもあまり顔を会わせることもなく、今日のように一緒に練習するなんて、何ヶ月ぶりだろう。
『もちろん。翌日は時間があくから、二人で観光でもしよう』
パンフレットを閉じると、巽は薫の薄茶色の瞳を見た。
薫は、ぱっと顔を輝かせた。
トンネルから抜け出した新幹線は減速を続け、アナウンスが目的の駅が近いことを知らせる。
新幹線はすぐに次のトンネルに入る。
薫が棚から荷物を下ろしてジャケットを羽織ると、二つ目のトンネルから抜け出した新幹線が、鴨川を渡るところだった。
ちらりと窓の外に目をやると、青白い京都タワーが見える。
巽は前日から京都入りしており、一人旅となった。
そのことに、薫は少し安心していた。二人っきりで京都までの旅は少し長い。
ホテルでは巽と同室だ。好きな相手が、すぐ傍で眠っているというのに、のうのうと眠っていられる人間がどこにいるだろうか。
きっと、今日の晩は眠れないに違いない。
今晩のコンサートも、明日の観光も、楽しみで楽しみで仕方がないのに、一方でほんの少し不安があった。
京都駅から案内に添って地下鉄に乗り換え、教えられた駅からパンフレットを頼りにホテルに入った。
優雅な曲線を描く螺旋階段のあるロビーが有名な、女性的なホテルだ。
案内されたのは、景色のいいジュニアスイート。
見晴らしのいい窓からは、仏光寺が見えた。
巽らしく、きっちりと荷物も整理されていた。
薫もコンサートに来ていく服が皺にならないように、クロゼットに吊るす。
二人分の服が吊るされたクロゼットを見ると、薫はふっと笑った。
響谷の広い邸内ではありえないが、もしも普通の家に二人っきりでくらしたら、こんな風に二人分の荷物が、肩を並べるんだろうか。
お揃いのマグカップやタオルが何もかも二つづつ並んで。
二人だけの空間が広がるのだろうか、家中に。
自分の想像がちょっと可笑しく、薫は頬に浮かべていた笑みを皮肉げにゆがめて、椅子に腰掛け、京都駅でもらった無料の情報誌を取り出した。
『大丈夫ですか?』
夕方、ホテルに迎えに来てくれたのは、巽が所属する音楽事務所の関係者の坂本だった。
薫自身も所属しており、よく知っている人だ。
『え?』
問いかけの意味がつかめず、薫は反問した。
『随分急な坂を登ったから、身体がね。巽さんが、そればっかり気にしていたものですから』
『大丈夫。これでも、元はバスケ部のエースだ。体力はあると思ってるよ』
薫は足を止めて、登ってきた坂と階段を見下ろした。気付けば、京都の街は随分下に見えた。
『それは、身体より指の心配が先ですね。私にとってはあなたの手も、商品だ』
坂本は目の前に持ち上げた左手を右手で指差して、薫にちょっと笑いかけた。彼の気取らない言い方は、薫も好きだった。
二人で肩を並べて建物に入る。
『さ、薫さん、あれが、有名な清水の舞台。きたことはありますか?』
『小さな頃に一度だけ……でも、ほとんど憶えてない』
歩くたびに、きちきち、ときしむ床板を進みふと目をやると、京都市内が一望できた。
本当に見晴らしがいい。
吹き上げる風に薫は髪を押さえる。
『ずいぶん冷え込んできましたね。これは楽器にはいいですが、演奏者は大変だ』
昼間は日差しがあって暖かかったが、夕方自分から風が出てきて、
日が落ちた今は随分温度も下がったようだ。
確かにこの気温では、指の動きが悪くて、演奏者は大変だ。
最前列に案内すると、彼はペットボトルを薫に差し出す。暖かいお茶だった。
『私は、裏で仕事があるんですよ。コンサートが終わったら、あっち』
そういって、彼は仮設舞台の横を指差した。
『あそこにいますから、来て下さい。あと、それ、飲みすぎてトイレ行きたいとか言わないで下さいね』
パチンとウィンクをして、慌しく彼は舞台袖へと消えていった。
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「曲、思い入れがあるんですか?」
「なぜですか?」
スタッフに尋ねられて、薫は歩き出しながら答えた。
「いや、響谷さんはレパートリーも多いし、融通がきいて助かるって噂、耳にしますよ。
でも、今回はどうしてもチャイコフスキーをやりたいって。珍しいでしょ?自分からって」
高台を吹き抜ける風に髪を舞わせながら、薫は遠い昔に思いを馳せた。
「ちょっとね………。でも、悪くないと思うんだけど、“なつかしい土地の思い出”も…」
「そりゃ、もちろん」
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コンサートは盛況だった。
薫は用意していた花束を持って、言われたとおりに舞台袖に入る。
『いらっしゃい、どうだった?』
大勢のスタッフの間から巽が姿を見せ、薫に微笑みながら近寄ってきた。
花束を巽に手渡し、薫は高潮した頬を緩ませた。
ホールのような音響設備があるわけではないのに、自然の風にのって響く巽のバイオリンは、この上ない演奏だった。
聞きなれているはずの巽の音も、たまにはっとするほどの艶めかしさをもって、心に響くことがある。
『びっくりするくらい、良かった。こんなに寒いのに、よく指が動いたね』
巽は、ふっと笑った。
『そでに入るたびに、暖めてたんだよ。お前こそ、寒かったんじゃないのか?』
『ん、ちょっと。でも、大丈夫だよ』
『着替えてくるよ。打ち上げがあるんだ、お前も一緒においで』
薫の柔らかい髪を撫で、巽は楽屋に向かった。
プロの音楽家と呼んでも差し支えない程の薫の、こどものような感想だった。
それでも、薫の満足げな表情が、自分の演奏の完成度の高さを示していた。
公に感想を尋ねられた時には、薫もいっぱしの評論家のような口を利く。
それが天才として生まれたものの役割。
彼女は演奏技術だけではなく、ことばによる批評が上手かった。
正確な耳と、豊かな感受性、それを的確に相手に伝えられる表現力。
わかりやすいことばで伝えられる的を射た感想が、広く受け入れられた。
そんな彼女も僕の前で批評家ぶったことを言わない。
言われなくても、言わなくても、伝わることは二人ともが知っている。
打ち上げ代わりに使ったのは、創作料理の店だった。
京都らしい町屋を改装したもので、湯葉や生麩、京野菜を使った和風の創作料理と各地から集めた焼酎がその店の自慢だった。
洋酒ばかりの巽も、珍しく焼酎を楽しんでいた。
気心のしれたスタッフだけの小さな打ち上げの後、夜の京都を歩いてホテルまで帰った。
坂本さんが車を呼ぼうとしてくれたが、薫が昼間に来た六角堂の近くだから歩いて帰ろうと言ったのだ。
三条通沿いのカフェで昼ごはんを食べて、帰りに六角堂を見てきたんだ、と薫は大通りに出たところで北を指さして言った。
『そんなカフェ、どこで見つけたんですか?』
坂本の問いに、薫は明るく笑って応えた。
『京都駅で情報誌をもらったんだ。京都って変な感じだね。
ホテルに帰ろうと思って、道歩いてたらさ、でっかいビルの一階がガラス張りになってんの。
その向こうに見えたんだ、お寺みたいなの。それが、六角堂』
『オフィス街に見えても、一歩入れば何かがあるのが、京都なんだよ』
巽はアルコールが入って、ほんの少し、口数が多かった。
『薫さんの言ってるのは、池坊会館ですよ。華道の池坊のビルで、六角堂はその所有になってるんです』
銀行や証券会社が立ち並ぶ通りは、人通りもなく、暗かった。地下鉄の出入り口もすでに閉まっている。
都会の空は明るくて星が見えず、ただ下弦の月だけが小さな光を与えていた。
薫が寒さの為に身震いすると、巽が自分のジャケットを着せ掛けた。
『今日は随分冷える。羽織っていなさい』
暖かい空気に包まれ、巽を見ると、軽く笑って言われた。
触れたジャケットは、さわやかなコロンの香りがして、酔ってしまいそうだった。
『薫、起きられるか?』
静かな声が耳元で響いて、ぼんやりと目を開けた。
覗き込むようにかがみこんだ巽の綺麗な瞳が間近にあって、驚いたのを覚えている。
『え?………もう、朝?』
そういった自分の声がガラガラに掠れて、びっくりした。
巽は薫のベッドに腰掛けながら、薫の額に手を伸ばす。
あの日を連想させる仕草に、薫は身体を堅くした。
『熱があるみたいだね』
言われて、のそのそと自分の額に手をやる。確かに顔が火照って熱い。
枕に身を持たせ掛けるように起き上がり、ミネラルウォーターの注がれたグラスを巽から受け取る。
喉元を通る水が思った以上に冷たく感じる。寒気もないし、だるさもないし、
もうこれ以上熱があがることもなさそうだと思って、少しほっとした。
心臓を患ってから、飲んじゃいけない薬があるだとか、常備薬と併用しちゃいけない薬があるだとか、風邪ひとつでも、何かと面倒だ。
『具合は?』
『うん……、軽い風邪かな。昨日、寒かったから。でも、大丈夫みたい』
自分のことばに重なるように、部屋のチャイムが鳴る。
巽が応対に出て行くのを見送って、薫は用意していた服を取り上げた。
微熱だったし、身体も辛くなかったから、予定通り市内観光に出るつもりだったのだ。
『薫、体温計が借りられたから、熱を測りなさい』
小さなケースから体温計を取り出しながら、ふと顔を上げると、ベッドにいたはずの薫は、服を抱えてバスルームに向かっていた。
『何やってるんだ?』
『え、二条城に連れてってくれるんじゃないの?』
きょとんとした様子で言った薫に呆れて、僕はその腕から服を取り上げた。
全く、本当に自覚のない奴だ。
自分の身体を大切にしないというか、そもそも大切にしなければならないという自覚がない。
『駄目だよ、ベッドに戻りなさい』
背中に手をやって、その身体をベッドに押し戻す。
しぶしぶと言った様子で薫はベッドに腰掛け、不満げに顔を歪ませる。
『せっかくの京都なのに。大丈夫だから、行こうよ』
『駄目』
『こうやって見ると、本当に碁盤の目になってるんだね』
結局、せがんでせがんで連れて行ってもらったのは、京都タワーだった。帰るついでだからって、つまらない理由だった。
『ほら、こっち。あれが、東寺の五重塔』
京都駅よりさらに南に見えた五重塔。ずっと遠くの山の上に見えた、伏見桃山城。
目の前に広がる東西の本願寺。
『また、来よう。二人で』
果たされなかった、約束
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「私自身が、ここで聞いたんです。チャイコフスキーの“なつかしい土地の思い出”を。とても良かった」
控室に入る前に、薫はポツリと言った。
「京都は私にとっても懐かしい土地でもある」
振り返り、薫は悲しい微笑を浮かべた。
「それが、理由かな」
さらりと褐色の髪をかき上げた。
「そうでしたか。では、響谷さんのチャイコフスキー、楽しみにしていますね」
言い残して、スタッフは出て行き、薫は持ってきた荷物を控室に並べた。
あの時工事中だった京都駅は、グレーの高い駅ビルになっていた。
京都タワーからの景色は、ずいぶん変わってしまっただろう。
三条通のカフェは無くなって、居酒屋になっていた。
代わりに、あの池坊会館から少し北の、三条通りと烏丸通りの交差点に新風館という新しい建物ができていた。
ニューヨークスタイルのカフェで、ランチを食べた。
巽が美味しそうに焼酎を飲んでいた創作料理の店も無くなっていた。
だから、少し離れたところにあったごはんバーに行った。
ごはんバーって何、って思ったら、あの店のように、日本酒と焼酎と、京都らしい和風の創作料理があった。
果たされなかった約束。
私は今日もあなたを偲び、お酒を飲む。
参考(作中に出てくるものは、すべてモデル・現物があります)
ごはんバー ReBirth:http://www.brains-kyoto.com/
新風館:http://www.shin-puh-kan.com/
音舞台シリーズ:http://www.mbs.jp/oto/
池坊:http://www.ikenobo.jp/
六角堂:http://www.ikenobo.jp/rokkakudo/
ホテル日航プリンセス京都:http://www.princess-kyoto.co.jp/
京都タワー:http://www.kyoto-tower.co.jp/kyototower/
京都駅ビル:http://www.kyoto-station-building.co.jp/index.htm