〜13、サイレントラブ〜



ソファで眠る薫の体を、毛布でそっと覆った。
1曲といいつつ、4曲も弾いた上にピアノの演奏をリクエストした薫は、結局ソファで
眠り込んでしまった。
疲れているのか、気持ちよかったのか。
ベッドに運んでやろうかと思ったが、薫は眠りが浅いので、きっと目覚めてしまうだろう。
それがかわいそうで、しばらくそのまま寝かせておくことにした。

ピアノの鍵盤を丁寧に拭き、蓋を閉める。
薫のヴァイオリンを触るのは久しぶりだ。状態を見ようと椅子に腰掛けて表板に目を
やったが、手入れが行き届いた様子で、悪いところはなかった。
バイオリンをケースに戻すと、楽譜を片付ける。薫が目覚めてしまわないように、
そっと。
ピアノの椅子を引き寄せて、ソファの横に座った。息をするたび、彼女のほほに
掛かった巻毛が揺れる。
その様子は、穏やかで美しかった。
普段はもっと、思いつめたような顔をしている。時に絶望の色さえその表情からは
感じられる。
本当は、薫に言っていないことがあった。
薫の心臓病について、もちろん原因は彼女の心臓の奇形にある。
だが、そういう類の奇形についてはいつ症状がでるか、本当にわからないそうだ。
女性に多いのは妊娠時の発覚。
けれど、今回薫の年齢で顕著に症状が現れたのは、そのストレスが原因の一つだと
医者は言った。
そういった精神的なストレスが、体に悪影響を及ぼしていると…。


「何を、悩む?僕にも話せないことかい?」
ふと娘を嫁に出す父親のような気持ちになった。
近いかもしれない。
両親よりも近くで薫を見守ってきたのだから。
…そのままの気持ちで見ていることができれば、どんなに幸せだっただろうか、僕に
とっても薫にとっても。
今はもう無理だ。
そっと、その髪に触れてみた。
甘い香りがした。きっとシャワーの後のローションの香りだ。薫が好きな、ティファニー
のトュルーストの香り。

整った顔立ちに、男ことば。
透けるほどに白い柔らかで、匂やかな肌。

ユニセックスな雰囲気が、またとない魅力を醸しだしている。そんな容姿など、
どうでも良かったけれど。僕が愛したのは、濁りのないそのこころだから。
髪を梳く。ウェーブの掛かった髪が指に絡まった。
「…ん……?」
星のように反り返った長い睫毛が震えた。
うっすら開いた瞼から、澄んだ瞳があらわれた。そんなに強い力を込めたつもりは
ないんだが、目覚めさせてしまったようだ。
「おはよう、お姫様」
いささかの皮肉を込めて、そんなことばを使ってみた。
しかめっつらで、優しく薫は僕を睨んだ。
「起こしてくれたら良かったのに」
少し掠れた寝起きの声で薫は文句を言う。
「良く眠っていたからね、起こすのが可哀想だったんだよ」
薫はソファからゆっくりと体を起こして、乱暴に髪をかきあげると、伸びをした。
「薫、風邪をひくから、こんなところでなにも掛けずに寝るんじゃないよ?」
「過保護だな、大丈夫だよ」
投げやりに答えて、勢い良くソファから立ち上がる。その拍子にまた、甘い香りが鼻を
くすぐった。
「大事になってからじゃ、遅い。暖かくして寝なさい」
微かな笑いを滲ませて出て行く薫を見送った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」



今よりも、彼女の状態が悪くならないように、祈った。
僕はそればかりを願い、彼女を見守った。

それは、長くは続かなかったけれど………。
その時は、信じて祈っていた。