落  陽
〜 1 落日 〜

 


退屈な講義を終えて、響谷祐樹は構内のカフェテリアで昼食を取っていた。
ランチには遅い時間に、カフェテリアの中は閑散とし、一面の窓からはすでに傾きかけた太陽の日が低く差し込む。
紅葉の季節はとうに終わりを迎え、冬枯れの木から散り遅れた葉が吹き抜ける冷たい風に一枚、また一枚と落ちていく。


将来を嘱望されていた彼であったが、その怪我のせいでピアニストの道を絶たれ、一度は音楽から離れていたが、結局、
音楽の道を離れることができず、今は指揮者を目指して大学に通っていた。彼には人の目を惹きつける迫力も、人の心を捉えて
離さない情熱もあった。
否定しようの無い音楽の才が、彼を有能な指揮者へと押し上げていく。
同じ大学でピアノをどうどうと弾いている奴を羨ましく思うこともあったが、新たな目標を見付けた彼には、そういう人間を見るのも
それほど苦痛なことではなかった。


カフェテリア自慢のカプチーノを飲みながら、ぼんやりと人が行きかう中庭に目をやると、ヴァイオリンケースを下げた女性が通りかかる。
足早に通り過ぎる中世的な顔立ちのその女性が、彼に一人の少女を思い出させた。


あの事件から2ヶ月。……どうしているだろうか。



恋に落ちた二人。

潔癖な性格ゆえ、二人は互いに気持ちを確かめ合うことを許さなかった。
結果、一人は彼女のために犯罪に手を染め、妹は彼のために泣いた。慰めの言葉ひとつかけることもできなかったし、彼女もそれを
望んでいなかっただろう。
何も知らない他人の誹謗中傷に耐える姿が痛々しかった。
おおざっぱなように振舞っても、誰よりも繊細な彼女だからこそ。それでも背筋を伸ばして逃げることを知らない彼女だからこそ。
見ているほうがつらかった。

会うべきか、会うまいか……。

彼女に会いたかった。顔を見たかった。ニヒルないつもどおりの声を、聞きたかった。
けれど彼女自身の気持ちが乱れたままなら、会わないほうがいいのかもしれない。
しばし悩んだが、やはり会いたい気持ちが勝った。
彼はジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと、彼女の携帯電話を呼び出す。事件以来、学校には行っていない様子なので
この時間でも出るだろうと思った。
けれど、ややして繋がった相手は機械的なメッセージが流れるだけで、本人が電話に出ることはなかった。
続いて、自宅の代表番号をコールする。
今度は間違いなく、聞きなれた執事の応答が返ってきた。
「もしもし…、祐樹ですが。薫、お願いできますか?」
親しい付き合いをしてきたので、今更丁寧な挨拶を交わすこともない。
彼は短く言った。
「いえ……、今は…」
珍しく、響谷家の執事は言葉を濁す。

「出かけているのか?」

「いえ……」

執事は少し躊躇った。いつもと雰囲気が違うのを不審に思い、口を開こうとした時、執事が切り出した。

「薫様はご入院されております」
彼の視線が、鋭く光る。視線の先で、ひときわ強く吹いた風に、ざわりと木々が揺らめき、残り少ない枯葉を散らす。
「いつから?」
「2週間ほど前になります。誰にも言うなと、強くおっしゃるものですから……。僭越なことを申し上げますが、祐樹様。どうぞ、
薫様に会って差し上げてください。今の薫様は、見ていられません」

彼にしては感情的な声だった。

響谷家のメイドは、住込みも含めてどこか他人行儀なところがあった。薫や巽さんにも、あまり関心がないようだった。
けれどこの執事だけはいつも親身で、留守がちな両親の代わりに二人の成長を見届けていた。

頻繁に響谷家に出入りする祐樹にも親切だったし、パリに留学するときも優しい言葉で見送ってくれた。
そんな彼らしい心遣いだった。使用人としては口を挟むべきことではないだろうが、二人が生まれる前から響谷家に勤めている
彼としては、言わずにはいられなかったのだ。





薫が入院していたのは、掛かりつけの総合病院だった。

今までにも何度か入院したことのある病院で、迷わずに着いた。受付で病室を確認すると、まっすぐにその部屋へ向かう。病室は
いつものとおり個室で天井が高く、明るい部屋だったが、広い病室はどこか殺風景に見える。窓際に据えられた真白いベッド。
スタンドの上に、数冊の本が無造作に置かれていたが、ベッドの上に部屋の主である薫の姿はなかった。
祐樹は勝手に部屋をいじって、花瓶を探し出す。
サイドボードに無造作に片付けられていたガラスの花瓶は、うっすらと埃が被っていて、そのまま来客の少なさを示していた。汚れを
綺麗に落とすと、持ってきた花を活けた。少しでも彼女の気持ちが和らぐようにと、淡い色の花でまとめられた大きな花束だ。
それが終わると、ベッドサイドの時計に目をやる。
部屋についてから、かなりの時間が経っていた。
「すみません、あの、609号室の響谷なんですが、検査か何かでしょうか?」
ただ待っていても仕方ないので、祐樹はナースステーションをたずねた。
小柄な若いナースが応対に出てくる。
「いいえ。特に入っていませんが、なにかありましたか?」
「いや……。部屋にいなくて。待っていても帰ってこないもんですから」
祐樹の言葉に、ナースの顔がすっと緊張した。


屋上へ続く扉は開け放されていた。
冷たい風が吹き抜けるこの季節には人もまばらで、俺は広い屋上をぐるりと見渡した。

薫は屋上にいる気がした。

安静の指示が出ているにも関わらず、薫はふらっと病室を出て行くことがあるらしい。大抵は騒ぎになる前に、戻ってくるが、一度は
中庭で倒れているところを発見され、大騒ぎになったそうだ。
忙しい中、ナースが薫を探しに出ていった。
けれど、俺は薫が屋上にいる気がした。
小さなころから高いところが好きだった。臆することもなく、二人で庭師が使うはしごを使って高い木に登って叱られたこともある。


……いた。

日に透けて金色に見える褐色の巻き髪と長身。一目で薫とわかる。
ただベンチに座って、ぼんやりと空を眺めていた。

「薫」
振り返った薫を見て、驚いた。
ひどくやつれていた。不健康に痩せて、白く透ける滑らかな肌には赤みがなかった。
後姿のほうが、余程彼の知っている薫に近かった。
「久しぶり。どうしたんだい?」
ニヒルな微笑だけが、薫だった。
オレは、呆れておおきなため息をついた。
「どうしたじゃないだろう?なぜ、知らせてくれなかった?」
「別に。大したことないし。わざわざ祐樹にまで知らせなきゃならないこともないだろう?」
顔をこちらに向けようともしないで、そっけなく答える。他人事のような言い方が気に入らなかった。
「たいしたこと、あるだろう。2週間も経って、いつまでも安静なんて、おかしいじゃないか」
ふんと鼻をならして薫はベンチを離れる。そのままフェンスに向かって歩く。
沈みかけた太陽が遠くにそびえる高層ビルを赤く染めていた。
「薫!こっち向けよ!看護婦さんに迷惑掛けて何やってんだよ。
こんな寒いところにいて、風邪ひいたらどうするんだ!?」
追いかけて、薫の腕をつかむ。薫は振り返ると、不愉快そうに眉をしかめて眼光を鋭くし、力をこめて祐樹の腕を振り解く。
「説教しに来たのなら、帰ってくれ」
ひどく冷めた声だった。
「なんだよ、それ!心配してやってるんだろ!」
ついむっとして、声を荒げてしまう。そんな彼を嘲笑うかのように、薫は続けて言う。
「心配してくれと頼んだ覚えはない。したけりゃ勝手にすればいい。ただし、あたしに転嫁しないでくれ」
いつになく頑なな態度に、舌を打った。
薫には人を怒らすことをわざと言って反応を楽しむようなところがあったし、オレには短気なところがあったから、喧嘩することは
多かった。けれど今の薫の言葉は本心から言っているように思えた。
普段のオレなら怒って帰っていただろう。ただ、こんな状態の薫は放っておけるような雰囲気ではなく、オレは深呼吸をして薫を
追いかけた。
「悪かったよ、薫。だから病室に戻ろう。ほら、こんなに体が冷えてるじゃないか」
のぞきこむようにして言ったオレに、それでも薫の態度は変わらなかった。
「離せ」
先程のように薫は逃れようとしたけれど、女性にしては強い薫の力もオレの
力には敵わない。
「だめだ、離さない」
日が沈んで、気温は随分下がり、風は冷たかった。
薫はパジャマ代わりのボートネックのニットの上にショールを羽織っているだけだったので、触れた薫の手は冷え切っており、
いつもは薔薇の花弁のように艶やかなくちびるは、紫色に乾いていた。だからオレは、薫を建物の中に連れこもうとした。

薫の腕をひっつかんで、力ずくで建物まで連れていこうとしたとき、薫の腕から力が抜けた。言うことを聞く気になったのかと思って、
振り返った瞬間、薫が地面にひざを着くところだった。
薫が膝を地面に打ち付けないようにするのが精一杯で、その体を支えきれずに一緒に座り込む羽目になる。倒れこむ薫の肩を支えて
顔をのぞくと、その顔色は蒼白で自由になった右手は、胸の中央を握り締める。
「…は、なせ……」
左腕で、それでも抵抗しようとする薫を祐樹は制する。
「だまれっ!薫、ニトロは?持ってるのか!?」
微かに首を振りながら、薫は意識を失って祐樹の胸にもたれ込んだ。




薫を病室に運ぶと、オレはナースステーションの向かいの談話室でテレビを見ていた。
医者に追い出されたからだ。
馬鹿そうな女が無理矢理作り上げた悲しそうな顔で、事故のニュースを伝えていた。
香りのないまずい缶コーヒーが、手の中で冷えていく。
祐樹は自己嫌悪に陥っていた。安静が必要だと聞いていたのに、興奮させて発作を起こさせてしまった自分に嫌気がさした。人を
なだめて、言うことを聞かせるには向いていない性格だと、改めて思った。
これが巽さんなら上手に話を聞かせることができただろうに。
「入ってもいいわよ」
先程のナースとは違う、年配のナースが呼びにきた。キャップに紺の線があるところをみると、上のほうのナースらしい。
オレの手から勝手に冷めた缶コーヒーを取り上げて、代わりに熱いマグカップを手渡した。
「それ、まずいでしょ。まだ響谷さんは眠っているから、飲んでいきなさい。落ち着いて、興奮させないでね。彼女の体力、随分
落ちてるから」


薫が目覚めないように、そっとドアを引いて、オレは病室に入った。
抱え上げた薫は随分と軽く感じた。もちろん女性だからということもあるが、身長なんてオレと大して違わないのに。
そっと、点滴が続けられる左腕を取った。
いつから、人を頼ることを忘れたのか。なんでも自分一人で頑張れると思っている。
だからこんな風に糸が切れてしまうんだ。
色白の冷えた手を両手に包み込む。イエスのようにその病を治せるのならどんなにいいだろうか。
ただできるのは、冷めた彼女の手を暖めること。
「……ぃや………!」
ちょっと首を振って薫から小さな声が漏らされた。……嫌な夢でも見てるのか?
少し荒くなった息遣い。声を掛けてやるべきだろうか、判断がつかない。

ーあまり眠っていないから起こしちゃ駄目よ。こんな時だけでも眠ってもらわなければならないのよ

先程のナースの言葉が頭をよぎる。眠れないことも薫の体力を落とす原因の一つ。
うなされていても、眠らせておくべきかもしれない。そう思ったとき、包み込む薫の手がびくっと震えた。
視線を落とすと、眼を覚ました薫がおびえたように両目を見開いて空を見つめていた。
「薫、大丈夫か?」
できるだけ優しい声で語り掛けた。ようやくオレに気付いたといったように、ゆっくりと焦点がオレに向けられ、傾いだ頬に、一筋涙が
零れた。
「怖い夢でも見たのか?」
薫は少し首を横に振って、否定する。
「……違うよ……」
その様子はあまりにも繊細で、消えてしまいそうなほど儚げに見えた。
「…あまり無理するな。何か飲むか?落ち着くかもしれない」
「いらない、祐樹、起こして」
「もう一度、眠らないか?…まだ顔色が悪い」
「大丈夫だよ…」
信憑性のない答えを返して、薫は体を起こそうとした。言ってもきかないだろうと思い、制止するように薫の前に手を出して、ハンドルを
回してベッドを起こした。
「ありがとう」
上半身をそっと抱えてクッションを挟んでやると、耳元で小さな声が聞こえた。
クッションに体をもたせ掛けて薫はちょっと笑った。
「怒って帰ったかと思った」
「あれくらいで怒るほど、オレは子供じゃないよ」
「へぇ、知らなかった」
皮肉げに笑って薫は答えた。その様子に安堵の息をもらす。
「ケーキ、食べないか?いっぱい買ってきたんだぜ」
祐樹は冷蔵庫からケーキの箱を取り出して、スタンドの上に置いた。
二人ではとうてい食べきれない量のケーキに薫は呆れる。
「おい祐樹、その量、いったい誰が片付けるんだ?」
「薫が食べればいいさ」
「おいおい、あたしは豚じゃないぜ。そんなに食べられるはずがないだろう」
「だったらナースでも医者でも、誰でもいいじゃないか。配れよ」
そっと側面の切りこみをはずして、祐樹は薫の前に広げる。
「さ、どれにする?薫は、桃のタルト?好きだろう、桃。それとも不良娘はブランディのきいたラズベリーのムースか」
「じゃぁ…、これ」
薫が選んだのは、ショコラムースだった。
「ショコラムースなら紅茶よりもコーヒーの方が合うかな」
留学中に一人暮しをしていた彼の手際はよい。ポットの沸騰ボタンを押しながら、マグカップを二つ並べる。
「紅茶のほうがいいな。それより祐樹は?」
「オレはミルフィーユ」
ティーポットに二人分の紅茶を用意して、その手でケーキの箱を片付ける。
椅子に座りなおして、オレはミルフィユを口に運んだ。つられたように薫はムースを口に運ぼうとして、ふっと顔を背けて左手で口を
覆った。
「薫!?」
慌てて置いたフォークがケーキ皿にぶつかって、不協和音を響かせた。
「…何でもない、大丈夫だ」
「けど…!」
「大丈夫だ」
くいいるようなその瞳で薫に見つめられては、次の言葉は出てこない。
「ごめん、食欲がないんだ……」
そういって、薫はフォークをケーキ皿に置いた。


夜になって雨が降り出していた。
嵐、という表現がしっくりきそうなほどで、風がうなりをあげていた。
オレは明日、巽さんに会いに行こうと思っていた。あんな薫は見ていられない。薫を救ってやれるのは結局巽さんしかいないのだから…。
そんなことを考えていた矢先にケイタイが鳴り出した。表示をみると、薫からだった。
「……もしもし?」
「薫だけど……」
「わかってるよ、どうした?こんな時間に」
「今、下にいるから……会えないかな…」
最後までその言葉を聞いたかどうか、オレは部屋を駆け出していた。玄関の扉を開くと、ずぶ濡れになった薫が立っていた。薫は
Vネックのニットの上にいつものショールを羽織っているだけで、ショールからは水滴がボトボトと落ちていた。
「何やってんだ、馬鹿野郎!」
叫んで、薫を玄関ホールに引き入れた。
水を含んだ髪は、いつもより数段黒く見え、カールの取れた髪が頬に貼りつき、ぞっとするほど色っぽかった。
「わからない……。ただ、一人でいたくなくて……」
呟くように言うと、薫はふっと瞳を閉じた。直感的に薫に腕を伸ばして、その身体を抱きとめた。
「薫!?しっかりしろっ」
触れた身体はかなり熱く、高熱が出ているのがわかった。反対に、雨にさらされたその指先は氷のように冷たくて、その華奢な身体を
抱きしめた。
「誰か!救急車を呼んでくれ!それからタオルもっ」
「……嫌、戻りたくないんだ……祐樹」
うわごとのようにそう言って、祐樹にしがみつく。
「何言ってんだ!?死にたいのか!」
家政婦のもってきたタオルで薫の身体を包みながら、オレは薫を叱りつける。
「それも、いいかもしれない」
一瞬、薫の表情が緩んだ気がした。儚い美貌。本当にそのまま逝ってしまいそうな気がして、華奢な身体を抱きしめる腕に力を込めた。

 

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