一輪のバラ


同僚と軽い食事を済ませて家に戻ったのは22時を少し回ったところだった。
湿気が多く、暑い日だった。
本当なら食事と一緒に飲みたかったが、残念なことに予定外の食事で車だったのだ。

比較的早い時間だ…シャワー後に少し飲むか………。
愛車アルファロメオのエンジンを切り、巽は溜息をついた。

だる重い身体を引きずるようにして、巽は屋敷に入る。
この時間になるとメイドや執事も殆どが自室に引き上げ、屋敷も静かだ。
…のはずだ。
が。


カードキーでロックを解除し、正面玄関から邸に入ると、まだ煌々と灯りが灯されていた。
「おかえりなさいませ、巽さま」
丁重に腰をかがめて勤務時間を終えているはずの執事が巽を出迎える。
嫌な予感がして、巽は額に掛かる髪をうっとうしげにかきあげながら、執事に鞄を手渡す。
「何かあったのか?」
「奥様が、お帰りでございますよ」
巽は足を止め、髪をかきあげた手で顔を覆った。

−この疲れているときに…。よりにもよって、アレが帰ってきたか。
薫子の相手は何よりも疲れる。
しばらくは気の休まる時間は取れないだろう。

その様子に申し訳無さそうに声のトーンを落として執事が続ける。
「お戻りになったら挨拶にくるようにと……託っておりまして……」
「わかった。で、薫子さんは?」
とりあえず、面倒は済ませてしまおう。
その後で少し飲んで、そうして休もう。
「それが薫さまのお部屋に…」
さらに困ったように執事は視線をそらせた。









薫子が薫の部屋にいるということで、巽は薫の部屋をノックしたが返事はなかった。
「薫、入るよ」
一声かけて、鍵の掛かっていないドアを開けると、コンと何かを蹴飛ばしてしまった。
慌てて足元を見て、巽はうんざりとした。

「あら、巽!お帰りなさい!」
呂律の回らない高い声で、薫子は巽を出迎えた。

蹴飛ばしたのは、空になったワインボトルだった。
薫子の隣で薫はソファにもたれかかり、うとうとと眠っている。
間接照明の光を受け、長い睫毛が白い頬に影を落としていた。
右腕はだらりと絨毯の上になげ出され、左腕はその腿のうえに居場所を求めていた。
どれほど飲んだかと思えば、ガラスのセンターテーブルの上に空になったワインボトルが3本。
中身の残っているボトルが1本。さらに、自分が蹴飛ばしたボトル。

未成年で心臓に病を抱える娘相手に、なぜこんな事態になるのかと、巽は苛立つ。

薫子はビールをグラスに1杯飲んだだけで酔う人間だ。
大半を薫が飲んだに違いない。
「ただいま戻りました」
足元のボトルを拾い上げて、巽は言った。
「帰るとは伺っておりませんでしたが」
「そうだったかしら?しばらく、お世話になるわよ。再来週から都内で新しいCDの収録に入るの。それまではOFFだから」
いいながら、怪しい手つきで5本目のワインボトルから、なみなみとグラスに赤ワインを注ぐ。
「巽も飲みなさいよ!」
「遠慮しておきます」
差し出されたグラスには手を付けず、床に置かれていた薫のワイングラスをテーブルに戻しながら、巽は溜息をついた。
少し飲みたいと思っていたが、この惨状を目にしたらそんな気分はどこかに吹っ飛ぶ。
残るのは疲労だけだ。


「薫、ベッドで眠りなさい」
ソファに身を預けて眠っている薫の肩をゆすって起こし、巽は少し厳しい声で言う。
それほど深い眠りではなかったのか、すぐに薫は目を開け、ふと微笑んだ。
アルコールが入って動きは殊更鈍く、それが妖艶な笑みをかもし出していた。
「お帰りなさい……。今日も遅かったね」
いつもより少しゆったりした口調で薫は言い、緩慢な仕草で目に掛かる長い前髪をかきあげる。
白く細い指に、柔らかな曲線を描く髪が絡まり、秀でた額が露になる。
多量のアルコールで赤らんだ頬と潤んだ瞳が恐ろしいほどに妖艶なオーラを放ち、僕はすっと視線をそらせた。
「…暑いな」
溜息とともに漏らされたことばと同時に、薫の手がテーブルの上のグラスに向かって伸ばされる。僕がテーブルに
戻したグラスには、まだ3センチほどワインが残っていた。
薫の長い指がグラスを捕らえる前に、僕はそのグラスを取り上げた。
「よしなさい」


「わかったよ。シャワーしたら寝るから、兄さんも早く寝ろよ」
大仰に溜息をつきながら薫は髪を乱暴にかき乱して、僕の取り上げたワイングラスの代わりに、
切子のブルーのグラスにミネラルウォーターを注ぎ、一気に飲み干した。
「疲れてるって、顔に書いてあるぜ」
下からねめつけて、吐息混じりの少し掠れたテノールの声が響く。
「ねぇ、薫子さん。兄さんはお疲れだよ」
かなりのアルコールが入っているはずだが、それを感じさせない素振りで、酔っ払った薫子に語りかける。
一方で、どれだけのアルコールが入ったか不明だが、薫子は二人が話をしている間に深い眠りに落ちていた。
もともとアルコールには弱い薫子だ。すでに、薫が声を掛けても全く起きる気配はない。
「この調子だし、挨拶は明日にして兄さんも休んだら?」
薫子のグラスにミネラルウォーターを注ぎ、薫はそっと薫子の肩を叩いた。
「ありがとう、そうするよ」
きっぱりと言い切った薫に、二の句を差し込む余地はなかった









「………おはよう」
翌朝、寝ぼけた顔で薫子が食堂に姿を見せたのは、9時を回ってからだった。
「おはようございます」
出迎えたのは、巽だ。
当然のように身なりを整えている。
ストレートの柔らかい褐色の髪は乱れなく整えられ、クリーム色の地に鮮やかな色で小さな動物柄が描かれている
ネクタイが、その首元を彩っていた。
今日のスーツはダークグレーだ。
巽のクールな美貌にはよく似合っていたが、薫子の趣味にはまだ遊びが足りない。
「朝っぱらから、愛想のない声ね」
自分のことは棚に上げ、薫子は深く椅子にもたれかかる。
「こんな時間まで家にいるなんて、大学の教官も楽な仕事ね。そんなに暇ならもっと演奏活動を積極的に行ったら?」
「好きでこんな時間まで家にいるわけではありません。あなたがなかなか起きてこないからですよ、お母さま」
最後の言葉にアクセントをつけて、巽は薫子を睨みつける。
「その呼び方、やめてって言ってるでしょ」
不機嫌に顔をしかめる薫子に、巽はさらに冷たい視線を送る。
「たまには母親の自覚を持っていただこうと思いましてね」



「薫はまだ未成年ですよ?母親のあなたがアルコールを勧めてどうするんですか」



予想していた注意に、薫子はうっとうしげに髪をかきあげる。
「私が勧めたわけじゃないわよ。成り行きね。あなただって随分若いうちから遊んでたじゃない?巽。
薫に口出しできる立場なの?」
「そういう問題ではありません。薫は心臓が悪いんですよ。成人したって飲ませてはいけないんです」
巽の声には熱がこもる。
突き上げる苛立ちを抑えるのが必死だった。
あんなふうに薫がアルコールを煽るのは、今に始まったことではない。そのたびに注意し、諭し、
なんとかやめさせようとしてきた。
それを仮にも母親が一緒になって飲むなどと、到底受け入れられることではないのだ。

昨日の惨状の元凶であるはずの薫子に、当たらずにはいられない。


「昨日、久しぶりに薫のヴァイオリンを聴いたわよ」
巽の追求に、話の矛先を薫子は変える。

「怖かったわ。あの子、いつの間にあんな演奏するようになったのかしら」
思い出すかのように、目を細めて薫子は言った。
「あの歳であんな音出してたら」



「あの子も、永くないわよ」



ぐいと半身を乗り出した薫子からは、二日酔いの寝ぼけた表情がすっと引き、真剣な影を宿した瞳と、
試すような口ぶりがそこに残った。


「何があったか知らないけど」


一瞬ひるんだ巽に、薫子はもういちど椅子の背もたれにもたれかかった。


「たまには羽目を外させてやらないと、あの子持たないわよ」



何を知ったようなことを…。
巽は湧き上がる怒りに、拳を握って耐えた。
好きで彼女の生活を縛り付けているわけではない。

しかし薫子は知らない。
今の薫の病状も、荒んだ生活も、何もかも。
知れば、同じように彼女の行動に制約を付けたくなるはずだ。

「未成年、未成年って。フランスじゃ18歳で成人よ。もう薫も17歳なんだし、あなたがそうやってがんじがらめに
見張らなくても大丈夫よ。むしろ、いつまでも子ども扱いすることが、今の薫には良くないんじゃないかしら」


「ここは日本です。成人は20歳と決まっています。たとえフランスであっても17歳は立派な未成年です」

カタリと小さな音を立てて、巽は立ち上がった。
高い位置から薫子を見下ろす巽の視線は、薫に向けるそれとは違い、恐ろしいほどに冷たい。

「あなたに何がわかるというんですか」

「わかるわ、母親だもの」

「音楽家として、ではなく?そのほうがまだ納得がいきます」

「あなたが幾ら薫を大切にして、繭のなかに閉じ込めたって、ムダよ。巽の思う通りにはならない。巽、あなたがどんなに
愛情を注いだって、母親にも父親にもなれはしないのよ」

「そうかもしれません」

ドアの前に立ち、巽は振り返った。

「しかし僕は薫の年齢を間違えたりはしない。薫はまだ16です」


言い放って、巽は少し乱暴にドアを閉めた。



何がわかるというのだ。
何も、知りはしないくせに。
薫の生活がどれ程荒んでいるかもしらないのに。

いや、知ろうともしらないのに。
年齢さえ、憶えてはいないのに。

母親になりたいわけではない。まして、父親にだって。
ただ、力になりたい。
愛する薫を救いたい。病の縁から、退廃的な生活から。









「ねぇ。巽を怒らせてしまったわ。ダメな母親ね」
薫が帰るなり、ヴァイオリンの演奏をねだり、薫子はソファにくつろぎながら溜息とともに言った。
どれ程真剣なことかは定かではない。

「まぁ、怒るだろうね。兄さんはお堅いから」
皮肉げに唇をゆがめて、気にしない素振りで薫は応えた。
朝からお小言を頂いたのは、薫も同じだ。
多忙な生活で疲れが溜まった巽が、どれほど嫌味なことばを薫子に投げかけたかは、簡単に想像がつく。

「あ、今日は穏やかな曲でお願いね。あなたの音色で『シンドラーのリスト』なんて聞いたら、悲しくなって眠れなくなるわ」
勝手なことばかりを言う。『シンドラーのリスト』をリクエストしたのは、薫子なのに。
薫子は昔からそうだ。寡黙な父親とは違う。
家にいる時間は二人とも少ないが、それでも圧倒的に父親のほうが多い。
しかし存在感で言えば、薫子のほうが上だ。それは、この邸が薫子のものだからかもしれないが。
「じゃ、なにを弾こうか」
「定番だけど『愛の挨拶』か『トロイメライ』とか…。優しいのでお願い」

「たまにはあたしもリクエストしようかな。ピアノ」

調弦しながら、薫は言った。
薫子はソファから身を起こし、ぱっと顔を輝かせる。
薫子が音楽にかまけて育児放棄をしたからか、厳しくピアノの練習をさせすぎたからか、二人のこどもはなかなか
演奏を楽しんで聞くとか、演奏をリクエストするなどということはしてくれないのだ。

「いいわよ、何が聴きたい?」
「『カンパネラ」
「イジワルね、苦手なのを知っているくせに」
「好きなんだ。ヴァイオリンで聞くよりもずっとピアノのほうがあの曲の美しさを表現できる気がする」
自身もヴァイオリンで弾くが、薫はピアノで聴くほうが好きだった。ヴァイオリンで弾いていても、伴奏のピアノの旋律に
耳が奪われるほどだ。


「カンパネラなら、巽にねだりなさいよ。あのこの方がずっと上手よ」
「かもしれない。でも兄さんのカンパネラは正確すぎて、居心地が悪い気がするよ」
「あなたは、ピアノでは弾かないの?」

薫子は、巽が子供の頃は仕事量を抑え、よくピアノの練習をさせたが、二人目のこどもである薫のこどもの頃は、
全く育児にはタッチせず仕事ばかりしていた。
そのせいだけでもないが、薫はピアノ演奏を苦手にしていた。大切な娘が、ヴァイオリンばかり弾くのは寂しい。

「あたしが弾いたって、鐘の音どころか壊れた目覚まし時計くらいにしかならないよ」

自分の演奏を皮肉って薫は言う。

「レッスン、してあげようか?」

「いらない」

言いながら、目配せをして薫はヴァイオリンを構えた。
言い募ろうとした薫子も、すぐに察して口を閉ざす。
グァルネリからは、何とも言えず甘く切ない調べがこぼれだす。

確かに、薫はピアノを弾いているよりヴァイオリンのほうが似合う。
ピアノでは決して世界を目指せるようなレベルにはないが、ヴァイオリンでなら、いつかこの子は世界の頂点まで
上り詰めるかもしれない。
そう思わせる音色だった。


上品で甘美な音を響かせて、あっという間に3曲を弾き終えた。
薫子は、優雅な仕草でヴァイオリンを下ろす薫を見つめた。
多少息は上がっているが、常人と同じレベルだ。
巽の言うとおり、薫子は薫の持病の具合を何も知らない。
全て巽にまかせっきりだ。

「ねぇ、気分は悪くない?」
唐突な薫子の問いかけに、薫は怪訝そうに首を傾げた。
「特に………。何か、変?」

「ううん……………どれくらい弾いたら発作って起きるものなのかなって………」
少し拗ねたような口調で、薫子は言う。
巽に何を言われたのだろうか。

「そのときの体調次第だよ。2〜3曲弾いただけで毎回発作を起こしてたら、ステージに立てないどころか、
練習だってできやしないよ。兄さんに何か言われたの」

「あの子、誰に似てあんな嫌味な性格なのかしら。まだ27歳の若造が、ぴりぴりしちゃって」
ソファに身を委ねて薫子は乱暴に言い捨てた。


「薫子さん、兄さんはまだ25歳だよ。『自分のこどもの年齢も覚えていないんですか』、とかってまた怒られるよ」
人さし指で目尻を吊り上げ、巽のまねをしながら薫は笑った。
「もう遅いわ。今朝、あなたの年齢を間違えて怒られたもの。それに、巽は自分の年齢を間違えられたって怒りはしないわ」

頬杖をついて、薫子は自嘲気味に言った。

「きっと、私が将の年齢を間違えたって、私が不健康な生活をしていたって何も言わないに違いないわ。
あの子が怒るのは、薫に関してだけよ。本当にシスコンなんだから」

「そんなこと、ない」
反論した薫の声は、ふいに鋭いものに変化していた。
思いつめたような三白眼は手元のヴァイオリンに落とされ、不安定に揺らめいていた。
拳ににぎった右手が、心なしかかすかに震えている。

………二人の間には、何があるのだろうか。
巽も、薫も、お互いのことには、驚くほど敏感だ。
何がそこまで兄妹の絆を深めているのか…。


「兄さんは、勝手に親代わりを買ってでて、神経質になりすぎてるだけだ」

きゅっと唇をかんで、薫はまたヴァイオリンを構えた。

「弾き終わったら、次は薫子さんだよ。リクエストはハンガリー狂詩曲。得意だろ?」

薫子に言葉を挟む隙を与えず、薫は一気に弓を引いて音をはじけさせた。









今朝は薫にも辛く当たってしまった。
薫子の行動に苛立っていたとは言え、朝からのお小言には少し言葉がすぎてしまったかもしれない。
せめて今日くらいは早く帰り、同じ食卓で夕食をとり、フォローしておきたかったのだが積み残されている仕事が
そうはさせなかった。
結局は、23時という遅い時間になってしまった。

駐車場から足早に邸に向かいながら、巽は練習室に明かりが灯っていることに気付く。
………薫子だろうか。
薫子がオフにこんな遅い時間まで練習しているとは考えにくいが、灯りが灯っているのはグランドピアノの置かれた
第1練習室だ。薫は普段使わない。


足を向けると、以外にもそこでピアノに向かっていたのは薫だった。
のぞくと、珍しく一心不乱にピアノを弾いている。いつもは嫌々なのに。
軽くノックをして練習室に入ると、薫は少し息を乱しながら、頬を高潮させていた。
「珍しいね、どうしたんだ?」
前に置かれた楽譜を覗き込むと、『カンパネラ』が広げられている。

「カンパネラか、お前は好きだね」

薫は椅子に深く腰掛けて、片目を細めるように笑い、大きく伸びをした。
「昼間にさ、薫子さんに付き合っていたら、練習ができなくて………。さっきまではヴァイオリンの練習をしていたんだ
けど、久しぶりにピアノも真剣に弾いてみようかと思って…」

「で?どうだ、出来栄えは?」
「全然。やっぱり、カンパネラは苦手だ」
「カンパネラは?」
意地悪く言ってやる。
「カンパネラ、も。にしておくよ」

巽は、傍らのソファにジャケットと鞄を置き、ついでにネクタイも緩めてピアノの横に立った。
「少し、見てやるよ。弾いてご覧」
「ん、どうしても、高音のところが重くなって、クリアに響かないんだ。全体的に、雑な感じになってしまう」

真剣な面持ちでピアノに向かい、静かに鍵盤の上に手を置くと、聞きなれた美しい旋律が奏でられた。
巽は椅子に腰掛けながら、注意深くその演奏を聴く。
確かに、雑な演奏だ。
どうしたら、カンパネラがこうなってしまうのか………。
巽は半ば呆れながら、熱心な薫の演奏に耳を傾ける。

先ほどからずっと練習していた為か、何度となく弾いたことがあるためか、ミスはない。
美しい旋律は高音を響かせながら佳境に入り、カデンツァが曲の終わりを告げる。


最後の和音を響かせると、薫は全く納得の言っていない渋い顔をあげた。
「どお?」
素人が弾いたかのようなメチャクチャな演奏に頭を抱えたくなるのを抑え、鞄の中から赤鉛筆を取り出した。

楽譜に細かにチェックを入れる。

「ここの高音のところ。肝心なところなのに、毎回、音の長さが微妙に違うんだ。そのばらつきが雑な印象を与えているんだ」

「ここは、音が強すぎる。もっと静かに、もっと硬い感じで」

「ここは、右手が弱すぎる。もう少し力強く響かせたほうがメリハリがでる」

気になった点を一つ一つ注意していく。

「もう一度、注意して弾いて」

空で手を微妙に動かしながら僕の注意を聞いていた薫は、深呼吸をしてからもう一度、最初から弾きなおす。

「違う、音がばらついている。もう一度、右手だけで弾いてみて」









「何か、顔色が冴えないわよ」
翌朝、爽やかな笑顔を浮かべる薫子に対して、巽は身なりこそ普段どおりに整えているものの、いかにも寝不足と
いったような顔つきだった。
基本的に、薫子は早寝早起きと言う健康的な人間だ。

「薫も妙に腫れぼったい顔してたわよ」

濃いコーヒーをすすりながら、巽は決まり悪そうに口を開く。

「昨晩、薫にピアノのレッスンをしていたんです。つい熱中してしまって…」
「何時?」
「明け方の4時半です。ついに薫が貧血を起こしてしまって………」

薫の健康について薫子に文句を垂れたのは、昨日の朝のことだ。
それを、自分が貧血を起こさせるまでレッスンしていたのが深夜とは、余りにも格好が悪すぎる。

「ま、いいじゃない。薫、顔色も機嫌も悪くなかったわよ」

「しかし…」

「それでいいのよ、巽」
寛容に薫子は言う。

「よくありません。それに、深酒はもっとよくありませんよ」
巽は鋭く切り返す。

「いいのよ、巽。それでいいの。ピアノだろうと遊びだろうと、たまに時間や立場を忘れて没頭することは悪いことでは
ないわ。ちょっと貧血を起こしたくらい何よ、生死に関わる発作を起こしたわけでもあるまいし。もっと、そういう機会を
持たせてやりなさい」

巽とは対照的に、砂糖をたっぷり入れたロイヤルミルクティーを口にして薫子は受け流した。

「それにしても、失礼な子ね。薫、昨日の夕方、私のレッスンを拒否したくせに」
「薫にピアノとヴァイオリンを教えたのは僕ですよ、それは当然です」
「あら、何よ」
「何ですか」

平然と反抗する巽を薫子は見返す。
巽が自己主張するのは薫のことだけだ。

どこまでも薫を溺愛しているその様子は、まるで一人娘を心配する父親のようでもある。
だが、母親の役目を譲る気は薫子にはない。

「薫は私の娘よ。ピアニストの私がいるんだから、いつだってレッスンくらいしてあげるわ」
「薫は僕の妹でもあります」

「何よ」
「何ですか」

「嫌な子ね」
「あなたに言われる筋合いはありませんよ」










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