ガラスのツリーの元で
パッカン、パッカン…。 不愉快な音を立てて、薫が現れた。 私は視線を上げる。 さんさんと照りつける太陽がまぶしく、私は目を眇めた。 薫は、同じく不愉快そうに眉をしかめて、東屋の影に座るシャルルを見下ろす。 彼にしては珍しく軽装だ。 グレーのポロシャツに、麻のパンツ。 それでも薫は不満に思い、乱暴に口を開く。 「暑苦しいな、シャルル。プールサイドに相応しくない」 シャルルは、瞳を保護するためのサングラスの下でその瞳をきらめかせる。 薫は露出度の高いビキニを着ていたはずだ。 細いリボンで支えるホルターネックと同じく、小さなショーツもサイドでリボンを結ぶだけのデザインだった。 それでもいやらしさを感じさせないのは、それが上品なこげ茶色だったからだろう。 だというのに、今の薫はその上からシャネルの白いコットンのパレオで全身を覆っている。 うなじで固く結ばれたパレオ。 覗いているのは、両の肩から腕、足元は膝から下のみ。 「何の為に、クリスマス休暇に南半球まできたと思ってるんだ? 君が真夏のクリスマスを味わいたいと言った為だ。私は、夏を楽しむつもりはない。暑苦しい格好で結構」 傍らのテーブルから空色のドリンクを手に取ると、シャルルはそう言ってから、飲み下す。 「君の格好のほうが、問題だな。スタイルに自信がないのか?」 優雅な動作で立ち上がると、薫の華奢な身体を包み込むように背後に回り、左腕はそのまま優しく細いウエストを抱きしめた。 続いて右の手は背中から、パレオの結び目にたどり着く。 固く結ばれたそれを解こうとすると、するりと薫は腕の中から逃げ出した。 「触らないで」 素早く振り返り、薫はパレオの胸元を強く握り締める。 柔らかな素材のパレオはクシャっと皺を寄せ、また新たなラインを描いて薫の身体にまとわりつく。 薫は眼差しを強めて、抵抗を露にする。 その様子に、すぐに薫がパレオを纏った理由を悟る。 目前には、鮮やかな太陽の光を受けて反射するプール。 世界のVIPが集うこのリゾート地では、何よりもプライバシーが尊重されている。 ひとつひとつのコテージにあるプールの向こう側は低い生垣になっていて、その先には白い砂浜と 南国特有の遠浅のエメラルドグリーンの海が広がっている。 プールもビーチもプライベートなもので、呼び立てない限り誰も入ってはこない。 「誰も見ていない」 私は、もう一度薫に歩み寄り、後ろから抱き寄せる。 そしてパレオの上から彼女の隠す胸のソレをなぞった。 薫は私の腕のなかで小さく震えた。強張った横顔に、さらに緊張の色が走る。 「隠さないで、いい」 5センチほどのヒールのあるミュールを履くと、薫の視線は私のそれと変わらない。 身をかがめることなく、私はその白い耳元に口を寄せて囁く。 そして私は少し力を込めて、右手でパレオの結び目を解いた。 サラリと小さな衣擦れの音を立ててパレオが薫のウエストを抱く私の左手に滑り落ちた。 同時に強い力で薫はパレオを奪い返すと、私の腕から逃げ出した。 スロープを駆け下り、水の中に姿を隠す。 シャルルの手が、固く結んだはずのパレオを解いたことはすぐにわかった。 羽のように軽いパレオだけれど、僅かに首元に感じていた重みがなくなり、重力に従って身体にまとわりながら 落ちていくのを感じた。 真夏のクリスマスを望んだのは、私。 派手に肌を露出するビキニを選んだのも、私。 けれど白日の下にさらすには、私は穢れていた。 そこにシャルルしかいなくても。 今更、シャルルに隠す必要がないと、わかっていても。 鮮やかすぎる真夏の太陽が、まるで私を辱めるかのようにさんさんと降り注ぐ。 シャルルに肌を見られるより先に、私は水の中に逃げ込む。 光を反射する水が、私と私の醜い傷痕を隠してくれるはずだった…………。 けれど。 予想していたよりもずっと冷たかったプールの水温。 足にまとわりつくパレオ。 私の身体は萎縮した。 水面は、光を反射する。 ……怖い………。 思いがけず、恐怖が私の心を占めた。 そう思った瞬間、私は私を見失っていた………。 水の中に逃げ込んだ薫。 そうすることは、半ば予測していた。 だから、今度はどうやって彼女を水の中から出してやろうかと、どんな言葉で誘おうかと、計算を始めていた。 だが彼女の表情の急激な変化は、まるきり想像していないものだった。 水に入った瞬間、彼女の瞳に恐怖が走った。 ………溺れたか!? シャワーも浴びずに、急に水に飛び込めば、水に慣れている人間であっても、足がつることもある。 まして、彼女は全身にパレオを纏ったままだ。 重みをました布は、水中で彼女の行動を妨げているだろう。 薫は一瞬にして蒼白になり、そのまま………水中に姿を消した。 私は焦って、その後を追う。 水中にもぐり、沈んでいくその身体を捕まえた。 プールは、足が届く高さだ。 彼女の脇の下を捉え、私はグイとその身体を持ち上げた。 気を失っているならそのほうが楽だったが、水面に顔を出した途端、薫は暴れだす。 「……いやっ………」 私を突き飛ばそうと、薫は必死に抵抗する。 もはやパレオを取ろうとしたことが、このパニックの原因でないことはわかりきった話だ。 では、何が彼女をここまでパニックに陥れている!? 「薫、大丈夫だ!暴れるな」 私が声を張り上げても、薫には届かない。 「薫!大丈夫だ!薫!!」 全力で暴れる薫を、私は押さえつけようとしたが、服を着たままでは、思う通りにはいかない。 もともと薫は背が高く、力も女性にしては強いほうだ。 それが全力で暴れてるとなると、あまり優しくもしていられない。 暴れる薫は、何度となく水の中に沈みかけ、その度に水を飲み込む。 仕方なく、私は薫が水面から出たところをねらって、拳を強く彼女に振り下ろした。 薫は意識を失い、そのまま水中へと沈んでいく。 力の抜けた身体を水中から引き上げ、プールサイドに横たえた。 顔面は蒼白。かなりの量の水を飲んでいるかもしれない。 私はまず、その水を吐き出させようと処置を施す。 激しく咳き込み、大量の水を吐きながら、薫は虚ろに目を開く。 「薫!」 私は呼びかけたが、薫は力なく視線を彷徨わせながら、掠れた声をあげた。 「ご、め…なさ、い……。ごめんなさい………、ゆ…る……」 聞き取れないほどの、小さな声。 そのまま薫は、再び意識を失った。 青ざめた頬を濡らしたのは、プールの水か、それとも………涙、か。 一面の窓からは、傾きかけた太陽が鮮やかに差し込む。 部屋の片隅には、ガラスの繊細なツリーがその光を受けて、眩く輝く。 真夏のクリスマスに、もみの木は野暮かもしれない。 そのガラスのツリーを、薫はここに来たときから気に入っていた。 涼しげで、ライトをつけずとも、差し込む太陽の加減によって刻々と色をかえているようにも見える。 鎮静剤の影響で、薫はまだ眠っている。 何があったのだろう。 薫は泳げたはずだ。水に恐怖心があったとは思えない。 だがあの時の反応は、明らかに普通ではなかった。 何が、あった? 「……ご、め………ゆ、……して」 気を失う前と同じ言葉を、薫は目覚めるとともに口走った。 きつく閉ざされていた瞳が、ゆっくりと開かれる。 焦点は合わず、まだ彼女が夢と現の境にいることをしめしていた。 冷たい手を握り、私は自分の存在を伝える。 「大丈夫だ、私はここにいる」 強く、彼女の手を握り締める。指先が白くなるくらいの力で、握り締める。 「大丈夫だ」 その声が届いたのか、薫はようやくこちらを見た。 「シャルル…………」 「大丈夫」 私は、繰り返した。 薫が何を思い出し、どうして謝り続けるのか、私にはわからなかった。 でも彼女が今、欲しているのは、許し。 どのような言葉でもなく、ただ、赦しを求めていた。 「謝らなくていい」 私は断定するように、少しだけ強い口調で言った。 薫は、ほんのわずか、微笑んだ。 でも次の瞬間にはその頬を引きつらせ………嘔吐した。 朝からもう何時間も食べ物を口にしていないから、吐けるものは殆どない。 きつく眉根を寄せ、薫はその苦痛に耐えた。 時差もある。 真冬のパリから南半球では、気候も違いすぎる。 もともと身体に負担はあったのだ。 そこに、精神的なダメージが追い討ちをかけたのだろう。 「薫」 「だい、じょ……、し…ぱ、……な…いで」 殆ど聞き取れない声で、途切れ途切れに、それでも必死に薫は伝える。 “大丈夫、心配しないで” それは無茶な相談だ。私はひとりごちる。 「タオルを取ってくるから、待っていられるね?」 薫は小さく頷いた。 まだ動けそうにない。返事はしているものの、意識は朦朧としている。 ベッドに薫を残し、私は蒸しタオルを取りにベッドルームを出ようとした。 途端に響く、激しい破壊音。 慌てて振り返れば、ベッドで横になっていたはずの薫が、ガラスの破片とともに床に倒れこんでいる。 無残な姿で散乱しているのは、サイドテーブルの上に置かれていた花を模したスタンド。 「薫!」 慌てて駆け寄ると、呆然と視線を彷徨わせながら、薫は私に語りかけるでもなく、呟く。 「シャワーを……」 蒼白な頬にガラスで出来た傷が付いていて、一筋の血が伝っていた。 厚手のタオル地のガウンのお陰で、身体には目立った傷は付いていないが、ガウンに守られなかった ふくらはぎから下には、幾つか小さな傷が付いている。 「待っていろと言った。私の許可なしに動くな」 そう言っている間にも、薫は身体を起こそうとして床に逆戻りだ。 また新たな傷が付いて、血が流れた。 「私の行動にシャルルの許可が、必要か?」 その痛みが朦朧とした意識を回復させたのか、その受け答えは先程よりはマトモだ。 いや、マトモなのだろうか? 「必要だ」 靴底でガラスの破片を踏みしめると、ジャリ、と不愉快な音がした。 散乱するガラスの煌きのなかで、動けずに横たわっている薫を抱き上げると、力なく私に全てを委ねる。 「………ならば、シャワーの……許可を………」 水に恐怖し、溺れかけたばかりだ。 それは余りに無茶な要望と言えた。 「お、ねが………い」 苦しげに、大きな息を吐き出しながら、薫はゆっくりと瞼を閉じた。 結局、私は薫の要望に応えてしまった。 ハッキリ言えば、体力的にも精神的にも、バスを使わせるのには無理があった。 それでも、あの瞳に………負けた。 薫は、我侭を通すのが得意だ。 私はいつも負けてしまう。 医師としての自分は、いつもその我侭の前に屈するのだ。 願いどおりにバスタブに身をひたし、薫はゆっくりと身体の緊張を解いた。 「気持ちいい」 吐瀉物で汚れた身体は、もちろん拭き清めるよりは、バスで流したほうが気持ちもいいだろう。 だが、熱い湯は憔悴した身体には負担が大きい。 幼少の頃からヨーロッパの文化に染まりきった薫なのに、熱い湯を好むところだけは、しっかりと日本人だ。 身体に悪いと止めようが、薫のシャワーの設定は、私には熱すぎる42度。 いかにも気持ち良さそうに身を浸すその熱い湯が、どんどんと薫の体力を奪っていくように思える。 私は注意深く、バスタブに身を任せる薫を背後から見守る。 「そろそろ、上がったほうがいい」 「あぁ…」 珍しく、彼女は私の忠告に従い、バスタブから出ると、さらりとガウンを羽織った。 そのまま私のほうに歩み寄ろうとして、膝から崩れるようにして意識を失った。 …無理もない。 予想通りの展開に、私は倒れこむ熱い身体を両腕で抱きとめた。 薫の部屋はガラスが散乱したままになっているので、バスから程近いゲストルームに薫を運び込んだ。 真新しく整えられたベッドに、薫は力なく横たわる。 鎮静剤の連続的な投与は、心臓への負担を強める。 ただでさえ時差と気候の差によって疲労が高まっている時だ。 私は心臓への負担を重視し、鎮静剤の使用を諦めた。 そのため薫はその後もずっと、浅い眠りの中で嘔気で目覚めては吐き、気を失うようにまた眠る、を繰り返した。 夜の帳の中で、ガラスのツリーだけがライトで美しい青に染まっていた。 『クリスマスは冬のものだという先入観かな…。クリスマスの青は、ここの空や海ではなく、むしろ雪を連想させる』 薫の言った通り、その青は、私に真冬の故郷を思い出させた。 薫が私に未だに隠し事をしている事実が、哀しくなり、冷たい青がこころに凍みる。 もうすぐ陽が昇るだろう。 そうすれば、もうすこし温かみのあるツリーに感じるだろうか。 私は、大きすぎるベッドで眠る薫の隣に潜り込んだ。 薫の長い指に自分の手を絡め、私もゆっくりと瞼を閉ざした。 点滴の終了を告げる小さなアラームで、私は軽い眠りから引き戻された。 同時に隣で眠る薫も目を開ける。 「…朝?」 幾度も繰り返された嘔吐に、喉が荒れて声がかすれている。 私はその髪を撫でながら、そのことばをやんわりと否定する。 「どちらかといえば、昼に近いかな」 時計の針はもうすぐ10時半を指そうとしていた。 「………ごめん」 点滴を抜き取り、小さなガーゼを押し当てた時、ポツリと薫が言った。 「せっかくのクリスマス休暇なのに………」 「今更、私に気を遣う必要などないさ」 身体を起こすのを手伝いながら、その肩を軽く抱いた。 平静に近い薫の様子に、内心安堵した。 昨日のパニックの元はまだ聞き出せていない。 下手に刺激すると、また誘発しかねないから。 「シャワーを浴びたい…」 「ダメだ。身体への負担が大きすぎる」 「お願い」 「ダメだ」 「じゃ、自分で行く」 身体を起こすことさえ覚束ないのに、どうしてそう脅迫めいたことが言える? 結局、また私が連れて行くハメになる。 私はその瞳に勝てないのだから。 聖夜。 コテージを飾るイルミネーションは、さらに美しく煌く。 町に出れば、きっと真夏のイブを祝う人たちの波でごった返しているだろう。 このリゾートに集っているのは、世界中から集まったVIPのみ。 寒い故郷から、太陽の光を求めてやってくる。 ひとつひとつのコテージでは行き来は全くない。それぞれのプライバシーを保護するために。 けれど、聖夜、このリゾートでは中心にあるホールでクリスマスを迎えるパーティが催されていた。 立場上、参加しないわけにはいかなかった。 私は薫が参加することに異を唱えたが、薫にもヴァイオリニストとしての顔がある。 彼女とて、参加しないわけにはいかなかったのだ。 彼女は決して公の場で体調不良を口にしない。 それを口にすることは、ヴァイオリニストとしての立場を危うくするからだ。 だから、彼女は予定通りに今日の為に用意した鮮やかなオレンジ色のドレスに身を包み、スワロフスキーのチョーカーで その長い首を飾った。 彼女のドレスの邪魔をしないよう、私は艶のあるグレーのダブルボタンのスーツをチョイスした。 真夏のリゾート地のクリスマスパーティに、重苦しいスタイルは馴染まない。 私は、スタンドカラーの白のシャツの襟のサイドで黒のリボンを蝶結びにし、リボンの結び目に同じくスワロフスキーの 天道虫のピンを飾った。 珍しく髪も、オールバックに撫で付けてみる。 慣れたこととは言え、彼女は完璧だった。 部屋にいれば、立ち上がることさえ危ぶまれる程だったのに、いざパーティ会場に着けば、いつものとおり 退廃的なムードを漂わせ、魅惑的な笑顔を見せ、次々とパーティ客との挨拶をこなしていた。 けれど一切の食べ物は口にせず、ときどき口に含んでいたのはミネラルウォーターのみ。 パーティは日付が変わるまで続き、日付が変わると、それまでのはじけた雰囲気を一変させ、 口々に神の降誕を祝福しあい、それがひととおり済むと、パーティは幕を閉じた。 薫はよく頑張った。 パーティ会場を出たところで、エスコートする私に掛かる重みがぐっと増した。 荒い呼吸に上下する肩、額に滲む脂汗。 ピンク色の下地といつもより濃い目に入れたチークでさえも隠しきれない顔色。 それでも、何とか薫は自分自身を保とうと、最後の力を振り絞るようにして、歩き続ける。 私は薫の努力を無にしないよう、薫の身を支えて車寄せまでたどり着いた。 そこが限界。 車に乗り込んだとたんに、彼女は、全身から力を失くして、ずるりと私にもたれかかった。 「よく頑張った」 気分を変えるため、私はコテージに戻ると、今まで使っていなかった1階のゲストルームを使うことにした。 彼女の身をソファに横たえると、首を飾る重そうなチョーカーを取り去る。 「ワインが飲みたかったな…」 「身体が受付けない。やめておけ」 「シャルルも飲んでなかった…、何も私に付き合うことはなかったのに………」 「飲みたい気分じゃなかっただけだよ」 私は大きめのパフにミルクを取ると、薫のメイクを取ってやる。 続いて、拭取り様の化粧水をたっぷりと含ませたコットンで。 次は角質を柔らかくするローション、化粧水に美容液、乳液、最後に保湿効果の高いクリームを。 「いつもながら、記憶力がいいな…」 されるがままの薫から発せられることば。 私が、いつも薫が使うとおりに化粧品を使っているからだろう。 化粧水と美容液は、朝と夜で使うものが違う。それくらい、1度で憶えられる。 まして、私の知る限り薫はずっと同じブランドの同じラインのものを使っている。 忘れたくたって、できない。 「それだけが、取り柄だ」 私はクロゼットからナイトガウンを取り出した。 薫の身体を起こすと、私は彼女の背中に回った。 あのとき、プールでさらされることを嫌ったのは、滑らかな白磁のような肌に痛々しいまでに残る、茶褐色の手術痕。 後ろからドレスとコルセットを取り去ると、ガウンを羽織らせた。 「自分で止められるだろう?」 私の言葉の真意を理解したのだろう、薫は小さく身体を震わせた。 「……ごめんなさい」 私はその頼りなげな背中をかき抱いた。 「謝るな、君のせいではない」 そのまま、抱き上げてベッドに運ぶ。 「ゆっくり休むといい」 言い置いて、ベッドを離れようとしたら、右腕を薫に捕らえられた。 「泳ぐことは、怖くない」 求められるまま、ベッドの中で、薫の鼓動を感じながら、添い寝をする。 薫は、ポツリポツリと語りだした。 「昔から、プールは好きだったんだ」 「それで?」 「シャルル、私の嫌いなものを知ってる?」 薫の髪を撫でながら、私は思い出す。 イチジク。 マンゴー。 発泡スチロールのこすれる音。 女性の金切り声。 ホラー映画。 成金趣味の人間。 ニワトリ。 コウモリ…。 挙げれば、キリがない。あらゆる面に置いて、好き嫌いが多いから。 私は、薫のパニックの接点を持つものを考える。 「…熱帯魚?」 色鮮やかな熱帯魚が泳ぎまわる水槽が設置されたバーを酷く嫌っていた。 行き着いた回答は、どうやら正解のようだ。 彼女はくっと唇をかみ締める。 「ホントは、熱帯魚じゃない…」 「じゃ、なに?」 「水槽………」 水槽。思いもよらないものだった。 「それが、罪の原点だから」 彼女の身体の震えが止まらない。 呼吸も脈も早く、顔からは血の気が引いていく。 「何があった…」 彼女の状態に細心の注意をはらいながら、私は核心を尋ねた。 「水槽で、殺されかけたことがある…。白石マリの親族から…」 私は、響谷巽の調書を思い出した。 白石マリ…、入水自殺とみせかけられて巽が手を掛けた被害女性の名だ。 遺体の見つかった池の水を水槽に貯めておいて、そこで手を掛けたとなっていた。 それと、同じ体験をしていたというのか!? 「同じように、水を張った水槽の中に押し沈められて……」 薫は語り続ける。 「普段、バスやプールでそれを思い出すことはないんだけど…。 あの時、急に思い出して…」 「もういい。わかった。もう、話さなくていい」 私は力強く、薫を抱いた。 「彼は、瀬木さんは………あの冬、あの冬のクリスマスを、計画を練りながら過ごしたんだ」 薫は涙を流した。 それは、贖罪。 「人を殺すことを考えながら、復讐の火を燃やすクリスマスは、どんなに辛かったんだろうと……」 「それは、君の罪じゃない。君が受けるべき罪など、何もないんだ。君はなにも悪くなどなかった」 私は薫を抱きしめる。 薫は、これまで一人で、場違いなまでに華やかなイルミネーションに彩られた街で、その罪を抱えていたのだろうか。 その罪が赦されるときを願っていたというのか? 「もう今年で終わりにしよう」 涙を流し続ける薫に、もはや一点の曇もなかった。 薫の長かった贖罪のクリスマスが終わるのだ。 今、気付いた。 この部屋のツリーを照らすライトは、まるでヨーロッパの春を思わせるような、優しいピンク色。 ヨーロッパの春は、まだ遠い。 けれど、一足先に、ここには春がある。 「Joreux Noel!神のご加護がありますように」 「Joreux Noel」 小さなか細い声で、薫は答えた。 来年は、きっと華やかなクリスマスを迎えることが出来るだろう。 雪に閉ざされていたとしても、そこはきっと暖かいはずだ。 Joreux Noel 全ての人に、神のご加護がありますように…。 |
こちらは、 コトコさま主催の『HITOMI WORLD Verry Merry Christmas 2009』に投稿した作品です。
もっとパラレルっぽく仕上げる予定だったのですが、予定外にシリアスになってしまいました。
南国のクリスマスの意味なし(苦笑)
パラレルでこそ、活きるはずだった南国クリスマス…。
小説内のリゾートは、ドバイのような国をイメージしていただければいいのかなと…。
薫は、水槽で襲われた経験を持つわけですが、こういうのはトラウマにはならないのでしょうか?
『愛する君のために』のなかで、薫は真冬の海に飛び込んでるわけですが…。
経験上、水嫌いになってもおかしくないのでは?と思いました。
*イベント時は、できるだけ爽やか設定を心がけます*