〜1.日常〜




カチャリと小さな音を立てて、彼女の手が止まった。
何気なく顔を上げて、正面に座る薫を見た。
磨き上げられたナイフとフォークが、彼女の手に握られたまま空中で止まっていた。


僕は薫のことを妹ではなく、一人の女性として間違いなく愛していると自覚してから、
できるだけ自宅で過ごす時間を減らした。
いつの頃だろうか、彼女をそのような目で見るようになったのは。
思い返しても判然とはしない。
いつの頃からか、確実に、僕は彼女を愛していた、苦しいほどの情熱を持って。
僕にとって、家以外の場所で時間を潰すことは、とても容易なことだった。減らそうと意識する
までもなく、僕は多忙であった為に家にいる時間は少なかったし、食事をしようと誘えば
誰かが付いてきた。

愛している薫と距離を置くことは、辛い反面楽でもあった。
肉親である薫を愛することなど、許されないと知っていたからだ。
しっていながら、僕はその気持ちをどうすることも出来なかった。
ただ、彼女を前にすると美しいと感じ、彼女を愛しいと思い、そして常にその気持ちを
抑えようと戦っていた。
それは耐え難いほどに苦しかったから、彼女の傍に身を置くことを避けた。


それでも、時には同じ食卓につくことだってある。
手をとめたまま、薫は物憂げな瞳で空を見つめていた。
何を考えているのか、そうしている彼女は以前よりも痩せて、心なしか顔色も悪かった。
「どうした、薫。気分でも悪いのか?」
刺激しないように声を掛けたつもりだったが、はっとしたように顔を上げて小さく薫は首を振る。
すると、途端に手にしていたナイフとフォークを皿の上に置いた。
「なんでもない。……ごちそうさまでした」
まだ半分も手を付けていないのに、テーブルをたってしまった。




「薫はいつもああかい?」
後姿を見送って、住み込みのメイドに確認した。
考え込むように一瞬手を止めて、彼女はそれから言った。
「そうですね……。もともっとそんなには召し上がりませんが、このところは特に…。でも、
今はダイエットが流行りですから、薫様もそうかもしれませんね」
一礼して、メイドは薫の食器を片付け始める。なんの疑問を抱く様子もなく。
いい加減で腹立ちさえ覚える。
ちゃんとした食事を、出せばいいと思っている。
食べるか食べないかは自分たちの責任ではなく、薫自身の判断に任せている。まだ、中2の
少女だというのに。



「薫、入るよ」
広い洋館で最も目立つ扉の前で、僕はそう言った。
アメリカに行ったとき、通りかかったガレージセールで突然買い込んだ代物だ。
「何か用?」
無愛想な声と共に薫が姿を見せた。
昔はそのように声を掛ける習慣はなかった。
いつだって思ったとおりに彼女の部屋に入り、薫も特に拒みはしなかった。
だが、僕は妹としてではなく、一人の女性として愛しているのだと自覚してからは、そんな風に部屋に入るのも気後れしてしまい、彼女が中学に進学したのをきっかけに、ノックをするようにした。


ベッドに横になっていたのだろうか。
薄茶にすける柔らかい髪は少し乱れて頬に掛かっていた。
いつも肩より長かった綺麗な髪を、昨年の秋にばっさりと切り落としてしまった。
肩から背中を覆っていた巻毛は、軽やかに肩の上で揺れている。
そのことに何か目的があったに違いなかったが、それが何であるのかは、僕には皆目
わからなかった。
とても悔しかった。昔は何でも話してくれていた薫が、そのときは何も話してくれなかった
ことが無性に悲しかった。もう僕のものではないと、僕の知らない薫がいると、否がおうにも
認識させられた。
薫はかなりの長身で、そんな風に髪を切ってしまうと、男性のように見えなくもなかった。
その言葉も、その表情からもいつしか甘えた様子が少女の輝きは失われ、男性のようだった。
それなのに、僕は短い髪のせいで露になった真白のうなじを、ほんのり紅を含んだ滑らかな
肌を、たまらなく美しいと思った。
姿を見せた薫は、薄手のニットに細身のデニムに身を包んでいた。
余すことなくその整った肢体が感じられる。
柔らかく膨らんだ胸、引き締まった細すぎるウエスト。
無造作すぎるその装いは、薫が女性であることを知らしめた。

「何か用?」
何も言わないでいた僕に、今度は少し強い口調で質問した。
「あぁ…。いや、余り食べていないよだから、具合が悪いのかと思ってね。少し顔色も悪いし、
やせたようだし。気になったから…」
焦ってそう言った。
まさか僕がそんなことを考えているなど、薫は考えもしないだろう。
僕の視線を不潔だと、感じたかもしれない。
「普通だよ。前が太りすぎだったんだ。……それだけ?」
会話は続かない。まるで、見えない壁が僕たちの間に立ちはだかっているようだ。
望んで作り出した関係のはずが、ひどく苦しかった。
「そう、ならいいんだ。……すこし気になっただけだから」
部屋の扉を僕は閉じた。
カシャリと響いた鍵の音が、まるで彼女の心の鍵のように感じた。
決して開かれることのない心の奥底の鍵。


なぜ、気付いてやることができなかったのだろう。彼女の心に、その身体の不調に。
僕しか気付いてやれる人間はいなかっというのに。
小さなときから薫を見ていた僕にしか出来ないことだったのに。


近くにいなければ、愛さずにいられるなどと、甘い幻想を信じて……。