初夏の風と太陽と
僕達は、2年に一度、デュオリサイタルを開いている。
著名な両親のせいもあって、室内楽用の小さなホールでのたった2日限りのそのリサイタルのチケットは、毎回、発売と同時に
完売する。
観客には色んな人がいた。
パンフレット等でリサイタルを知り、足を運んだ人。両親の名につられて足を運んだ人。
もともと、僕や薫の音を知っていて、足を運んだ人。
中には音ではなく、僕や薫の姿かたちを見に来る人もいる。
二人が同じ舞台に立つのは、最近ではこの2年に1回のリサイタルのみなので、俄然力が入ってしまう。
年下の妹なのに、まったく手が抜けないのだ。世界的なオケを相手にしているほうが、まだ楽かもしれない。
とは言っても、僕も薫も忙しい。薫は学生だし、僕は教官としても仕事がある。
その合間を縫って、世界中で演奏活動をしているのだ。同じ家にいても、顔をあわせない日も多いし、一緒に練習することなど、
一年でも数えるほどしかない。
むしろ、学校で顔を見かけるほうが多いくらいだ。
リサイタルに向けての練習も、殆ど個別にやっていた。
曲目は二人のレパートリーから選ぶので、今さら暗譜する必要もないし、僕らはお互いにクセを知り尽くしているので、
必死に合わせる努力もいらない。
選曲は、まず僕が考えて、その中から薫の意見を聞いて、調整する。殆どが二人でヴァイオリンを弾くのだが、中には
薫がヴァイオリン、僕がピアノを担当するものもあり、アンコールでは薫がピアノを弾くこともある。
今日は、久しぶりに二人揃っての練習だ。下手をすれば、リサイタルの直前まで二人で合わせる機会が
ないかもしれないとあって、朝からずっと練習室にこもりっぱなしだ。
庭に面した大きな窓からは、初夏の鮮やかな日差しが降り注ぐ。窓の外に目をやれば、庭の木々は時折、風にざわめき、
さわやかな風が吹いていることをうかがわせた。
「少し休憩にしようか」
一曲終わったときに、僕は薫に声を掛けた。
夢中になりすぎて、気付けば喉はからからに渇いていた。
薫もうっすらと額に汗を滲ませ、頬は上気している。
構えていたバイオリンを降ろし、薫は微かに頷いた。
「さすがに少し疲れたよ」
弓を緩めながら、苦笑いにその唇を歪ませる。
「そういえば、ちょっと前にお茶の用意がしてあると言っていたな」
いつのことだっただろう。メイドが声を掛け、一区切り付いたら居間に下りると返事をしたのだったが…。
時計に目をやれば、おそらくは1時間は経っていると思われた。二人とも寝食を忘れるほどに集中してしまうことがある。
二人そろってやっていれば、そんな些細な掛け声など、すぐに意識の外に出て行ってしまう。
「冷めちゃってるな。これは怒られるぞ」
薫は肩をすくめて、いたずらっぽく言った。
それは、うちの優秀なシェフをからかっているのだとすぐにわかった。
料理は、それはもちろんお菓子もふくむのだが、シェフが料理を出した瞬間がその料理が一番美味しいのだと、
彼はいつも言っている。
時間が経てば経つほど、味は劣化していくのだと。
いつまで経っても現れない主人に、彼はひどく怒っていることだろう。
二人揃って居間に顔を出すと、アンティークのローテーブルの上には、鳥かごのような銀細工のカゴがセットしてあった。
「アフターヌーンティか。いいね」
そういえば、練習に夢中で、昼ごはんも随分軽く済ませていた。
二人ともパンをかき込んで、用意されていた色とりどりのサラダも、絶妙な焼き具合のオムレツも、手をつけなかった。
それを思って、ボリュームのあるおやつにしてくれたのだろう。
僕らの姿を目に留めたメイドが、シェフに声をかけると、すぐに用意をしてくれた。
サンドウィッチ、温められたスコーンと、苺のタルトにプチシューが今日のメニューだった。
スコーンに添えられているフルーツソースは軽井沢の別荘から送られてきた手作りのものだ。
新鮮な無農薬のフルーツで作られている。
薫は毎年送られてくるそのフルーツソースが好物だ。この時期になると、毎日のようにヨーグルトと一緒に食べている。
「今年もこのソースの季節がきたか」
嬉しそうに言いながらスコーンをほおばる姿は、幾つになってもコドモのようだ。
先ほどまで、狂おしい情熱を注ぎ込み、甘く艶やかな音を奏でていた姿とは全く別物だ。
「今、ケフィアにはまってるんだ。このソースがあるなら、多めに作ってもらうように言っておこ」
「作る?」
ケフィア自体は僕も知っている。ヨーグルトと似て非なる食品。
ロシアでは昔から食べられていたが、最近になって日本でひそかなブームになっている。しかし、作るとは………。
「うん、ケフィアの素っていうか、菌があってさ、ネットで見つけたんだ。牛乳にその粉を入れて、一日ぐらい発酵させたら、
ケフィアになってる」
他愛ない話に花を咲かせていると、僕らに気付いた古株のメイドが声を掛けてきた。
「薫様、巽様、先日のタキシードが届いておりますが、いかがいたしましょうか?」
「見せて」
食事中だと言うのに、間髪をいれず、瞳を輝かせて薫が言った。
薫が心待ちにしていたのだ。メイドが僕よりも先に薫の名を口に出したのもそのせいだろう。
そのタキシードは、今回のリサイタルに合わせて新調したものなのだが、生地もデザインも薫が選んだ。
ダークグレーの上品な光沢の生地のロングタキシードだ。
二人でお揃いの形なのだが、チーフの形と色を変えた。特に、タキシードの生地と色が気に入ったようで、薫はそのイメージを
壊さないようにとチーフの色もタキシードに合わせて真剣に選んでいた。
箱の中に丁寧にたたんでしまわれていたタキシードを広げると、薫は満足そうに微笑む。
「さっさと食べて、袖を通してみようぜ」
本来は、会話を楽しみながら時間を掛けていただくアフターヌーンティを、まるでファストフード店でハンバーガーを
食べるかのような勢いで食べてしまうと、薫はそそくさとタキシードを納めた箱をもって自室に行った。
昼食に引き続き、せっかくのアフターヌーンティを無下に扱ってしまったことをシェフに申し訳なく思いながらも、
僕も箱を持って自室に引き上げる。
袖を通すと、上質の生地で作られたドレスシャツもタキシードもしっくりと身体に馴染んだ。薫が拘りぬいただけのことはある。
姿見で全体をチェックすると、そのままの格好で僕は先ほどの練習室に向かった。
ふつうの動作で身体に馴染んでいても、あまり意味がないからだ。
ヴァイオリンやピアノを弾いても、しっくりくるものでないと。
練習室にはまだ薫は来ていなかった。
待っている間、僕は閉まりっぱなしになっていた窓を開放した。
日は少し傾いてはいたが、この季節には珍しく澄んだ空には太陽が輝いている。
庭を吹きぬけた風が部屋の中に花々の香りを運んでくる。
ほどなくして、薫が現れた。
シックなグレーがその色白の美貌を引き立てていた。
皆は言う。
本当に男性のようだと。
だが、僕は思う。
長い睫毛に囲まれた青みを帯びた瞳、いつも笑んでいるかのようなさくらんぼのような色の唇。
そこかしこに、女性の影が潜んでいる。
僕と同じタキシードに身を包んでも、そういった影が消えることはない。
「どお?」
薫は僕を見上げて言った。
どんなに男性のように振舞っていても、心の中だって、どこにでもいる女の子だ。
新しい服に身を包んで、はしゃいでいるのが手に取るようにわかる。素敵なドレスを買ってもらった少女のように。
本当に、その辺は普通の少女だ。
僕は思わず笑ってしまった。
「何?」
少しむっとして、薫は僕を睨んだ。
本当のことを言えば、さらに薫は怒るだろう。
「いや、ちょっとチーフが曲がっていたから」
その場にもっともふさわしい笑いの理由を付けて、きっちりと締められていたチーフを手直しするフリをした。
「そうだった?」
「よく似合っている。僕もなかなか気に入ったよ」
薫は嬉しそうに笑って、ヴァイオリンを手に取った。
「風が気持ちいいな。このまま弾こうよ」
僕らは、練習を再開した。
ヴァイオリンデュオの曲をすべて終えた。
新しいタキシードはよく馴染んでいた。
「暑い」
そう言って、薫はジャケットを脱いだ。
その背中は、驚くほどに華奢だ。
視線を感じたのだろうか。振り返ってふと僕を見上げた薫に、心臓を射抜かれたような錯覚にとらわれた。
抜けるように白い肌。頬には紅が差し、薔薇の花弁を思わせる美しい唇は、ほんの僅かに開いて、甘い吐息がもれている。
澄んで青く見えるほどの瞳が、ゆらめいて、僕にたどり着いた。
たまらなかった。
その艶めかしさ、甘やかさ。
僕はその美しい瞳に魅せられ、吸い込まれるように見つめた。
いつもと様子が違うことが気になったのか、薫は動作を止めて、僕を見返した。
「兄さ、ん?」
返事をすることもなく、僕は薫の腕を引き寄せて口付けていた。
我慢できなかったのだ、その美しさに。
薫は驚いたように、目を見開いて、身じろぎした。逃さず、さらに深く口付ける。
僕が引き寄せていた薫の右腕を離し、代わりに華奢な腰をかき抱くと、薫からは少しずつ力が抜けていく。
薫は、僕を見上げた。
うっとりと、これ異常ないほどの甘やかな瞳で。
僕らは、どちらともなく深く抱き合い、口付けを交わした。
窓からは、初夏の風。
ピアノに立てかけられた譜面をはらはらとめくる。
傾いてきた太陽の光は、部屋の隅々まで鮮やかに照らす。
ピアノとヴァイオリンを立てかけた椅子、そして僕ら二人の長い影を作った。
こちらは、雅さま主催の【SecretMelody 】(響谷薫誕生祭2008)へ投稿作品です。
【愛してマリナ大辞典1】のイラストをイメージして書かせて頂きました。
祭りなので、番外編ということで、諸々の設定はすべてなきものとしてお考えください。