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〜12、呼吸〜
学校から戻ると、練習室に明かりがついていることに気付いた。 大学と高校で講師を併任し、自分自身がユキ辻口の研究室で学んでいる立場では、 時間などいくらあっても足りない。 早く帰ろうと思ってはいても、なかなかに思い通りにならない。 時計の針は既に9時半をまわっている。薫にはとにかく体を休めるようにと言って 聞かせているが、見ていれば、そんな気がないのは一目瞭然だ。 足早に家に入ると、階段を駆け上がり、明かりがともっていた練習室に入った。 案の定、そこで練習していたのは、滅多に家に帰ることのない父母であるはずもなく、 バイオリンを手にした薫だった。 ノックをせずに、荒々しくドアを開けた僕に不愉快そうな視線をよこした。 「まだ練習していたのか!?」 かなりの時間練習していたことは、顔つきを見ればすぐにわかる。 証拠だといわんばかりに、鎖骨には肩当の赤い跡が見えた。 「なんだ?いきなり入ってきて」 弓を下ろして、薫は溜息とともにこたえた。 「もう9時半だ。いつから練習していた?」 僕の声などまったく意に介さない素振りで、薫はゆったりと譜面を繰った。 「学校から帰って6時までと7時半から再開だ」 ページに折り目を付けて、再びバイオリンを構えようとした薫の腕をとっさに掴んだ。 ボウがバイオリンに当たり、カンと高い音がした。 不愉快そうに顔をしかめて、薫は斜めに僕を見上げた。 「何?」 「やりすぎだ。もう少し体を労わりなさい」 透き通るほどに白いその肌が、華奢な体が、いますぐ消えて目の前からいなくなって しまう様に感じさせた。 そんな夢ばかり見ていた。 この手から、彼女が消えてなくなる夢ばかり。 薫は構えていたバイオリンを傍らの椅子に立てかけて、向き直った。 食い入るような視線が僕を正面から捕らえた。 「確かに、体を休めることも大切かもしれない。疲れていたから、今回症状が出たの かもしれない。出来ないことはやらなきゃいい。けど、出来ることまで怖がって やらないのは問題だと思うね。気をつけて日常生活を送ればいい。違うのかい?」 明らかに正論だった。 余程、僕よりもこの現実を正確に受け止めた発言だった。それは僕もよく、わかって いた。 青く見えるほどに澄んだ瞳は、心の奥底まで見通されているように感じて、思わず 視線をそらせてしまう。 「わかっている。……少し動揺しているのかもしれない、お前以上に。ただ……心配 なんだ」 意外なほど、その声は臆病に低く響いた。まるで僕自身の声ではないように。 悟られない程度に息をすると顔を上げて、大きな瞳を見つめた。 「悪かった」 置いてあったかばんを持ち直すと、軽く薫の肩を叩いた。 「ほどほどにしておきなさい」 その肩に細さを感じて、また少し心配になったが、口にする言葉はそれだけにして おいた。 薫のそばを通り抜けようとして、突然薫に腕を掴まれた。 驚いて振返ると、戸惑ったような薫の視線にぶつかった。 「どうした?」 刺激しないように声を掛けた。 「…あの……」 視線を泳がせて、言葉を区切る。そんな仕草はこどものようでかわいいと思う。 「一曲だけ相手してくれたら、今日はやめるよ」 首を傾げて薫が言う。 「最近は兄貴の演奏、聴かせてくれないし」 その声は、すこし不満げで、すこし幸せそうで、綺麗だった。 抱えたかばんを再びソファに置くと、僕は出来る限り穏やかな微笑を浮かべた。 「いいね。ピアノがいいのかい?それとも…ひさしぶりにアンサンブルにしようか」 薫は一気に笑いを大きくした。 「あたしがピアノを弾くよ」 明るい声を響かせたかと思うと、椅子に置いてあったバイオリンを僕に向かって突き 出した。 手渡されたバイオリンの弦を弾きながら音を確かめる。 薫は絶対音感の持ち主で、神経質なほど音には細かい。渡されたバイオリンの音に 満足すると、自然と笑みがこぼれた。 「薫の伴奏に合わせるのは至難のわざだな」 軽い皮肉にも、薫は笑顔を崩さない。……そんなにも彼女の練習に付き合っていな かっただろうか。 そうかもしれない、彼女を避けていたから。 カタンと音を立てて、ピアノの蓋を開き楽譜を立てた。 ピアノの前に座る薫を見るのは、そういえば長らく見ていない。 従兄弟の祐樹はピアニストとしてその才能を認められていたし、僕もピアノ演奏は 好きで賞も何度も取ったことがある。 比較されるためか、薫の演奏はあまり褒められることはなかった。もちろんその辺の 人間とは比べ物にならないほどの技量だ。 ただ、どちらかと言えばその演奏は僕よりも祐樹のほうに似ていた。華があり、人を 引きつけるが、伴奏に向いているとは言いがたい。 「兄貴はバイオリンとなれば、どこにって思えるほどに情熱的なのに、いざピアノとなると理知的すぎて面白みがない。冷めてるんだよ、音が」 ぶつぶつと文句を言う薫の頭を丸めた譜面で叩いた。 「偉そうな口を利くじゃないか、薫。…おまけに僕の情熱的なピアノ演奏を付け加えて やる」 薫とは感性が似ていた。それは兄妹だからか、それとも付いた教師が一緒だった からか、理由はわからないが、微妙に自分とは違いそれでもよく似た彼女の音楽は 何もかも忘れて心を委ねられるものだった。 何を言われても、腹も立たない。 「兄貴、指慣らしは?」 譜面に折り目を付けながら、薫は尋ねてきた。嫌というほど、ユキ辻口の下で弾いて きたばかりである。存分にできている。 「必要ない。お前こそ、ピアノは久しぶりなんじゃないのか?」 「いや、大丈夫だよ」 その声には、もう感情は乗っていなかった。演奏に意識が集中している証拠だ。 美しい指が、鍵盤の上に置かれた。僕はその構え方が好きだった。とても静かで、 映画のワンシーンのように美しい。 ピアノの硬い音が響いた。軽く息を吐くと、僕はその音に乗せて思い切り弓を引いた。 少し嬉しそうな笑みをにじませて、薫は僕のほうを覗きみたのがわかった。 何事かと思えば、薫はいつものような大胆で華やかな演奏ではなく、とても控えめで 几帳面な演奏をした。 何を遠慮してるんだと、おかしく思ったが、それにこたえようと思い切りアレンジをした。 楽しい演奏だった。 |