落 陽 5
〜闇夜〜






「あなたがバイオリンを弾くなんて、知らなかったわ」

一息ついたところに、そんな声がした。
少し物思いにふけっていたので、近づく人影に気付かなかったようだ。
声のしたほうを振り返って、薫は微笑んだ。
「これは後から持ってきた荷物に入れておいたので……。あなたの目には留まらなかったでしょうね」
相も変わらず、レディは素足だった。
レディの立つ場所から薫のいる川べりまでは、急な坂になっている。すこし離れたところには階段もあるが、コンクリートに
固められているので裸足では辛いだろう。
薫は片手にバイオリンと弓を持ちかえると、左手をレディに差し伸べた。
色白の小さな手を薫の手に重ねると、軽やかに芝生の坂を駆け下りた。
「ワタクシ、バイオリンには詳しくありませんの。聞かせてくださらない?」
にっこりと笑って、レディは躊躇いもせずに、芝生の上に腰を下ろす。
光沢のあるスカートがふわりと広がる。立てば膝までとどく髪は、広がったスカートから更に流れて、芝生の上で遊ぶ。

「せっかくの日曜に、私ごときのバイオリンでお時間をつぶして構わないのですか?」
からかいの色を含んだ薫の声に、レディはふふっと笑って、頬にかかるウェーブの髪を払う。
「あなただって似たようなものではありませんか。さぁ、無駄話はいらないから、どうぞ始めて」
ため息を付きながら、薫はバイオリンを構え直して音をもう一度確かめる。
「わがままなお姫様でいらっしゃることだ。……リクエストはありますか?」
「申し上げたでしょう?ワタクシ、バイオリンには詳しくありませんの。あなのお得意な曲をどうぞ」
大きなため息をついて、薫はレディから手元のバイオリンへ視線を落とした。
大きく息を吸って、吐くと同時に弓を引いた。
納得のいく一音が響いた。
指慣らしは済んでいる。選んだ曲は、エルガーの<愛の挨拶>。穏やかな今日の風景にちょうど合う。

艶やかなバイオリンの音に、レディは聞きほれた。
先ほどの言葉は嘘だ。
触れたり習ったりしたことはないが、その部屋にはクラシック曲を収めた数多くのCDがあり、かなり詳しいつもりだった。
だからこそ、その音がどれほどのものであるのかすぐに理解できた。その音を紡ぎだす本人の表情は、どこか物憂い
雰囲気をたたえて、音よりもその表情に引き込まれる。
何も語ろうとしないこの人物の心の内が透けて見えるような気がした。抱え込んだ一人の世界が、その音を通して心の中に
くいこんでくる。学校や寮では皮肉げに構えて、素顔を見せようとはしないが、その音は体の中心から響くように優しく、
生の彼女の心の在りようを伝えた。


弾き終えて、薫はちょっと気取って一礼した。
「あら、一曲で終わりですの?」
レディは愛らしく催促する。
薫は色っぽくその三白眼を光らせて、レディを覗き込んだ。
その視線を受けて、頬を赤く染めたレディに薫はさらに艶やかに微笑んだ。間近に近づけた体を離しながら、浮かべていた
微笑をおおきな笑いへと変えた。
「ご不満ですか?」
「ええ。ワタクシがいいというまでです」
「まったく、困った方ですね」
レディはまったく動く気配を見せず、ホールで鑑賞する観客のようだ。
次の演奏を待っている。それにこたえるように、新たな曲を弾きだした。
薫自身、人前で弾くのは気持ちが良かった。それに気付いて、ふと哀しさがこみあげてきた。こんな状況でありながら、
それでも人に聞かせることを楽しいと思う自分がすこし憐れに思えて、自分を憐れだと思う自分自身も、また哀しい
存在だと思った。
もう人前で弾くことなど、ありえないと思っていたのに。
結局弾くこと自体もやめられないでいるのだから、中途半端なものだ。
今は、それ自体が苦しみの元であるのに、バイオリン以外では崩れそうになる心も何も支えることができない。

矛盾だらけだ。

2曲目に選んだヴィエニャフスキの<伝説曲 ト短調>を終えて、薫は演奏に集中しきれていないことに気が付く。
弾くたび、心の中に戸惑いが浮かぶ。
「まだ、いいとは言ってませんよ」
演奏を終えても顔を上げない薫に、レディは次の曲をと催促する。
天使のような相貌で、楽しそうな笑みを浮かべている。
いつもそんなことを言って、兄や祐樹に演奏をねだっていたのは自分だったはずなのに、ねだられる側に立つなんて
思っていなかった。
なんともいえず、ただ薫は唇に笑みをのせた。とても自然に浮かんだ笑みだったが、その分だけ、素の姿だった。
それはとても苦い笑みで、おどろくほど暗く、レディは顔をしかめた。
最も、薫の視線は既にレディからはそらされていて、レディの表情を見ることはなかったのだけれど………。


次にはじめたのは、マスネーの<タイスの瞑想曲>。
洗練された美しい旋律は、そのまま彼女の心を物語っている気がする。少し乱れた柔らかそうな褐色の巻き髪は、
頬に振りかかり、物憂い風情を醸している。
心に染み入ってくる優しい音に、知らず知らず目を閉じようとしたレディだったが、直前、眉根をきゅっと寄せた苦しげな
響谷薫の表情に目がついた。
同時に、ギリッと不快な音を立てて演奏も止まる。
楽器をもったまま、彼女は左胸を押さえるようにして、前かがみになる。

思わず腰を浮かしたレディの前で、薫は荒い息を抑えるように唇をかみしめながら言った。
「すみません、レディ、今日はどうかこれくらいに……」
「どうなさったの……?」

震える手でバイオリンをケースに収めようとして、失敗した。圧迫するような苦しみは、徐々に激しさを増していた。
無駄だと知りつつ、両手で胸を押さえてしまう。
ケースに収まらなかったバイオリンは、派手な音を立てた。
「ジェット…?」
心細げなレディの声が微かに耳に届いた。
声が聞こえたほうに顔を上げると、不安げに顔を曇らせたレディの姿があった。華奢な手は薫に触れる寸前で止まったままだった。
普段の勝気なレディはそこにはなく、薫は微笑んだ。
その瞬間に、レディは薫の手を握り締めた。
「…大丈夫……、で…す。…すぐに収まりま…か…ら…」
それを言うのがやっとだった。
そんな時、いつも最後まで正常に機能していたのは、耳だった。
「ジェット!」
もうその可憐な姿は見えなかった。握られたはずの、彼女の華奢な手を感じることもできなかった。
ただ、痛々しげに叫んだ声だけが耳に残っていた。


「…大丈夫……、で…すよ……」
うっすらと皮肉げな笑みをその唇に浮かべて、かすれた声を絞り出すようにしていった。
「ジェット!」
意識を失ってしまった響谷薫のじんわりと脂汗の浮かんだ白皙の額にそっと手を触れレディは沈黙した。
脳裏を掠めたのは、自分が奪ってしまった薬の束のことだった。
「だって…ねぇ、ねぇったら…」
すぐに収まると言ったくせに、荒々しい呼吸は収まる気配も見せず、その表情も苦しげに歪んだままだった。
幾度、呼びかけようとも………。
瞑想曲だなんて、冗談にも程がある…。

『娼婦タイスは、修道院で安らかな死を迎える』

オペラ『タイス』のなかで<タイスの瞑想曲>が使われるシーンだ。
「お願いだから、しっかりして……」
意外にも華奢な造りの手を握り締めて、レディは応えない薫に向かって声を掛けた。







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