落 陽 2 |
オレは居心地の悪いその空間で、面会を待った。 もちろん、拘置所に足を踏み入れるのが初めてなら、面会室に入るのも初めてだし、一生来ることはないと思っていた。 面会室は湿気の多い、暗い部屋だった。TVに出てくる通りに、透明のプラスチックの板があってぽつぽつと穴があいていた。 ちょうど、銀行や証券会社の窓口のような感じだ。 違うのはその明るさか。 けれど、そこに現れた巽さんは全くその場が不似合いで、いつもの通り洗練された物腰で落ち着いていた。 「よく、来てくれたね、祐樹」 その微笑みも、何も変わらない。薄暗い室内は、狭い分だけ声が響く。 「薫のことで、お話があって……」 挨拶もそこそこに、オレは本題に入った。 「怒っていたか?まだこちらには、一度も顔を見せない」 伏目がちに巽さんは言った。冷静な表情に変わりは無かったけれど、どこか憂いを帯びて神経質そうに見え、それが薫に よく似ていた。 「薫は、ここには来られない」 「どういうことだ?」 強い口調でいいきったオレに、巽さんの声も少し緊張した。 巽さんにまで隠していたのかと、腹立たしい気分になる。 「入院してるんだ、ずっと。……巽さんにまで隠していたのか……」 「いつから……?」 「2週間には、なる。オレも一昨日知ったばかりなんだ」 「様子はどうなんだ?」 「発作は狭心症のものだったし、さほど心配はないみたいだ。……けど、ストレスで食べないし、眠れない。身体が衰弱して るから、退院させられないって」 「僕が原因か……」 呟くように巽さんは言って、組んだ手を額に押し当てた。褐色の髪が掛かり、巽さんの表情を隠したが、その声には 自責の念が篭っていた。 「何を言ってやっていいのか、オレにはわからないんだ。巽さんしか、今の薫は助けてやれないよ」 「僕には何も、できなやしない。今の僕は返って薫を傷つけるだけだろう」 「そんなことない!…巽さんだってわかってるんじゃないのか?薫が頼れるのは巽さんしかいないんだよ」 長い指を組んで、巽さんは穏やかな瞳でオレを見る。 巽さんの苦しみをどれだけオレは理解することができただろうか。多分、薫よりも苦しんでいたのだろう、ずっと。ただ、 何もかもが自分の責任であると決め付けて。 それでもオレは巽さんを責めていた、いけないと思いながらも責めていた。薫が触れたら壊れそうで、それがオレは怖かった。 「それではいけないんだ。薫はいつまでも僕のあとをついてくる子供ではない。もう自分で自分のことを考えられる年だし、 それが出来る子だ。だから、僕が構ってはいけないんだよ」 それは、オレに言った言葉というよりも、自分自身への言葉のようだった。オレも似たような気持ちを持っているから、 わからないでもない。いくつになっても目が離せない、もう彼女も高校生になったと言うのに、どこか心配で世話を 焼いてしまう。つい過保護になる自分にもう薫も大人だからと、言い聞かせるときがあった。 それでも今の薫には誰か守ってやる人間が必要だ。 「違う、巽さん。薫は昔から何も変わってない。意地をはって強がっても、泣いてばかりいた子供の頃と何も変わってないんだ」 ついてくる薫を誰よりも放って置けないと思っていたのは巽さんのほうだ。 薫は強がってばかりいるが、どこか危うく目が離せない。ちょこちょことオレや巽さんの後ろをついてくることはなくなったけれど、 反対にこちらが不安になる程に寂しげに見えるときがあった。 一人で何かを抱え込んで、苦しんでいた。 「僕には何をしてやることもできない」 きっぱりと言いきった巽さんの顔にはどんな苦悩も見てとれない。 あまりに落ち着いた瞳に、オレは焦れる。確かに、薫を愛しているだろうに、それを決して出そうとしない。その一言で、薫は 立ち直れるだろうに、それをさせない。 「もう、いい。どんなにオレが口を出したって、巽さんの考えなんて変えられないことくらい知っているさ」 これ以上、巽さんに何を伝えても彼の言葉は変わらないだろうと思えた。 怒っていたわけではない。オレは小さな時から巽さんを信頼していた。今もその気持ちは変わらない。巽さんが薫のことを 考えなかったことはない、一度も。いつも薫を第一に考えてきた人だ。 「帰ることにする。また、何かあったら伝えに来ます」 「祐樹、体調が良くなれば、面会においでと、薫に伝えてくれ。無理をしないようにと」 席を立ちかけたオレに、静かに巽さんは言った。 どこまでも静かな瞳の中に、薫への気持ちが溢れていた。 「必ず」 安静の札の取れない薫の病室へその日も行った。 「大学は?行かなくていいのかよ」 クッションに身体をもたせかけた体勢で薫は祐樹をみやる。 「大学の前に、お前のほうが大切だ」 「単位、落としたってあたしは責任もたんぞ。この時期、レポートが忙しいんじゃないのか」 「高校生が、大学のスケジュールをよく知ってるじゃないか。薫が大人しくさえしていれば、オレは心安らかに勉学に 励めるだろうに。不出来ないとこをもつと大変だ」 「……別に頼んじゃいないけどな」 さらっと言い捨てて、手元の本に視線を落とす。 「どうせ、大して勉強なんてしてないくせに。道楽だろ」 「失礼な奴だ……。お前よりもよっぽどオレのほうが真面目だよ。それよりも、本なんか読んでないで横になれよ。まだ熱が 下がっていないんだろう」 あの日、病院に担ぎ込んだときには薫の熱は40度にまで上がっていた。 体力が低下して免疫力がなくなっているところに、あの大雨にさらされて1時間近くも掛けて歩いて自宅まで来たというのだから、 仕方もない。 薫はその後も何も話そうとしなかった。 ただ意識を取り戻したときにたった一言、呟いただけだった。『まだいたのか、暇だな』と。 怒りたかったが、何も言い返せなかった。 熱のせいで上気した頬と、潤んだ瞳。点滴が続けられる腕は腫れ、心臓の働きが弱まっているために身体の末端にまで 酸素が行き渡らないとその鼻には酸素吸入の管が付けられたままだった。 面会謝絶が解除されて、そんな姿を見せつけられては何を言えるはずもない。 どんな言葉を掛けてやることもできないが、傍にいることだけはできた。 「今日、巽さんに会ってきたよ」 切り出すと、薫の表情が強張った。 「それで?」 平静を装っても、その声は緊張に震えて不自然に力が入る。 「面会には、行っていないのか」 「何を話すこともない。行っても仕方ないだろう」 視線は手元の本に向いたままだった。その本を閉じようと手を伸ばすと、薫の手の震えがそのままに伝わってきた。ふたつの 三白眼はいつもより一層青みを帯びて、緊張の為に潤んで見えた。 「巽さんは、元気そうだったよ。薫、お前のことを心配していた。……顔を見せてやれよ」 「会うのが怖いんだ……。会ってどうすればいいのか、わからない」 しばらくの沈黙の後、ぽつりと薫が呟いた。 ぞっとするほど暗い声だった。斜めにオレを見つめて薫は唇をゆがめて笑った。苦い微笑だった。 あまりにも痛々しい様子にオレは見ていられず、そっと抱きしめた。腕の中の薫は震え、泣いているように思えた。 「どうすれば、なんて考える必要なんてないよ。ただ顔を見せてやればいい」 言い聞かせるように祐樹はゆっくりと言った。 「いつも通りでいいんだよ、わかるだろ?」 「……でもっ!」 祐樹はその背を撫でながら、小さなころと同じようにその形のいい額に口付けた。 「大丈夫。なにもお前は気にしなくて良いんだよ」 「…でもこの事件は……あたしが…!」 誰も身近な人間は、何も言わなかった。けれども、なぜ巽さんがと、なぜあんなにも優れた人が、と。犯罪など犯したのかと 、耳に入るたび、自分が責められているように感じた。 ―――サイアイノツマノシンゾウビョウヲ コーネル大学の兄の友人の言葉。 なぜ?あんなにも大人だった兄が犯罪など、人を殺せたのか? 行きつく先は、自分を責める兄の目。 切れ長の綺麗な瞳は、時として冷たく見える。一度たりとも自分には向けられなかったその眼差しが、夢の中であたしを責める。 「すべてが、約束されていたのに…。兄貴の将来は、だれもが羨むものだったはずなのに。……すべてが終わったんだ、 すべてが、あたしのせいで」 今、自分はどんな顔をしているのだろうか。 きっとひどい顔をしている。 「そんなこと、考えるべきじゃない。薫はそんなことを考えなくてもいいんだよ」 祐樹の声は薫の心には届かない。 首を横に振って、薫は祐樹から身体を離した。 「まだ、無理だ……会いたくない」 言って、震える溜息を一つつく。 「もう帰って……」 最後に触れていた手を離すと、低い声で告げた。 「ひとりにしてくれ」 どんな顔をすればいいのか。どうやって会いに行ったらいいのか。会って何をしろというのか。 「ひとりで、いたくないから、あの時オレに会いにきたんじゃないのか?雨でも、一時間歩いてでも、それでも一人で いたくなかったんじゃないのか?」 「兄貴が………見るんだ、あたしを。冷たい目で……何も言わずに。その瞳が恐ろしくて、その夢を見るのが怖くて、 眠れない。眠れないでいるとその瞳が思い出されて、だんだん、夢じゃなくて現実じゃないかって思えてくるんだ……!」 「…薫」 「ひとりで……ひとりでこんなところにいるのは沢山だ……!」 形のいい眉根がきゅっと寄せられる。赤みのない頬を幾筋も涙が流れていく。 「そんなのは、薫の幻想だよ。大丈夫だ」 抱えた膝を抱え込むようにして俯く。褐色の柔らかい髪が額に掛かって、その表情を隠した。 首をゆっくり振って、沈んだ声が響く。 「どこか知らないところへ行ってしまいたい。こんなところに……居たくない」 |