SquereBox
| クッションの堅い座り心地の悪い椅子に収まると、見慣れた注意書きが目に入った。 日に焼けてすすけた茶色い紙。 数ヶ月ぶりの待合室。 毎月一度の訪問を、どれほど喜ばしい思いで待ちわびていただろう。 雨でも雪でも、それでも毎月この場所に足を運んだ。 それなのに、今日は何故かため息が止まらない。 かつてこの場所でため息など付いたことがあっただろうか。 なかったはずだ。 この殺風景な待合室での時間は、どんな場所で過ごすどんな時間よりも心が弾む時間だったのだから。 いや。 あの時ならため息の一つもついていたかもしれない。そう、来る度に面会を断られ続けていた、あの時なら。 学校が休みの度にやってきては面会を断られ、振り返り振り返り、この場を去った。最も哀しく、辛い日々だった。最も その時には、自分のため息など感じる余裕などなく、自分がため息を付いていたかどうかも思い出せない。 あの時は、どうやってここまで来て、どんな顔をして帰ってきたのだろう。 思い出そうとして、ふと思考が空回りしていることに気付いき、薫はふっと笑いを滲ませた。 なぜ、こんなにも憂鬱なのだろう。なぜだ? 数ヶ月ぶりに会えるんだ、あの人に。 それなのに、なぜこんなに後ろめたいんだろう? そうだ、何も悪いことなんてしちゃいない。 責められるおぼえなんてない。悪いことなんかしちゃいない。 「…番、面会!」 無愛想なアナウンスが響いて、自分の順番がきたことを告げる。 ため息と共に立ち上がり、アナウンスと同じく無愛想な女性係員の後に続いて、面会室に向かう。カツーンカツーンと靴音が 異常に響く廊下。 暗くて湿気が多い。 その場所から、幾度兄のいる部屋を思ったことだろう。 もっと寒くて、もっと湿気っぽくて、そしてもっと暗いに違いない、彼の部屋を。 通された面会室で彼を待ちわびる。透明なボードの、さらにその奥の重い扉の、曇りガラスの先を。曇りガラスの向こうに 人影が見えると、いつも立ち上がる。 兄がやってくるのに、座って待っていられようか。 慣れてしまった動作のひとつだった。 数ヶ月の時間が空いたとしても、身に付いた動作は忘れようがない。 ガシャンと耳障りな音を立てて扉が開く。係員に連れられて待ち焦がれたあの人が姿を見せる。 いつもと同じように洗練された輝きを失わない。その優雅な歩き方も、微笑みも。 どこでどんな身なりであろうと、その美しさは溢れるばかりだ。 彼が腰掛けるのとほぼ同じタイミングで、腰掛けた。瞬きさえ忘れてしまう。数ヶ月ぶりに会う彼の前では。 「よく、来たね」 いつもと同じ言葉。 いや、だけど少しだけ響きが違う。なぜだ? 「あぁ……」 ふっと眉根を寄せた哀しそうな表情が目に入り、自然と声が曇る。 褐色の、自分と同じ瞳の色。寂しそうに潤んでる。 なぜそんな顔をするのさ。 久しぶりに面会にきたっていうのにさ。 「響谷巽、面会だ」 その一言を、どんなにか待ちわびていただろう。どれほどの間、僕はそのことばを待っていただろうか。 きっとわかっていないだろう、いつも豊かな表情で突っ走る彼女のかたわらで、きらめく彼女の背中を、もはやこの場所から 離れられない僕がどれだけ焦がれていたかなど。 彼女は知る由もないだろう。 彼女の姿を見たとき、僕は果たして冷静でいられるだろうか。 取り乱したりせず、彼女を責めず、暖かく迎えられるだろうか。 係員の後に続き、様々な思いを馳せる。 身勝手なのは百も承知だ。かつては彼女の面会を拒んだこともあった。どれだけ彼女が苦しむかを知っていながら。 ことの発端も、彼女は身勝手だと自分を責めるだろう。 僕は僕の好きに行動してきた。彼女を責められる立場になどいないのに。 それでも、彼女の自由にはさせられない。僕の知らないところでは死なせない。 がしゃん。 重い鉄の扉が開かれる。 面会室に足を踏み入れると、いつもの通り薫が立ち上がるのが見えた。 こちらを向いた薫の表情を注意深く観察する。 「よく、来たね」 いつもと同じ挨拶の言葉を薫に掛ける。 すこし彼女の顔が緩み、笑顔を見せた。 やはり……少し痩せている。 日に焼けて、顔色がくすんで見える。体調は悪くなさそうだが、それでも顔色はあまりさえないように感じる。 「どうした?」 僕の様子に不審感を覚えたのだろう。 不安気な様子で尋ねる。 「どうして……いつも、危険なことをする?」 その問いかけにこたえるように、僕は呟いていた。 この子は気付いていないだろうから。 どれほどに自分の行為が危険なことで、周囲の人間が、どれほど彼女を心配しているかなど、当の本人は気付いて いないだろうから。 突っ走る彼女が、どれほど危ういものであるか、知らないのは彼女のみだ。 「モザンビークなんて……!そんな内戦状態の国へ行くなんて、何を考えている?」 思わず責めるような口調になってしまい、気付くと薫はキュッと唇をかんでうつむいてしまった。 折角会えたのに、いきなりこれはなかっただろうか。 「伝えたつもりだったけど…?シャルルが…モザンビークに連れ去られた。原因はあたしだよ、あたしの手術のために 日本に来て、そのときに連れ去られたんだ。だから、あたしが行かないわけにいかなかったんだ」 ぼそぼそと小さな声で薫が説明した。 そんなことは、知っている。 あの子が、あの子がテープ一つ持って面会に来て伝えた。不吉な事実を持って。 あの子は、いつも薫を支えてくれる貴重な人物だ。 だが、いつも不吉な情報を携えて僕の元にやってくる。 「それは、聞いている。シャルルが、僕らのために拘束された事実も認識している。だが、お前が行ってどうなるんだ?」 薫が顔を上げない。 「役に立てるのか、お前がそんな国へ行って」 どんなに突発的な行動でも、自分に否がなければ、顔を伏せたりするような子ではない。 何を考えている? ひどく薫を遠く感じた。 「薫、こちらを向きなさい」 そろりと薫がこちらを向く。 のめりこむようないつもの眼差しは影を潜め、澄んだ三白眼は暗く輝いていた。 見えない、薫が。 その暗い闇が薫を包み、その心を誰の目からも覆い隠そうとする。僕の目からも。 僕はその瞳を覗き込むように、その闇の奥底の薫を見つめるように、じっと目を凝らす。 「薫……、話してはくれないのか?」 なぜ、気付かないのだろう。 巽は真正面から見つめてくる。 それなのに、気付かないのだろうか。 いつもいつも、あたしを清純で穢れなきもののように扱う。聖母マリアのように。 そんなことあるはずないのに。本当に信じているのだろうか、この世にそんなに美しい心をもった人間がいるなんて。 そんなにも澄んだ瞳で見られたら、汚い部分が全て見られるようで辛いのに。 綺麗に綺麗に、汚いものから全て包み隠して育てたつもりだろうか、ここにいるこの人は。 人の全てを知ることなど、到底不可能なのに…。彼はあたしの全てを知っているつもりだろうか。それとも幻想を 重ねているのか? 見つめられて気付いた。 なぜ面会が嫌だったのか、なぜ後ろめたい気分になっていたのか。 シャルルを探しに行くなんて大義名分だ。本当の目的はそんなことじゃなかったんだ。 見つかっても見つからなくても、よかった。 ただ、滅ぼせるかもしれないと思ったんだ。会うたびに巽に惹かれていく自分を。 願いどおりに死にゆく彼が、ずるいと思ったんだ。 「考えたことは、ないのか?」 ぼそりと渇いた声だった。 巽が怪訝そうに眉根を寄せる。 そんなに見るな、綺麗な瞳で、穢れたあたしを。 「あんたが、自分を滅ぼそうと思ったようにまた、あたしもそう思っているとは…」 彼が瞳を見開いた。 「一緒だよ、この世からいなくなる理由がほしかったんだ」 苦痛に、彼の顔が歪む。 褐色の瞳が潤んでいるように見えたのは、気のせいだっただろうか。 ちゃちな涙なんて、零しやしない。そういう奴だ。 ……でも、泣いていた。彼の心は。 あたしにはそれがわかった。 泣かせてしまったのは、自分だ。 非道なことばと振る舞いで、傷つけてしまったんだ。 「……ごめんなさい…こんなこと、言うつもりじゃ」 まるで薫に似合わない言い訳は、その前に告げられた気持ちがいかに真実であったかを物語っていた。 これが、報いなのか。 神よ、教えてくれ。 自分を滅ぼしたかった。 同じくらいに強く、彼女の幸福を願った。 罪を犯した報いは、彼女の不幸なのか? 認めない。 どんな報いでも受ける覚悟だ。いや、それをこそ臨んでいたのだ。 だが、彼女だけは幸福に、彼女だけは穢れを知らずに。 「でも、真実はひとつだけだよ、覚えておいてくれ」 薔薇の花弁のように美しい唇が新たなことばを紡ぎだす。 「愛してる。あんたが、どんなに破滅を願っていたって関係ない。あたしはあんたを愛してる。あたしが破滅を願ったって 同じさ。その事実は消えやしない」 いいきる彼女は、天使のように輝いて見える。 そうして、また僕に闇を彷徨えと言うのか? まぶしすぎて、僕はお前が見えない。 「安心しな、あたしはあんたの願うとおりにしてやる。幸せになれというのなら、なってやる。…けど、ほんのひととときくらい、 願ったっていいじゃないか。あんたと同じ道を歩むことを」 なぜそんなに強いんだろう。 おいていかないでくれ、僕を闇の中に。 「帰る。また来月、会いに来るよ」 行くな、薫。 ぱたん。 あたしは、面会室の扉を閉めて、そこに寄りかかった。 瞼を閉ざすと、彼の苦痛に歪んだ表情が焼きついている。 そんなにいけないことなのか、あたしが滅びたいと願うのが。 あたしは弱い。 いけないとわかってるからこそ、ここに来るのが怖かったんだから。 馬鹿だね。 その表情に耐えられもしないのに、彼を苦しませるんじゃないよ。 あたしが許さずに、誰が彼を許すんだ? 今、できることは何だ? 自分の為に彼を苦しませることかい? 否。彼の為に、苦しむこと。 美しい唇に嘲笑を浮かべて、薫は歩き出した。 |