精 霊 − しょうりょう −




夏の避暑地には特別な精霊が住んでいる。



「こら、冷泉寺」
呼ばれて、仕方なくバルコニーから部屋へ戻った。
繊細な細工のグラスを二つ載せた小さなトレーを持って、レオンが
立っていた。
「今日も、一日ベッドからは出ない約束だろう」
サイドボードにトレーを載せて、優しい口調で語りかける。
「風が出てきたから…涼んでただけだよ」
「身体が冷えるぞ。まだ眩暈も治まっていないんだ、今日一日くらいは、休んでいろ」
「もう眩暈は治まったよ、だらだらと眠っているのは性に合わないんでね」
差し出されたアイスティーのグラスを手に取って、ベッドに腰掛けようとしたとき、
ぐらりと視界が揺れた。
「全く、意地っ張りだな」
耳元でレオンの声が響いた。
揺らいだ上体は、たくましい腕に支えられ、落としかけたグラスは、一滴の水滴を
落とすこともなく、その手の中に納まっていた。
「急に暗いところに入ったせいだ」
言い訳にしかならない一言は、そのままレオンの苦笑を招いた。

眩暈が治まらないのは、事実。
2、3日続くと言われたのは、まだ昨日のこと。
寝返りをうつだけで、ふわふわと視界が揺れる。
それでも、ずっとベッドにいるのが嫌だった。思い出されることが多すぎる。
瞬間、ひんやりとした感触を頬に感じて、そっと目を開けると、固く絞った
タオルだった。
「すこしは気持ちがいいか?」
無茶を咎めるでもなく、憐れむでもない、穏やかなレオンの眼差しがあった。


………彼は、もっと猛々しい空気を感じさせた。
暖かさや優しさもあったが、なにより力強さが彼の瞳にはあったのだ。
そっと瞼を閉じると、もうここにはいない彼の笑顔と瞳に、自然と涙が溢れた。
「しばらく…ロッジを休んでいいかな…?」
レオンからの返答はなかった。それが否定ではなく、了承の空気であることは
わかった。
「東京には、今は戻りたくない」
「もうしばらく、ここにいるのか?」
「いや…」
どこに行きたいとは思わなかった。
ただ、東京の喧騒のなかにもどるには、疲れていた。かと言って、この地に
とどまるのも辛かった。
「北海道でも行って来たらどうだ?別荘があっただろう」
北海道。いいかもしれない。雄大な大地に包まれて、しばらくしたら気分も
変わるだろう。
北海道からはもう夏も去っているのだろうか。
「秋の北海道にも…精霊はいるのかな…」


昔に戻れるような。
何もかもを忘れられる、精霊が。

こんなときは、科学など、どうでもよくなる。
無心に、何かを信じたい。
目に見えない、ここにはない何かを。


「いるさ」
そんな矛盾を、レオンは素直に認めてくれる。


「貴ちゃんに戻ったみたいだな、冷泉寺。ビオラが届いた。何を弾こうか?」


貴ちゃん。幼いときの呼び名。それでは、レオンは。


「聖くんに任す」



精霊は、必ずいる。
信じた人には、必ず精霊は幸福をもたらしてくれる。



そう、君のもとにも。








TOP