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〜 1. In Japan 〜
大学の授業を終えて、オレは指定されたホテルのロビーを訪れた。
指定された時間の10分前。
それなりの客が集う都内有数の高級ホテルであっても、その姿はひときわ目を引く。
「いらっしゃいませ」
「ツレが先に来ていると思うのですが…」
言いながら中庭に面したロビーラウンジに眼をやると、求めていた姿はすぐに見つかった。
オレはボーイに左手を上げて、案内を断り、目指すテーブルへと向かう。
そのローテーブルの上には紅茶が置かれていたが、湯気が立っておらず、
全く手を付けないままに冷めていることがうかがい知れた。
ソファに身を埋めた本人は、無表情に手元のペーパーに視線を落とし、
ところどころに何かを書き込んでいる。
周りを見ている様子はなかったが、歩み寄ったオレに、奴はすぐに気付いたようだ。
彼が顔を上げると、癖のない白金髪が肩から零れ落ちて、抜けるように白い頬に影を作った。
………相変わらずだな。
以前より少し髪を伸ばしていて、今はもう鎖骨の下辺りまで届いている。
同時に少し体つきも変わっていて、穢れを知らない少女のような繊細な美貌と、
さらにたくましくなって大人の男性に近づいた体が、中性的な魅力をかもし出していた。
だが髪型が少々変わろうが、体つきが変わろうが、冷ややかな美貌だけは変わることがない。
「待ったか?」
「いや、そうでもない」
「学会だって?」
「あぁ」
手元のペーパーを整えながら軽く相槌を打ったのは、半年振りに会うシャルルドゥアルディ。
多忙な彼は、日本に来ることがあったとしても、オレに連絡を寄越すことなど昔から殆どなかった。
水臭い。
それを言うと、君がパリに足しげく通っていたときも連絡をしていなかったから、
水臭いのはお互い様だと切り返された。それを言われると返す言葉もないが、
ただの学生のオレはいつだって時間を空けておくのだから、多忙を極めるおまえとは
少し立場が違うと反論したいところだ。
「和矢、今日は外せない用事がもう一件あるんだ。もうしばらくしたら出なければならない。
君も付き合えよ、時間はあるんだろ?」
「もちろん、いいけど…………」
シャルルの用事になぜオレが必要なのかと思ったが、コイツの考えることは昔からわからない。
聞いたところで教えてくれない確率のほうがずっと高い。
聞くだけムダだ。
オレは観念して、熱いコーヒーに口をつけた。
「ところで肩の調子は?動きに違和感は?」
今まで目にしていたペーパーを片付けると同時に、シャルルはまた真剣な顔つきで聞いてくる。
それが本題なのだから仕方ないが。
本題、それはモザンビークで負傷したオレの右肩だ。
2年ほど前にシャルルの執刀を受けて、ボルトだらけになった右肩。
シャルルが選んだ治療法は、とにかく多少不便でも、時間をかけることだった。
粉砕した骨を、普通の医者では到底できないほど、丁寧にボルトで繋ぎ合わせていった。
それは、骨折の手術とは思えないほどの長時間にわたった。
細心の注意を払って、どんな小さな骨も、見事につなげて見せた。
それでも繋がらないところは、無理につなげない。それがシャルルの手術だった。
繋がらなかったところはどうするのか、そう尋ねたら、いとも簡単に答えやがった。
『自然に骨がくっつくのを待つだけだ』
冗談だと思ったら、本当だった。
無理に繋げると、骨は元通りにはならないんだそうだ。
そのため、本来なら一度で済むはずの抜釘の手術に、シャルルは神経質なほどに
何度もレントゲンを取り、くっついた骨から順にボルトを抜くという作業を繰り返し、
3度の抜釘術を終えても、なおオレの肩には数本のボルトが入ったままだった。
しかし、さすがシャルルだ。
全く動かなかった右肩は、大量のボルトで骨を繋ぎ、2ヶ月近くも頑丈に固定され、
さらに厳しいリハビリを乗り越えれば、驚くほどスムーズに動いたのだ。
その後、時がたてば立つほどに違和感は消えいき、今は多少の動きにくさを感じるものの、
日常生活には困らないほどまでに回復していた。
おそらく、これが最後の抜釘になるだろう。
「ほとんど感じない。これで全部抜けることを願うよ」
手術は前回までと同じように、フランスのアルディ家内の治療室で行われる予定だ。
抜釘の手術にはそれほど時間を要しないが、パリに呼ぶ代わりにオレの大学の長期休暇にあわせて手術予定を組んでくれている。
シャルルに付いて、横浜市内のコンサートホールに足を運ぶ。
入り口には、大胆に背中を露出したホルターネックの純白のドレス姿でヴァイオリンを胸に抱き、
天を仰ぐヴァイオリニストのポスターが幾枚も張り出されていた。
リサイタルの日取りは本日。
ヴァイオリニストの名前は、響谷薫。
オレは促されるがままに、招待客専用の2階席に落ち着いた。
ロビーにはCDやパンフレットを買い求める客がまだ大勢いたが、それでも客席は
半分以上埋まっている。
「薫に会うことはあるのか?」
「いや、そうでもない。復帰のリサイタルに駆けつけて…。その後に一度、
オケとの共演を聞きに行っただけだ」
なぜ、日本でのリサイタルにわざわざシャルルが足を運ぶのか、なぜオレを同行させるのか。
聞いても、教えてはくれなかった。
だからといって、シャルルからの問いに答えないわけにもいくまい。
オレは今日のプログラムに目を落としていたが、シャルルの問いかけに
プログラムを鞄の内ポケットに入れながら答えた。
東京で彼女が出演するときには、必ずマリナに招待状が送られて来る。
ペアで送ってくるので、毎回マリナは誘ってくれるが、試験なんかの都合で行けなかったのだ。
響谷は、オレが思っている以上にマリナを頼りにしているのかもしれない。
オレはマリナのことばを思い出す。
たまたま雑誌で目にした響谷の復帰リサイタル。マリナもオレも、響谷がどうなっているのか
全く知らないでいたから、二人で駆けつけた。
そのとき、マリナはいつもと変わらず、よれたTシャツに毛玉のできたスカートを履いていた。
その姿が不服だったのだろうか、その後はじめての招待状を送ってきたときに、
電話で響谷は言ったそうだ。
『マリナちゃん、折角招待するんだから、お洒落しておいでよ』
『お洒落ですって!?そこまで行く交通費にだってことかく生活をしてるのに、
できるわけないでしょっ!だいたいねぇ、チケットだけ送ってきて、どうやって行けばいいのよ!』
マリナの叫びに、響谷はいささか呆れていたそうだが、3日後には荷物が届いた。
中には、往復の交通費を払ってもおつりがくるくらいのJRと地下鉄のプリペイドカード、
コンサートホール内にあるフランス料理店のクーポン券、さらに淡いグリーンのシフォンの
ワンピースと明るいオレンジ色のカーディガンが添えられていたそうだ。
それ以来、コンサートに招待するときには、交通費とレストランのクーポンと服。
かならずセットで送ってくる。
それだけしても、マリナに見て欲しいということらしかった。
「シャルルは、もしかして初めて?」
「そうだな」
「で、もと伴奏者としては、ヴァイオリニストの成長は気になる?」
からかったオレに、シャルルは凍りつきそうなほど冷たい視線を返し、
「ふんっ」
と言ったきり、シャルルは口をきいてくれなかった。
ちょっとした冗談だったんだけどな……。
だんまりを決め込んだシャルルが口を開いたのは、プログラムの最終曲に入ったときだ。
「この曲が終わったら、楽屋に行こう」
プログラムの最後はモンティの<チャルダッシュ>。
響谷の奏でるジプシーの躍動的なリズムに、観客達は引き込まれ、その情熱に陶酔し、
最後のカデンツが鳴り響いたとき、ほんの一瞬だけ静寂が広まった。
次の瞬間には割れんばかりの拍手がホールに響き渡り、ステージの上で
響谷は輝くばかりの笑顔を浮かべて観客の拍手に応えた。
「さ、行こう」
シャルルの声に、そのままアンコールを聞いてみたい衝動に駆られていたオレは、
しぶしぶ席を立ってシャルルの後に続いた。
「で、我が幼馴染殿は、“魅惑のヴァイオリニスト”をどう思ったんだい」
パンフレットのキャッチフレーズを使って、シャルルは問いかけた。
その瞳のなかには、イタズラっぽい光が瞬いていた。
ステージに響谷が立った瞬間からオレはその姿と音色に釘付けになっていた。
シャルルにはそれがわかっていたのだろう。
「別に。キレイになったとは思ったけど」
言い当てられたのが悔しくて、オレはちょっとぶっきらぼうに言ってのけた。
幾度ものアンコールに応える響谷は、まだステージ上にいたため、
オレたちは楽屋ではなく舞台裏に向かった。
「ハルキ」
シャルルは舞台裏で模造紙を広げている青年に歩み寄り、なにやら話し込んでいる。
オレは手持ち無沙汰で、影からステージを見ていた。
舞台上の響谷は<トロイメライ>を弾き終え、袖に下がると、俺に気付いてちょっと笑った。
そのまま手にしていたヴァイオリンをスタッフに預けると、もう一度ステージに戻り、
優雅に礼をした。
ヴァイオリンを持たずに現れた彼女に、観客はアンコールでの演奏が終わったことを知り、
さらに大きくなった拍手のなか、響谷は満面の笑みを浮かべていた。
スポットライトに照らされた舞台で、圧倒的な存在感で彼女は眩しいほどの輝きを放っていた。
しかし、その輝きは幻想だったのだろうか。
そう、例えば満開の桜のような。
袖に入るや否や、響谷はふと視線を彷徨わせると、そのまま崩れるように倒れこんだ。
焦ってオレはその身体を抱きとめ、あまりに病的な細さに絶句した。
荒々しい呼吸に喘ぐその姿は、ステージで輝いていた姿とはまるで別人のように華奢で頼りない。
「酸素」
その様子をしっかりと見ていたシャルルが声を上げると、スタッフが小さなボンベをシャルルに手渡す。
シャルルはそれを受け取ると、素早く響谷に当てながら脈を取る。
「車椅子を用意しようか」
先ほどシャルルと話していた青年がシャルルに問いかける。
渕のないメガネをかけた端整な顔立ちの青年だ。
180あるかないかの痩身で、年の頃は30過ぎたくらいだろうか。
「いや、私が運ぶ」
意外なことを言って、シャルルがオレから響谷の身体を抱き上げようとすると、
響谷がオレの肩を支えに立ち上がるところだった。
白い手がシャルルの胸を押し返し、手助けを拒否した。
「自分で歩ける…」
崩れそうになる響谷に、オレは肩を貸してその身を支えてシャルルを仰いだ。
「アンコールなんて、適当に済ませておけばよいものを」
無表情にシャルルが言うと、ハルキと呼ばれた痩身の青年もそれに同意する。
「本当だ。適当とまでは言わないが、ファンサービスの前に自分のことを考えろ」
二人からの叱責にも響谷は全く意に介さない様子で、響谷はオレに楽屋のほうに行くよう
目配せをした。
オレは二人を気にしながらも、響谷を一人で歩かせるわけには行かず、
覚束ない足取りの身を支え、楽屋に向かった。
背後で、白々しいシャルルの溜息が聞こえる。
シャルルは無理に止めようとせず、青年ハルキとの会話を続けた
「ハルキ、私も向かう。君は?」
「私はロビーに、コレを張り出してから行くから、君は先に行ってくれ」
「何?」
「アンコールで弾いた曲だ」
「ご丁寧なことだな…」
「いいのか?」
会話を続けている二人からは、どんどん離れていく。
オレは響谷に問いかけると、響谷は軽く頷いた。
「どうせ、二人ともすぐにお説教しにくるよ」
「乾杯」
響谷が手配した会員制の仏蘭西料理店の個室に陣取り、キール・インペリアルで乾杯をした。
見事に磨き上げられたカクテルグラスを目の高さまで上げて、響谷が甘やかな笑みを浮かべる。
楽屋に戻った時は立っていることもままならず、顔色も真っ青だったが、しばらく休憩をとり、
着替えを終えるころには傍目には普段と変わった様子はなかった。
ワインベースのカクテルなど、普段は口にしないだろうシャルルだったが、珍しく口をつけている。
折角の再会だからと、ボトルでワインを注文しようとした響谷をその冷たい視線で黙らせ、
乾杯だけ、という約束で響谷にアルコールを認めた。カクテルを選んだのはそのためだ。
それでも珍しいことだ。シャルルなら、一滴のアルコールだって許さないと思ったから。
「で?学会ついでかと思ったら、和矢まで一緒とは…。何事?」
彩りよく盛り付けられたオードブルを口に運びながら、まず響谷が口を開いた。
視線は、オレに向けられている。
「いや…」
オレがシャルルに回答を求めて視線を送ると、響谷も同じようにシャルルを見た。
二人の視線を受けても、シャルルはまったく無表情のまま。
「二人仲良く入院してもらうから、一応顔合わせくらいはしておいたほうがいいと思っただけだ」
「はっ?」
驚いたのはオレだけではなかった。
響谷も目を見開いて、シャルルを見つめる。
「和矢、どこか悪いのか?」
響谷は青く澄んだ瞳に、心配そうな影が宿る。
オレは肩をすくめて、
「いや、モザンビークでやられた骨折の抜釘」
と言うと、ほっとしたようにその表情をやわらげた。
「よかった…」
すっかり安心した様子だったが、二人、と言うからには、もちろん響谷も何らかの
手術を受けるということだろう。
そのほうが、よほど心配に思われた。
尋ねるまでもなく、心臓の手術に間違いない。
先ほどの様子を見ても、彼女の身が全くの健康ではないことが知れる。
「お前は…」
オレが聞こうとすると、響谷はさえぎるように口を開く。
「シャルル、同じ時にするっていうこと?」
その声は強くて、オレの質問を避けようとしていることが明白だった。
そんな手には乗らない。
「響谷、お前は大丈夫なのか?」
畳み掛けるように尋ねたオレに、シャルルがふぅっと溜息をついて、オレたちをかわるがわる
見つめた。
「食事くらい静かに取ったらどうだい?説明なら私がする」
「二人ともオレの患者だから、それぞれに時間を取りたいところだが、生憎忙しくてね。
時間の節約に二人同時にさせてもらおうと思ったわけさ」
響谷が物心ついたときから通っているレストランというだけあって、
口うるさいシャルルにも許せるものだったらしく、文句も言わずにオードブルを口にする。
「和矢の抜釘と、響谷の人工心臓の手術とね」
さらりとシャルルは言ってのけたが、オレはドキッとした。
人工心臓…、それはとても大変なことのように思われた。
「何せここにお見えの我侭姫は、なかなか難しい御身体でね。折角人工心臓を用意していたのに、
心筋破裂など起こしてくれるから、そちらの処置に掛かりきりでね」
言葉のはしばしにチクリと嫌味を織り交ぜて、シャルルは冷ややかな視線を響谷に送る。
ムッとした様子で響谷は青く澄んだ美しい瞳をギラッと光らせてシャルルを睨み返した。
マリナなら喜んで参戦しそうな応酬だ。
「体調が整わないこともあって、先延ばしにしてきたんだが、本格的にヴァイオリニストとして
活動するつもりらしいから、今のうちに手を打って置きたい」
それはすなわち、手術をしなければヴァイオリニストとして活動することはできないということか。
オレは先ほどから気になっていた響谷の腕を盗み見た。
胸元から細いプリーツが広がる濃い紫のワンピースからすらりと伸びる白い腕は、
細いながらもヴァイオリンで鍛えられた筋肉がついていて、とても美しい。
でもその内側にはいくつもの注射針の痕が残っていて、痛々しかった。
いかに無理をして舞台に立っているかは明白だ。
「前に言っていた補助人工心臓か?」
オレは、かつての会話を思い出していた。
補助人工心臓シャルル型。響谷が心筋梗塞の発作を起こしても、
人工心臓の移植によって助けられるだろうと言っていた。
シャルルの言葉は絶対だ。
だが、実際はシャルルさえ想像できなかった心筋破裂という結果だ。
目の前で行われた手術は破れた部分を縫い合わせ、梗塞を起こした部分をステントで
拡張するものだった。
人工心臓の移植など、とてもできる状態じゃなかった。
「あぁ、少し改良したけれどね。それでもすっかり健康体というわけにはいかないが、
今の生活よりはずっと楽になるはずだ」
そう言って、シャルルは物憂げな視線を響谷に送った。
響谷は無言でうつむいた………。
その横顔は少し強張っていて、その話題を続けることが憚られた。
「そういえば、オレはお礼を言うのを忘れててさ」
響谷を見つめてオレは言った。
何のことかわからないといったように、響谷は少し首をかしげた。
「バイク」
オレが言うと、響谷はそのバラの花弁のような唇に僅かに笑みを乗せた。
「あぁ、気に入ったかい?」
「お陰さまで。随分大胆な方法だったから、すっかりお礼を言うのが遅くなった」
軽井沢からフランスへ。そしてモザンビークへ。さらにモザンビークからまたフランスへ。
自宅に帰ることのないまま、長い時間がすぎていた。
フランスから帰宅したとき、自宅の車庫には見覚えのないカバーが掛けられた
真新しいバイクが一台、置かれていた。
響谷からの贈り物だった。
『折角の愛車を廃車にしてしまった詫びだ。黙って受け取れ。礼はいらん。
礼を寄越したらまた新しいのを一台送ってやる』
少々脅しめいた手紙が一枚付いていた。
「ドゥカティなんて高級車、まさか乗れるとは思ってなかったよ」
「好きなんだ、ドゥカティが」
響谷は、ちょっとはにかむような笑みを見せた。
「GSRのほうがよかった?」
響谷が谷底に落として廃車にしてくれたのが、スズキのGSR400。
もちろんGSRは好きだが、ドゥカティを持ってこられると、ドゥカティに乗ってみたくなるのが、
バイク乗りというものだ。
「いいや。しかし、どこでバイクの運転なんか習ったんだ?あれは初めて乗るっていう
手つきじゃなかったぜ」
確かにスタンドは上がりきっておらず、事故に至った。
でもクラッチやシフトの基本的な操作は全て完璧だった。
あれは、バイクに乗ったことのある人間の手つきだ。
「昔、教えてもらったんだよ」
甘い微笑をその唇に浮かべて、響谷は昔を懐かしむように言った。
しかし、その甘い微笑とは裏腹に、発言内容は物騒だ。
どう考えても、教習所で免許を取ったという様子ではない。
「もしかしなくても…無免?」
「もちろん」
なぜか自慢げな口調で、きらりとその瞳に不適な笑みを浮かべた。
「スクーターから大型まで、乗れる」
もとは深窓のお嬢様であるはずなのに、どこかその行動は破綻している。
こんな危険な奴にバイクを教えた奴の気がしれない。
響谷が送りつけてきたバイクは、ドュカティのモンスター400だ。
バイクを乗っている人間なら誰でも知っているイタリアのメーカーだが、
バイクに興味のない人間にはあまり知られていないだろう。
その選択からしても、響谷はそれなりにバイクに詳しいのだろうと思われた。
「無免許の心臓病患者がバイクで暴走か。聞いて呆れる」
黙って話を聞いていたシャルルは、渋面で響谷を見やる。
「センセはイツキだけどね」
シャルルをちらりと流し見て、響谷はイタズラっぽい笑みを浮かべる。
シャルルは一瞬目を見開いて、肩を竦めた。
「やりかねないな」
どうも、二人とも知っている人物のようだった。
「しかし、これ以上ハルキを心配させるな。あいつ、心労で若白髪になるぜ」
ハルキ、あのふちナシメガネの青年か。
機敏な動きで、響谷の荷物をまとめてオレたちを送り出した。
「誰?」
オレは尋ねた。シャルルも妙に親しげだ。
「もとユキ辻口の秘書で、今はあたしのマネージャーをしてる。心配性なんだ」
「君みたいな無謀な人間が側にいたら、誰だってそうなるさ」
物憂げな青灰色の瞳を一瞬だけ光らせて、シャルルは響谷を見た。
響谷はまた、ムッとしたようにシャルルを睨む。
「無謀?言うね」
「よせよ、せっかくの食事なのに」
再び始まった応酬に、オレは溜息をついた。
どうしてコイツらは、二人揃うと口げんかが始まるのか。
「せっかくなんだから、穏やかに行こうぜ」
二人の気持ちを落ち着かせようとしたのに、二人は揃ってこちらを見ると、口々に言い放った。
「日和見主義」
「君は静かに食事を楽しめばいい」
まるで図ったかのような二人揃っての反論。
実は、コイツら、仲がいいんじゃないのか。
その考えは、自分なりにちょっと面白い発想だと思った。
私は、和矢と談笑する薫を見て、すこし安堵した。
今度の手術は、おそらく大変なものになるだろう。
成功率はこのオレでも100%とは言い難い。
『シャルルが言うように、どのみち今の状態ではヴァイオリニストとして活動することは無理だ。ヴァイオリンを弾かない生活、それは死に値する』
だから、成功率など0%でさえなければ良い。
彼女はそう言いきった。
だが、ただ一人この世に取り残された彼女に、さらに一人でその手術に耐えろなんて、あまりにも過酷だと思った。
誰でもいい。誰でもいいから彼女の傍にいて、彼女の心をここに留め置いて欲しかった。
でなければ、手術はきっと成功しない。彼女はきっとまだ見ぬ天の国に憧れを抱くに違いないから。
和矢、そんな役を押し付けられるのは不満かい?
それでも、思いつかなかったんだよ。
彼女が信頼する、彼女が少しでも心を開く人間が。
彼女はあまりにも自分の心を開かないから。