落 陽 3 |
| 寮へ続く小道は、常緑樹につつまれていて、しんと静まりかえっていた。 薫は運転手に預けていた荷物を受け取ると、彼を帰した。 寮生も春休みから戻っているはずなのに、物音一つせず、常緑樹の森は寮を包む繭のようにも感じられた。その静けさは、 今の薫には必要なものだったかもしれない。 門柱に取付けられていたチャイムを押すと、一年生と思われる小柄な少女が出てきた。 「本日からお世話になる、響谷薫です。どうぞよろしく」 薫は、この深窓の令嬢がそろう学園で、目立った学園生活を送る気はなかった。だから挨拶もシンプルにこの学園に向く 言葉を選んだつもりだった。 柔らかい褐色の巻き髪が思いつめたような三白眼に翳をおとして、色っぽい風情を醸して出していた。もちろんその少女が ときめかないはずもなく、少女は顔を真っ赤にして言った。 「あっ、あの、寮は、まっすぐ行ったところにあります。着いたら、まず、あの受付で…」 あまりに早口に言うもので、薫はふっと笑う。 「そんなに早口で言われたら、わからないよ」 薫独特の皮肉げな微笑みに、少女はさらに焦る。 「だからあの、受付で、手続きを済ませて下さい。あの、それで、名前が決まっていて……、じゃなくて、鍵はそのときに 受け取って…」 くすくす笑いながら、薫は言う。 「つまり、寮の入り口で手続きを済ませて、鍵を受け取ればいいんだね?それで、名前は?」 「名前は、寮内では特別の言葉遣いが決められています。寮のことは、エメラルド館。寮長はレディエメラルドと 呼ばれていますし、寮生はそれぞれのニックネームを与えられていて、学園で使用しているお名前は使いませんので、 ご注意下さい」 薫の言葉に落ち着きを取り戻して、少女は説明をする。 「鍵を受け取って部屋へ入ってください。その後はレディエメラルドへのご挨拶をしていただくことになりますが、それについては、 受付後に詳しいご説明があると思いますので、そちらでお聞き下さい」 薫はお礼を言って、寮へ続く道を進んだ。 規律は厳しいが、深窓の令嬢ばかりがそろう学園なので、噂話に悩まされることもないだろうというので、叔父が紹介してくれた。 偏差値はかなり高く、編入は難しいので編入してくるものはほとんどいない。けれど、薫にとってはその試験も難しいものでは なかった。見るものによっては暗く見えるその寮への道も、鬱蒼としたヒマラヤ杉に囲まれた家に生まれ育った薫にとっては、 かえって落ち着くものだった。 小道を5分ほど進むと、エメラルド館と呼ばれる北白金学園の寮が見えてきた。 緑に包まれた白い館は、まさにエメラルド館と呼ばれるにふさわしい佇まいで、趣味のうるさい薫にも受け入れられる 美しさだった。ガラス張りのドアを押すと、ステンドグラスに彩られた小さなホールになっていて小さな受付があった。六角形の ホールには、ステンドグラスを通して光が差し込み、神聖な空気を作り出している。 無愛想な少女を相手に受付を済ませて、薫は用意された部屋に入った。 部屋は明るい部屋だったが、自分の気分とはあまりに違う明るさが遠く感じられて居心地は余り良くなかった。部屋を見渡して、 宅配で送りつけた荷物を確認すると、その傍に手荷物を置く。 この寮内では、レディエメラルドと呼ばれる寮長の専制がまかりとおっているようだった。 先程、パール姉妹が部屋を訪れ寮長への挨拶について事細かに指示をして去っていった。 面倒になりそうなこの寮での生活を思い、憂鬱になる。 ベランダに続く窓からは寮の庭を流れる小川が見えた。穏やかな川面が春の日差しを反射させていた。 学習用の椅子を窓際に据えて目を閉じると、まだ冷たい4月の風が、春の香りを運んで気持ちが良かった。暗い考えを 忘れさせるさわやかさだ。 薫からレディエメラルドに贈られる花の用意が整い、パール姉妹は薫の部屋へ迎えに来た。 「背の高い男性のような方でしたわね」 「本当ですわね。お家はどういったところなのでしょう」 「それが、かなり芸術に秀でたご家系らしいのですが、いっこうに情報が入って参りませんの」 「この学園で情報が操作できるなんて、かなりのお家ではございませんこと?」 「そうですわね、気になりますこと」 「それにしても、今日、入寮が決まっているのに、レディも外出だなんてあんまりですわね」 「仕方ありませんわ、レディの奔放なところは変わらないわ」 「今度の方にはレディはどんな名前を与えられるんでしょうね」 華やかな声を上げて、パール姉妹は廊下を歩く。 「しっ、あちらよ。声が響くわ」 4人は一斉に声を沈めて、背筋を伸ばした。 一人が軽くノックをする。しばらく待っても、中から返事はない。 「もう一度、して御覧なさいよ」 急かされて、今度は少し強めにノックをするが、やはり返事はない。 4人は顔を見合わせる。“お使い役”の彼女らにとっては迎えにきた入寮生がいなかったでは済ませられない問題だ。 どうするべきか…。 「入ってみてはどうでしょう?あまり人の部屋に無断で入るのは気が引けますが…、事が事ですし…」 「そうですわね、ヘッドフォンでも付けていれば、ノックの聞こえないこともあるでしょう…」 頷いて、ノックした一人がドアをそっと開けた。 薫はヘッドフォンを付けることもなく、ちゃんとそこにいた。 ほぉっという溜息が、4人から漏らされた。 窓際に学習用の肱掛椅子を置いて、そこから庭を眺めていた。大きな瞳は何を捕らえるでもなく庭を眺めていたが、その物憂い 風情に窓から差し込む光が彼女を照らし、別世界のように美しかった。 「響谷さん……?」 遠慮がちにパール姉妹が声を掛けると、ようやく彼女は気付いてこちらを向いた。 「あぁ、悪かったね。ちょっと考え事をしていてね」 そう言って、薫は華やかな微笑を浮かべた。 そして、ほぅという黄色ともピンクともつかないような溜息が4人から漏らされた。 パール姉妹に副寮長のコーンフラワーとピジョンプラッドの二人が最も緊張する瞬間。 それは新しい寮生を迎えるときである。 この時の印象が悪ければ、寮生は苦痛な毎日を送ることになるだろう。 「また、随分沢山のお薬ですわね」 寮生の荷物を確認していたレディはふっとそんな言葉を漏らした。 始まった、とピジョンプラッドは思う。 陰湿ないじめのようなものだ。しかし、この男性のような人物相手にいじめをふっかけるなんて、レディもたいしたもんだと。 当のレディはそんなことも構わずに、その大きな瞳に楽しそうな光を瞬かせて、新しく迎えた寮生を見る。手には、輪ゴムで 束ねられた大量の薬。 「問題でも?」 あくまで落ち着いた様子で、寮生―響谷薫は答えた。 「あなたはご存知ありませんの?響谷さん。最近ではよくない薬が流行っていますの。この寮内に得体の知れない大量の薬を 持ち込ませることはできませんわ」 「それはご心配なさるようなものではありませんよ。ですからどうぞお戻し下さい」 レディはふふ、と楽しそうに微笑んで弄ぶようにして手に取った薬の束を、顔の横まで上げる。 「あなた、どこかお悪いの?お話なさい。そうすれば認めて返して差し上げますわ。できないのなら、この薬、ワタクシが預かります」 楽しそうなレディの声に、薫は冷笑を浮かべただけでさらりと言った。 「でしたらそうなさればよろしいでしょう」 「あら、よろしくて?本当にご病気のお薬でしたら、お身体に障りますよ」 にっこりと笑ってレディは言ったが、大きな瞳はまっすぐに薫を見据えていた。 「構いません」 動じない薫の態度に、レディはつまらなさそうに薬をテーブルの上に置いた。 「では、ワタクシがお預かりします。それでは、あなたのお名前を決めます。ジェット。あなたにお似合いだわ。 ……下がっていただいて結構よ」 入寮から一週間後に新学期を迎え、翌日から授業は始まった。 深窓の令嬢ばかりが揃う学園とあっては、クラスメイトからの質問もなく、ただ、薫の甘やかな微笑に黄色い溜息が 漏れただけだった。 薫にとってはありがたいことだった。家庭のことなどを聞かれると厄介だからだ。 クラスメイトだけではなく、薫は学園中の少女達の注目の的となった。誰もその華やかな微笑の奥で薫が何を考えているか、 知ることはできなかった。 体育の授業に一度も参加しない理由も、3年生の春という半端な時期に転入してきたその理由も、何もかも。 そのカリスマ性がまた、薫のファンを増やした。 さして深入りしようとせず、ただ薫を宝塚の男役のように見つめるだけの少女達は扱いやすく、暮らしやすかった。 寮での生活もそれなりに穏やかだった。寮生達はもめごと一つ起こさず、寮の中はいつも静かだった。敷地内は自然も多く、 小川はきらきらと太陽の光を反射していた。 入寮から一ヶ月近くが経とうとした日曜日に、久しぶりに薫はバイオリンを取り出した。 事件の後、学校を辞めて音楽家への道はすっぱりと諦めた。 この学園に入る前はそれでも弾いていたが、学園に持ってこなかったためにしばらくの間は全く触れていなかったが、 昨日家に戻ったときに持ってきた。 遊び程度に弾くだけなので、グァルネリではなく練習用のバイオリンだ。 寮の中には楽器を弾く寮生たちの為に、ピアノが置かれた防音の部屋が二部屋用意され、予約制で使用できたが、 趣味として弾くために持ってきたバイオリンなので、何も考えず、ゆったりと弾きたかった。だから薫は壁に囲まれた 練習室ではなく、庭に持ち出し、小川の傍のベンチにケースを置いた。 しばらく弾かずにおいたバイオリンは音がずいぶんと狂っていた。 慎重に調弦して、そっと弓を下ろす。 久しぶりに聞くバイオリンの音色は優しく薫を包む。澄んだ音色はやさしく薫を包み、憂鬱を洗い流して行く。 持ってきた曲集は2冊。楽譜を見なくても、殆どの曲を暗譜してあった。 薫が他のバイオリニストと比べて最も優れている一つが暗譜の早さだった。 3曲を一気に引き終えると、深く息を吐き出した。 久しぶりに弾くせいで思うように指が動かない。 それでもバイオリンを弾くことを楽しいと思えた。構えていたバイオリンを下ろすと、ぐるっと首を回した。 |