Tasogare −黄昏−
ー今年の夏は…お兄様の誕生日の頃に別荘に行きましょう。 そう、薫が告げたのは梅雨が明けるすこし前。 夏休みが始まると同時に別荘に来て、観光客で最も込み合う8月の頭には 帰るというのが、毎年のパターンだったのだが。 そういう薫につられて、今年はお盆を過ぎてから別荘に来た。 「薫、カゼをひくぞ」 いつもの通り、別荘では読書をしたり、二人でピアノやバイオリン、気が向けば チェロやビオラを取り出して演奏する毎日だった。 それにも少し飽き、夕方になって二人で散歩に出てきたのだ。 国立でも朝夕に涼しさを感じられるこの時期、軽井沢ではしっかりと秋の気配を 感じることができる。 別荘の裏山を少し入ると、綺麗な沢がある。真夏でも冷たくて透明度の高い水が とうとうと流れている。 薫はせり出した岩に腰を掛け、足を水に浸して佇んだまま、ぼんやりとしている。 水の温度はかなり低い。 じっとつけていると、すぐに足先が冷えてしまうだろうに。 「大丈夫」 聞こえていないのかと思ったが、振り返らぬままに、少し経ってから、ポツリと薫が 言った。 最近、薫から笑顔が見られなくなった。 ゆるやかなカーブを描く巻き髪も、星のようにそりかえった睫毛も、青みを帯びた 大きな瞳も、本来はとても華やかであったはずなのに、どこか哀しげに見える。 「気持ちいい……」 薫の背中が駄々をこねていた。 まだ帰りたくないと。 いつまでもここでこうしていたいと、彼女の姿勢がかたっていた。 思春期なんて、そんなものだろうか。 大人びた表情と、しっかりと自立した考えをもっているが、伸びやかな手足には まだ少女の輝きを残していた。 何を悩んでいる? 憂いを湛えた瞳が、悩み事があると伝えていた。 「悩み事が……あったら、話なさい。いくらだって力になるよ」 ふっと彼女が見返った。訴えかけるような真摯な瞳で、僕を見た。 ほんの一瞬だったけれど……。 僕がそれに応えるよりも早く、薫はふっと視線をそらせると、皮肉気な笑みを のせて、手元のカゴのバックからハンドタオルを差し出した。 「タオルもお持ちじゃないのに、何一緒に足をつけていらっしゃるの?」 自分はレースのハンカチで足を拭くと、華奢な白のサンダルに足を入れた。 「帰りましょう、お兄様」 僕は彼女の悩みを聞くことに、失敗した。 受け取ったハンドタオルからは、ティファニーのトゥルーストの甘い香りがした。 薫の香りに包まれて、僕は一人、幸せを感じた。 数歩前を歩く薫は、長身なのに消えてなくなりそうなほど儚げだった。 山を守る神が、美しい彼女を気に入って連れていってしまうのではないかと 思うほどに。 追いついて、そっと薫の肩を抱いた。 薫の肩が震えてた気がしたが、少し力を込めて抱き寄せた。 ふと泣きそうな微笑を浮かべて、薫は肩に頭を持たせかけた。 「早く帰ろう、ずいぶん涼しくなった」 「そうね……」 そう言いながら、二人でゆったりとしたペースで歩きながら別荘まで帰った。 薫は、悩み事を打ち明けることもなく、相変わらず哀しい笑みを浮かべる生活を して……。 そして吹っ切るように、その秋には髪をばっさりと切り落とした。 愛しい子、薫。 僕は君の為になにをしてやれるだろうか。 幸せどころか、僕は君を不幸に導いてしまうかもしれないが……。 それでも。まだ今、狂気にとらわれるまでは、僕は君の幸せを願おう。 愛しい子、薫。 |