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しっとりと重い生地に、手を伸ばした。

上質のシルクは照明を反射させ、柔らかい光を散らす。
…本当に?本当にこんな幸せが許されてもよいのだろうか、自分達に?
ここ数日、毎日自分自身に向けて繰り返される問い。
…本当に、幸せになる権利などあるのだろうか、自分達に?
掴み寄せた布地を手放し、2,3歩離れる。
自らの知らないところで自分の為に用意されていた……純白のドレス。
それを何と呼ぶのか、誰でもが知っていた。

ウェディングドレス………。

そんなものに一生袖を通すことなんてないと思っていた。
彼女の友人達によって用意された、クラシカルなデザインのドレス。時間がなかったという割には、随分クオリティの
高いものを選んだものだ。パールをあしらった、繊細で手の込んだ刺繍が長いトレーン全体に施されている。
過度の装飾のないそのドレスは、それだけに布の質が問われる。
もっと質もデザインも良いドレスを、アルディなら用意することができただろう。
遠まわしに別のドレスが欲しいかと、そう尋ねたシャルルに首を横に振った。
どうしても、このドレスでなければならなかったのだ。自分が袖を通すのは。
友人達が用意してくれたものだから。


かちゃり、と背後でドアノブがまわる音がして、ジルが姿を見せた。
手には、くすんだ輝きを放つシルバーのトレイを持っている。そのトレイには、ヘアピンやゴムなどが幾種類も
用意されていた。
部屋の片隅に立ち尽くしている私に気付き、にっこりと笑う。
その従兄弟と顔形は見間違いそうなほど似ているというのに、作り出す表情はまるで違う。明るく微笑んだジルは、
どこまでも可憐でかわいらしい。
「また、ご覧になっていらっしゃったんですか?」
手にしたトレーを、奥のドレッサーの上に置いて、肩を並べた。
繊細な美貌の割には、随分な長身で、自分と肩を並べても視線の高さは変わらなかった。
「でも、本当に綺麗。………良いお友達を持たれましたね」
まるで自分がお嫁に行くように、夢見るような表情でうっとりとジルが言った。
そして、ジルは決して薫の前ではそのドレスに触れようとはしなかった。
あんまり綺麗過ぎて…私などが手を触れるのはもったいない、尋ねた薫にジルはそう答えた。
「ジルも、そうだよ」
不思議そうに薫を見て首を傾げるジルに、薫はもう一度言った。
「ジルも、良いお友達、そのうちの一人だよ」
「ありがとうございます」
微笑んだジルは、まるで天使のように優しい美しさに満ちていた。


「さ、もう遅いですよ。早くお休みなさいませ。明日に響きますよ」
ジルは自分の羽織っていたパシュミナを、薫の肩に着せ掛けた。
過去の3度の心筋梗塞の発作、そして2度にわたる手術。彼女の心臓は、常人の半分程度しか機能していない。
広いアルディの邸内、薫に与えられている部屋からこの礼拝堂までは5分以上掛かる。風邪でもひかれたら、
とジルは心配する。
この部屋で見る薫は、なぜか頼りなげに見えた。
「一応、シャルルに挨拶を…しようと思って部屋を出たんだ。そしたら、ここに来ていた」
はにかむように薫は笑顔を見せる。
どこか翳りのある笑みを…。



繰り返し、胸に沸き起こる疑問に対する答えを見つけられない。
幸せになる権利が、あるのだろうか。それは命題のようなもの。



澄んだ瞳に翳が落ちる。
どれほどまでに、この繊細な心は傷を受けているのだろう。何年前から、どれほどに憂いを抱え込んできたのだろう。
その身に病を呼び込み、それでも尚、誰にも頼らずに、気付かせずに。
ジルは思いを馳せる。
俯いて沈黙を続けた薫は、ため息を一つ付くと、皮肉げな笑みを浮かべて自分の肩に掛けられたパシュミナを取り去る。
「ジルこそ。働き詰めで風邪をひく。ジルのほうがずっと薄着じゃないか」
その表情には先程の憂いは感じられない。……そうやって、彼女はどれほどの哀しみを抱え込んできたのだろう。
それでも彼女が隠すのなら、入り込まないことこそ彼女の為。自分にそう言い聞かせて、ジルは明るい笑顔を作った。
「そんな冷たい手で何を言っているのですか、薫。私はこう見えても丈夫に出来ているんです」
返された淡い紫のパシュミナは受け取らず、ジルは薫の背に腕を回し、出口へと促がした。
ドアに鍵を掛け、薫を部屋まで送り届ける。
今晩、彼女はきっと眠ることはできないだろう。彼女という人間は、そうなのだ。
けれど、せめてベッドで横になっていてほしい。
薫の枕にはシャルルと同じポプリを詰めてある。心が安らぐようにと。
「シャルルには私から伝えておきます。ですから、早くお休みなさいませ」
「ありがとう…」


   ****     *****    *****     ****



長くひきずるトレーンが、歩くたびにさらさらと音を立てている。
パーティやリサイタルで度々身につけたロングドレスも、数年ぶりとあっては裾捌きが昔ほどにはきまらない。
一歩、また一歩。
礼拝堂に近づく。近づくごとに鼓動はさらに高鳴り、全身がドクドクと鳴っているようだ。
礼拝堂の入り口へ続く曲がり角の手前で一度立ち止まり、背筋を伸ばして深呼吸をした。
レースの手袋をはめた左手で裾を少し持ち上げると、幾分かましになった。
……落ち着いて。
自分自身に言い聞かせると、角を曲がった。
角を曲がると、すぐに礼拝堂の入り口になっている。


礼拝堂の入り口で薫を待っている人物がいた。
豊かな光沢をもった純白のドレスシャツ、漆黒のタキシード。
上質の生地でしか出せない、漆黒。
悪魔だと思ったときもあった。その白さゆえに、堕天使だと思ったこともあった。
黒いタキシードを纏った白い彼は、悪魔でも堕天使でもなければ、もちろん神でも天使でもなく、ただの一人の人間に
過ぎなかった。
感情をもつ彼には、今の自分の姿はどう映るのだろう。
薫は彼が満たされた顔をしているときを見たことがない。
いつも彼は怯えているように思えた。
死者をこの世に召還した、罪に。
その罪を問うてしまうのは、きっと自分達の行いだ。
もし自分がこうすることが彼にとって多少の救いであるならば、それは自分にとっても幸福だと思えた。
「馬子にも衣装とはよくいったものだな」
当の本人はいつもの通りだ。相も変わらず、口が悪い。
「そうかもしれない」
冗談なのか本気なのか。どちらかは知らないが、この姿で怒るのも美しくない。
そう。この世で一番の幸せを約束されているのは、花嫁なのだから。
たった一言で、どんな暴言も許す用意がある。
「あんたに比べりゃそうかもな。着ればよかったんだよ、あんたもウェディングドレスを。似合っただろうよ、あたし以上にね」
「言うじゃないか。手を引く人間がいなくてもいいのか?」
冷ややかな視線が返される。よく砥がれた刃物のような、綺麗で堅い光だ。

「そしたら彼が迎えに来てくれる」
いつもなら絶対に言わないその一言を、今日の彼女は簡単に口にする。

今後、どんなに悩んでも悔やんでもいい。
今までの苦悩を忘れてもいない。
それでも、今日、この日のこの時間だけは誰よりも幸せだと思い、笑顔を絶やさずにおこう。
それが、自分自身との約束だった。
どんな身勝手な願いも、今日だけは許される。


自分の一言など、全く意に介していないといった笑みが彼女からこぼれた。
なんと表現すればよいか、彼女の、今日のこの美しさを。幸せに彩られた豊かな表情を。
今日はどんな皮肉も通じないらしい。
ふっと、片目を細めてシャルルは笑みを浮かべる。
眩い白金髪の影響か、彼の笑顔がきらきら輝く。
薫から礼拝堂へ向き直ると、すこし肘を突き出した。
大人しく薫はその腕に、自らの腕を絡めた。
本物のパイプオルガンの豊かな音色が礼拝堂から漏れてきた。
「この若さで私も父親か?」
「そうだな。主治医から兄くらいには格上げしてやるよ。今日から本当の兄は兄ではないから」
そのセリフに、シャルルは驚いたように薫を見つめた。
隣の花嫁は限りなく美しく清らかだ。
いつもからは想像できないほどの傲慢なことばはどこから来るのか。
ひときわ大きくパイプオルガンの音色が響き、二人の前に入り口が開かれた。

彼らの前に、まっすぐに続く赤い絨毯。
シャルルは腕に絡まれた薫の手が震えるのを感じた。
まぶしいほどの光。
その中に薫が求め続けていた人物が待っている。
励ますように、レースに包まれた手に、自らの左手を重ねて力を込める。
シャルルが一歩踏み出した。半歩遅れて薫も足を差し出す。
ゆったりと一歩ずつ。

ヴァージンロードを。

このような幸せが、この世の中にあったなんて。



  求めなさい。そうすれば与えられる。
  探しなさい。そうすれば見つかる。
  門を叩きなさい。そうすれば開かれる。
  


シャルルが足を止めた。
するりと薫の手がシャルルの腕から離れた。
愛する人の下へと、憚りなく。
二度と涙は零すまい。
二度と、悲しんだりはしない。
長く、暗かったトンネルは、そこにはもうない。

磁力に引き寄せられるかのように、ごく自然に薫の左手は、次の人の腕に収まる。
きれいだよ、彼の口がそう囁いた。
見上げた彼は昨日までの憂いを捨て去り、幸せそうに微笑んだ。
そんな彼の笑顔を見るのは、何年ぶりだろうか。
ずっと、翳りのある笑顔を見せ続けていたから。
響谷巽は隣に並んだ美しい恋人の姿に、まるでまぶしいものを見るかのように目を細めた。


賛美歌が捧げられる。
まるで走馬灯のように、哀しみ、苦悩、喜びなど、彼とともにあった時間が戻ってくる。
彼も同じことを考えているのだろうか。
全てを彼と共にありたいと、私が願っていたように、彼もまた。
祈祷も、賛美歌も、哀しみを知ってこその詞だった。
知らなければ、何の感慨も温かみもあるまい。
賛美歌の詞の一つ一つが、神父様の告げる詞の一つ一つが胸にしみる。
きっとこの時を、一生忘れることはないだろう。

「指輪の交換を」
真珠を詰めたリングピローが持ってこられた。
ジルが私たちのために作ってくれた。白いレースから大小の真珠が透けている。
小さなフリルの縁取りと十字に淡いサテンのリボンが施してある。
真ん中に、リングが置かれていた。

私たちは、その指にリングをはめることを互いに禁じた。
誰からもわかりやすい形で、自分たちの愛の成就を知らしめることはしてはいけない。
巽はリングの通された細いプラチナの鎖を手に取ると、そっと、そっと薫の首筋に伸ばした。
彼の手が離れると、薫の首筋には心地よい重みが感じられた。
くっきりとした鎖骨の窪みに、ダイヤのリングが輝く。
次に薫が。
同じように彼の首にリングの掛かったプラチナの鎖を留めた。

  

  だれでも、もとめるものは受け、
  探すものは見つけ、
  門を叩くものには開かれる。




「誓いのキスを」
色白の滑らかな頬に巽は手を伸ばす。
少し上向かせると、軽くその唇に自らの唇を重ねた。
見上げた薫の大きく澄んだ瞳には涙がこぼれんばかりに溜まっていた。
もう一度巽は顔を寄せて、薫の目尻に唇を触れた。

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永遠の愛を、君に。
永遠の愛を、あなたに






藤本ひとみ同盟様主催のシャルル&薫誕生祭に寄せた作品です。


おまけ

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