落 陽 6
〜斜陽〜





真の孤独を知っている人は、どれほどいることでしょうか。


ワタクシは澄んだ瞳の中に、それを見た気がします。
いつも嘲笑を湛えているというのに、ひとたびその笑みが消えるとあんなにも哀しく、物憂い影があったなんて……。




「持病は?何かご存知のことは、ありませんか?」
駆けつけた救急隊員は、冷静だった。
レディは、ただ首を横に振るしかない。
「では、付き添いを一人…」
「ワタクシは寮長です。ワタクシが付き添います。寮生の名簿もワタクシが管理しておりますから」


着いた病院は学校の傍の救急病院だった。病院を目にして、レディは少しだけ安心した。救急車に乗っている時間より、
乗り込むまでのほうがよっぽど長かった。
先に下ろされた薫に続いて、自分も救急車からおりよとして、そこでレディはふっと足を止めた。
「あんた、靴はいてなかったのか…?」
隊員が呆れたように言った。
病人を救急車に乗せるとき、病人の靴を持ってくるように指導することになっているが、さすがに屋外にいた病人を運ぶとき、
付添い人が靴を履いていなかったことにはベテランの隊員も気付かなかった。
「芝…の上でしたから………」
呟くように、レディは言った。さすがにエメラルド館の整えられた芝生を裸足で歩きこそすれ、コンクリートで固められた地面を
裸足で歩くことはできなかった。
「とりあえず、これでも履いて」
そっけない一言とともに、看護婦が来客用のスリッパを持ってきた。
「これだからお嬢さんは困るのよ」
はき捨てられた言葉がレディを傷つける。
「患者さんは、中の治療室だから…。そこで簡単な手続きをしてもらうのと、あとは家族に連絡をつけてちょうだい」



「病院なんて、嫌いですわ」
幸い、面会はすぐに許可された。レディは、まだベッドで休んでいた薫に向かって、開口そういった。
もちろん大したことはないと聞かされていたからである。
「何か…失礼がありましたか?」
ふっと笑みを浮かべて薫は尋ねた。
擦れた、いかにも病人らしい声にレディは眉をしかめる。
彼女の病気について、詳しくは説明してもらっていないからだ。心配がないのか、全くわからないのだ。
説明を求めたレディに病院側の対応は冷たかった。『家族以外の人間に、むやみに話すことはできません』と。
それでも、病院に運び込んだときよりも顔色は良く、精彩があった。
「公衆電話なんて、使ったこと、ありません」
「初めてお使いになったわけだ。あなたらしい」
皮肉げな笑みを浮かべて、薫は答える。

ナースステーションの片隅にある公衆電話を指して、看護婦は学校や家に連絡を取るように言った。
使い方を聞いたレディに、看護婦は異様なものを見るかのような視線をよこした。
硬貨もテレホンカードも持っていない。クレジットカードと紙幣を出したレディに、看護婦はため息をつき、一言はき捨てた。
『これだから、お嬢さんは……』

「必要なかったのですから、仕方がないではありませんか」
芝の上を裸足で歩いても、それに文句を言う人間はいない。
公衆電話など、使う機会など一度たりともなかったのだから、使い方を知らないのは当然のことだ。
自分が責められる筋のことではないと、自信を持って言える。
「そうですね。それで、どうなされたのですか?」
「一階の窓口で両替をしていただいて、テレホンカードを購入しましたの。もう必要ありませんから、あなたに差し上げます」
東京タワーの夜景がプリントされたテレホンカードを差し出して、レディは言う。
ご丁寧にも、1000円のテレカだ。
「ご記念に、お取置きされたらどうですか?残念ですが、私もテレホンカードは使わないものですから」
くっと声を出して笑い、薫は言った。むっとした様子で、レディは薫を見下ろす。
「失礼な方」
「申し訳ありません」
レディは自分から折れるような人間じゃない。薫はレディの機嫌を損ねないうちに、軽い謝罪の言葉を口にした。
もっとも、その態度はとても謝っているようには感じられなかったのだが。


「それよりも……。あなたは、ワタクシに話さなければならないことがおありなのではなくて?」
少し声音を整えて、レディは嗜めるような口調で切り出した。
真意を知りつつ、薫は整った眉を少し上げた。
「さぁ、何のことでしょう?」
「とぼけないで。何のことかおわかりのくせに」
はぐらかすことを許さない口調で鋭く切り返す。
「どちらがお悪いの?…ワタクシ、人の命まで奪う気はございませんのよ」
「これくらいのことで、死んだりはできませんよ。……お気に病むことはありません、いつもの発作ですから」
軽く答えて、薫はちょっと笑った。
「あなたらしくありませんね、そのような心遣いは」
レディの顔つきが一瞬、厳しくなったのを薫は敏感に捉えた。その時には、見るもの全てが陶然とするような美しい微笑を
浮かべる。
「私はもう大丈夫ですから、遅くならずに寮へお戻りなさい。車を呼びましょう」
しかし、その気品の感じられる低い声には絶対的な響きが含まれ、レディとて反論する余地がない。
レディは立ち上がりながら、薫に視線を向けた。
「車は結構です。明日、寮にお戻りになったらワタクシの部屋にいらして。お話があります。………まだ…、お顔の色が
優れませんね。どうぞもうお休みになって…」
音を立てない軽やかな身のこなしで、レディは薫の次の言葉を待たずに病室を後にした。
薫の言葉が、耳についたのだ。本人さえ意識していないだろうが、レディは気付いた。
薫が、死んだりできない、と言ったことに。そう、死なないのではなく。
瞬間的に響谷薫という人物を、理解した気がする。
レディは、壁に背を預けてそう思った。
まるで生まれたときからそうであったように、常に彼女の元には暗い影がまとわりついている。そして、ひとりっきりで、彼女は
死を待ち望んでいるのかもしれない。
レディは震える吐息を一つ、ついた。



みんなが学校へ行ってしまう平日の昼の寮は、静か過ぎてどこか落ち着かない。
頼めば寮でも昼食を出してくれるだろうが、それも気が引けて遅めの昼食のために外へでた。
昨日、病院で点滴を打たれたおかげか体は軽い。
レディが預かったのは、ニトログリセリンだけではなかった。抗強心剤も同時だったため、発作は起こりやすい状態に
なっていた。
そのせいか、やはり日常生活を送るにもどことなく体が重かったのは事実だ。それをレディの責任にするつもりはない。
あのときにレディに説明さえすれば、多分薬は戻されただろうし、そうでなくても病院に行って、適当な理由さえつければ
いくらでも処方してもらえる。
学校近くのカフェで軽い食事を済ませて自室へ戻り、部屋へ戻されていたバイオリンケースに手を伸ばした。
きっとレディだろう。
留め金をはずして、ケースを開けると中に収められていたバイオリンを取り出した。
光にすかすようにして表板に目を通す。昨日、かなりの勢いでぶつけてしまったので傷が付いたかと心配していたが、
大丈夫そうだった。
平面に当たったのが良かったのだろう。
受付からの連絡が入ったのは、バイオリンの手入れをしている最中だった。


軽く握った手で、ノックをする。
規則では、昼間は鍵を掛けてはいけないがレディの部屋だけは例外で、いつも鍵が下ろされている。
「ジェットです、よろしいですか?」
「お入りなさい」
小さな声と共に、ドアが開かれる。
この部屋へ入るのは、入寮の挨拶依頼だ。他の部屋より少し広く、造りも違う。
「お座りなさい」
薫をソファへ促して、自分もソファへと腰掛ける。小さな所作の度に頬へまとわりつくウェーブの髪を、邪魔そうに払いのける。
そんな仕草の一つ一つは、毅然としてるようで愛らしさが残る。
「さぁ、昨日の続きですよ、ジェット。ワタクシ、まだ全てを聞いておりません」
昨日のように、許す態度は見受けられない。
仕方ないといったように、ため息をついてソファへ身を預けると、レディから視線を外して語る。
「大したことではありません。少し、心臓が弱いだけですよ。日常生活に影響はありません…」
「これは?何のお薬でしたの?」
「片方が抗強心剤。発作の予防です。もう片方が発作止めのニトログリセリンです、さぁ、もうよろしいでしょう?」
「昨日も申し上げたはずですわ。ワタクシ、気まぐれではありますけれど、人の命を脅かすつもりなど、ないのですよ。
なぜ、あのときにお話をなさらなかったの?」
「これ以上、申し上げる必要はありませんね?それに、薬は昨日処方されたものがございましてね」
レディの詰問をかわして、薫は立ち上がろうとする。
「わかりました、意地の強いお方」
レディはウェーブの髪を躍らせて、立ち上がりドレッサーから箱を取り出す。
深い紺色のビロードの箱を薫に差し出しす。
「これを、受け取っていただけますか?」
シルバーのバングルだった。かなり細やかな細工だ。
「子爵の称号ですわ」
「子爵?」
「そう。レディエメラルドの一番、親しい方に贈られる称号です。つまり、ワタクシの……もっとも親しい方の証です」
一旦言葉を切って、箱からバングルを取り出して薫に差し出す。
「受け取って、いただけますか?」
遠慮がちな微笑を浮かべたレディに、薫は魅惑的な笑みを返す。
「なぜ、急にそんなことを?」
「あなたを知りたくなりましたの」
光り輝くような、笑顔。
「あなたの、全てを」
「それは…光栄なことですが」


「でしたら、お受け取り下さいますわね?」



愛されることを、知らない人。
愛すことを知らない人。

ワタクシが愛して差し上げる………。

あなたが寂しくないように…。


ワタクシ自身に似た、孤独な瞳のあなたを。



カシャンと薫の白い腕でバングルのはまる音がした。




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