落 陽 4
〜朝明〜


穏やかに寮の敷地を巡る風と、久しぶりのバイオリンの音色に、はじめて兄の面会に行った日を思い出した。




はじめて兄の面会に行った日、彼は穏やかに微笑んだ。
薄暗くて湿気の多い面会室。拘置所全体が、とても暗くて。応対する人間は誰もがひどく無愛想で。

兄はいつもの通り気品に満ちていて安心した。少し………やつれたようにも見える。
「少し…痩せた………」
挨拶もせずに、そんな一言をつぶやくように言ったのを憶えている。
何を話していいのか、わからなかった。
本当は謝りたかったし、責めたかったけれど、誰もそんなことを望んでいないことを知っていた。
兄に、こんにちは、と真面目に挨拶するのも照れくさくって、どこか不思議な気分だった。
「お前のほうこそ、すこし痩せたんじゃないか?」
からかうような笑いを、彼はそのきれいな口元に浮かべた。
「そんなことないよ」
入院していることは祐樹から聞いているだろうし、顔色も悪かっただろう。大丈夫だと言ったところで、意地っ張りだと
笑われるに違いない。
だから、そうとだけ答えておいた。
「そう?ならいいけど。無理はするんじゃないよ」
まるで薫の気持ちを読んだかのように、巽はくすくす笑いながら言った。
変わらない巽に、安堵を覚えた。
「心配性だな、大丈夫だよ」
自分でも不思議だったけれど、自然と微笑むことができた。



「おかえり」
拘置所のすぐ傍のコインパーキングで祐樹はそう言って薫を迎えた。
「疲れなかったか?」
助手席に薫を迎え入れて、祐樹はまずそう言った。
「あぁ、なんともない」
薫の表情は、いつもの張り詰めたような緊張感が感じられずに、穏やかだった。
「折角、外に出たんだ。お茶でも飲んで帰るか。病院の飯ってまずそうだからな」
祐樹はそんな薫に安心して、肩をすくめて言った。
「そうだな」
どっさりとシートに体を埋めて、薫は頷いた。そっと瞼を閉じたその横顔に近頃では全く感じられなかった華やかな微笑
を認めて、祐樹は安心した。
安静の指示が出ている薫に外出を許可させるのは一苦労だった。外出どころか、本来なら病室をでることだって許される
状況ではなかったのだ。
それを、半ば脅迫に近い形で、外出許可を取ってつれてきたのだ。


許可を出そうと出すまいと、どうしても連れて行く、と。
もちろん許可が出ている限り外出先は告げていくが、許可が下りなければ病院はどこへ行ったかさえもわからなくなるだろう、と。
看護婦はヒステリックに抗議したが、日ごろの不真面目な患者振りが反対に功を奏した。
許可を与えなければ、本当に病院を抜け出すのではという危惧を病院側が抱いたのだ。それで祐樹が一時も傍を離れない
という条件の下、ようやく外出の許可を取り付けたのだ。
病院側を困らせたくはなかった。むしろ、日頃の薫の態度に申し訳なさを感じているくらいだ。それでも今回ばかりはこちらの
我侭を聞いてもらう必要があったし、薫にとってよい結果が得られるという自信があった。
だからこそ、外出をさせたのだ。薫の体にとって危険であることはオレ自身がよくわかっていた。
けれど、寝かせていて直るものでもなかった。今は、体の調子よりも、精神的な問題を取り除いてやらなければ、どれだけ
安静にしていたって直らないという確信さえあった。


面会から戻ってきた薫の表情を見て、自分の考えが間違っていなかったことを知る。
バックシートから、フリースの膝掛けを取り出して、薫へと掛けた。動き出した車の中で、薫はうとうとと眠っていた。
その寝顔はこの前病室で見たものとは違い、優しげで美しかった。
本当の意味で、眠ったのは久しぶりではないだろうか。
薫の眠りが浅いことはよく知っている。ちょっとした物音で目覚めてしまうし、環境が違えば、それだけで眠れなくなるような
繊細なところがある。それでも決していいとは言えない車の硬いシートで、こんなにも穏やかな眠りにつけるのだから、余程、
体が睡眠を欲しているのだろう。
そのまま病院に戻ってもよかったが、少しの間、ゆっくり眠らせてやりたくて、拘置所からすこし離れた場所に車を着けた。

拘置所でどんな会話がなされたのかは、わからない。
あるいは、会話らしい会話がなかったかもしれない。
どちらにせよ、やはり巽さんは薫の拠りどころだ。オレにはできなかったことを、いとも簡単にやってのける。
すこし悔しい気がしないでもないが、オレに出来る限りのことで助けてやれば済む問題だ。

「何、読んでんだい?」
ふわっと暖かい空気に覆われて、背後を見返った。
いつの間にか目を覚ましたらしい薫が、外で本を読んでいた祐樹の傍まで来ていた。
暖かい空気は、薫に掛けてやった膝掛けだった。
「もう起きたのか?」
立ち上がりながら聞くと、薫は大きく伸びをした。
「30分もあんな体勢で寝てたんだぜ、体が痛くなる。これ以上、寝てられないよ」
秋の穏やかな日差しが、キラキラと薫を彩って綺麗に見えた。
「じゃ、帰るか」




巽さんがどう薫に接したか、オレは知らない。
薫に関しては、絶対に巽さんには勝てないのだ。わかっている。
あの後も幾度か、薫に付き添って面会を重ねた。
いつも薫を送り届けると、近くのコインパーキングで本を読んで時間を潰し、薫が戻ってくると帰りに二人でお茶を飲んで帰った。
薫も何も言おうとしないので、たった30分の面会時間の間、ふたりがどんな話をしているかあえて知ろうとは思わない。
ただ、あんなにも沈んでいた薫を、どうやったら救えるのか、その方法は知りたかった。
少なくはあったが、何とかまっとうな食事を薫が口にすることができ、浅いながらも眠りにつくことも出来るようになった。
「なぁ、薫。今日は話があって来たんだけど」
1月、寒い日だった。
「なんだい?」
そろそろ退院できるくらいまでに回復していた薫にそんな風に切り出したのを覚えている。
持ってきた資料を薫に手渡した。
「……何だい?これ」
薄い冊子は、高校の学校案内だった。薫の通っていた高校は今は休学扱いにしてある。
もう音楽の道は歩まない、事件の直後、きっぱりと薫は言い切ったから、退院しても今の学校に戻ることはないだろう。
バイオリニストを目指すのなら、事件のほとぼりが冷めるまで留学するのもいいとは思っていたが、そうではないのなら、
話は別だ。
やはりもう一度、学校に通ったほうがいい。
そう考えて、親父に頼んでいい学校を探してもらった。
見つけたのが、この北白金学園だ。
「学校案内だよ。世間知らずのお嬢さんばっかりが通ってる高校だ。学校に通うのも悪くはないと思うんだ」
自然も多かったし、寮もあった。
薫の家から通うには少し遠かったが、寮があるなら大丈夫だ。その寮も広く、寮生は特に上流の生徒ばかりだった。
偏差値はかなり高かったが、薫なら間違いなく合格するだろう。学校の気質がら転入生も余りないようだが、認めないと
いうことではなかった。
「もうそろそろ退院だろう?今なら一学期からの転入に間に合う。………強制はしない。行きたいと思うなら、手続きをするから
言ってくれ」



薫から連絡があったのは、1週間ほどたった日だった。
「退院が決まったから、報告しておこうと思って。…………それから…、学校のことだけど、手続きをしてもらえないかな」
「退院の日は迎えに行ってやるよ。その時に、書類も揃えておくから」
さっぱりした薫の声が、救いだった。
薫の出した結論に、何かを聞き出そうとは思わなかったが、その決心を励ましてやりたかった。
彼女の負担にならないくらいの力強さを込めて、オレは言った。



薫のことで、転入試験にはかなりの成績でパスした。





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