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〜11、青い空と白い雲〜
「薫!!もう大丈夫なの?」 10日以上も学校を休んでいたために、ある程度のことはクラスメイトには伝わって いるようだった。晴留香はぺらぺらとしゃべるような人間ではないが、部活動の最中 に救急車で運ばれたことは、全校に知れ渡っていた。 「どうしたのかって、皆で心配してたんだよ」 「そうだよ、薫。どこが悪かったの?」 遠慮する素振りもなく、クラスメイトはあたしの席を取り巻くように陣取って口々に 尋ねてくる。 うるさいと、怒鳴ってやれればどんなに楽か。 最も、彼らの口を閉ざす方法なら他にも知っている。手懐ければいい。 「心配掛けて悪かったね、もう大丈夫だよ」 自然な笑顔なら、簡単に作ることができる。兄貴の前では、そうやっていつも演技を してきた。手馴れたものだ。 チャイムの音が鳴っても、なかなか席に着こうとしない連中の一人の背中をぽんと叩く。 「ほら、授業が始まるぜ、席に着く!」 きゃあ!と黄色い歓声が上がったかと思うと、微妙に話題がずれ、そしてパラパラと 自分の席に戻って行った。 すっと温度が下がったように感じる空気の中で、人に知られない程度に小さくため息 をついた。 教師が部屋に入ってくると、日直の声で礼があり、席に着く。 いつも通りのつまらない授業が始まると、話も聴かずにぼんやりと風に揺れる カーテンを眺める。 大丈夫、そんな言葉は曖昧すぎて、何の表現にもならない。 『現在の状態なら、激しい運動を避けて、規則正しい生活をしていれば、日常生活は 問題なく過ごせるでしょう』 医師のセリフだ。 兄が隣にいなければ、そのまま笑っていただろう。 日常生活に問題がないだなんて……。 自分にとって、バイオリンを弾くことは日常以外のなにでもない。“寝食を忘れるほど” の練習が日常なのだ。 それを可能にして、初めてプロのバイオリニストを目指す資格がある。そういう教育を され、自分もそう思っていた。 疲労を恐れていたら、練習なんてできやしない。 思う存分に練習もできず、どこが日常生活だと……笑ってしまえば良かった。 自分がバイオリニストになることに、何の疑いもなかった。 いや、すでに幾度もの舞台を経験し、リサイタルをこなした自分には、プロとしての 一歩は既に歩んでいるのだ。 初めて感じる挫折感だった。 いや、症状が悪化しようが、発作が起ころうが関係などない。 バイオリンさえ弾ければ、それでいいのだから。 「短い間ですが、お世話になりました」 退部届けはクラス担任経由で提出すれば良いのだが、一言くらいは挨拶をしておく べきだろう。面倒だったが、放課後に職員室まで出向いて顧問が戻るのを待った。 職員室で待っているだけでも、幾人もの教師たちが『もう大丈夫なのか?心配した んだぞ』と語りかけてくる。 おざなりに返事を返していたところに、ようやく顧問が戻ってきた。 退部届を出しながら吐いた言葉は、感情がこもらず空虚に響いた。 「気を落とすな、響谷」 人の気も知らずに、下手な作り笑いを浮かべて顧問は退部届を受け取った。 「もともと、こっちが頼んで入ってもらったんだ。もう一度、バイオリンだけの生活に もどるなら、それも悪くないだろう」 年若い顧問は慰め方一つ、知らないらしい。 バイオリンのことなど、何も知らずにそんなことを言ってのける、無神経に。 「そうですね」 彼の無知を攻め立てて物事が変わるわけでもなく、話を切り上げるために空々しい 同意の言葉を作った。 「じゃ、失礼します」 がらりと大きな音を立てて職員室の扉を閉めてため息をついた。 ストレスの溜まる一日だと思った。 「薫!!」 苛立ちを収めながら、歩き出そうとしたところで、大きな声が廊下に響いた。 ポニーテールを揺らしながら走りより、息を切らせて晴留香が立ち止まった。 「あのね………」 そこから先は、出てこないらしい。 「この前は悪かったね、晴留香」 ちょっと驚いたように見上げて、晴留香は笑った。 「兄貴とケンカして、ちょっと気が立ってたんだ。気にするなよ」 ぽんと肩を叩いて、晴留香のそばをすり抜けようとして、腕を強く掴まれた。 「ちょっと話そうよ、いいでしょ?」 ひたむきな視線に負けて、誘われるがままに中庭に出ると、夏の暑苦しい空気が 襲ってくる。 「……バスケ部、辞めちゃうんだね」 「仕方ないね、こればっかりは」 「うん…………。だけど残念だな。薫にはあたしの引退後のバスケ部を背負って もらわなきゃならなかったのに」 空を仰いで一歩前を行く晴留香が振返った。 「随分無謀な計画を立ててたもんだ」 その顔には、本気だったことが見て取れる。 軽い口調で受け流して、一言、付け加えた。 「あたしには無理だよ、バイオリンが一番だから」 まだ高い太陽から照りつける日差しが暑い。 風を求めて、二人で藤棚に登った。藤の木はとうの昔に枯れてしまい、中庭の片隅に 残った藤棚は見向きもされずに寂しげに在った。 放課後の中庭は、人の往来が激しい。ざわめきの合間に、遠くから吹奏楽部の 音あわせが聞こえた。 二人でぼんやりと人の流れを見つめていると、しばらくして晴留香が遠慮がちに口を 開く。 「これから、どうするの?」 「別にどうもしないさ。今までどおり。晴留香は?」 何も語る気分ではなかった。 「そうだなぁ…」 大きく伸びをして、晴留香は器用に藤棚の上に寝転がる。 「あたしは勉強だな。受験生だから」 苦笑いを浮かべて、付け加える。 「勉強、嫌いなんだけどねぇ」 「志望校、決まってんの?」 「もう夏休みだよ、なくても決めなきゃ怒られる」 聞いてもいいものか躊躇ったが、聞いてみる。 「どこ?」 「N女。薫は?ってまだ2年だもんね。決めてないか」 「決まってるよ」 瞬間的に答えていた。意識せずに口に出た言葉には不自然に力が入った。 え?と身を起こしかけた晴留香と目が合った。 「あたしは…日芸の高等部、もう決めてるから…」 小学生の頃、兄の後ばかりついていた。自分の目標は常に兄だった。兄の歩む道を そのまま自分の歩む道のように思っていた。 けれど、去年の秋にそんな考えは捨てた。 兄が通った音大に入るものだと闇雲に思っていたが、それもやめた。 あたしは、あたしの道を。 「音楽学校か。縁がないなぁ…」 のんびりともう一度寝転がって、晴留香は呟いた。まねをして、隣に寝転がると 真っ青な空が広がっていた。 流れる白い雲を眺めていたが、晴留香は突然思い出したかのように身を起こす。 「あたし、部活、行くね」 部活はとっくに始まっている時間だった。 結局、晴留香は何が話したかったかもわからない。 体育館は門のすぐそばにあったので、必然的に同じ方向に向かうことになる。会話も ないままに中庭を横切り、門が見えたところで、来たときと同じように一歩前を歩く 晴留香が勢いよく振返った。 「ね、薫。あんまり泣いちゃ、ダメだよ?」 小首を傾げてそういうと、じゃね、と手を振って早足に体育館へ向かう。 励ましてくれたつもりだろうか。 小さくなる背中を見送って、ぼんやりとそう思った。 門を出てすぐの角を曲がると、響谷家の車が横付けされていた。 退院してから、巽の言いつけで毎日車での通学が始まった。 国立という土地柄、そういう生徒がないわけではなかったが、小学校の時から徒歩で 学校に通うのに馴れていたため、歩いて10分も掛からない学校にわざわざ車で 行くより歩いていくほうが早い、という発想だった。 それが、急にこれだ。 朝も夕方もこれでは、兄に監視されているような気がする。 車に近づくと、すぐに運転手が気付いてドアを開けた。 「今日は遅かったので、心配しておりました」 「もういいよ、面倒くさい。すぐそこなんだし」 滑らかに発信した車のシートに身を預けて言ってみた。 「そうは参りません、巽様の言いつけですし…」 運転手からはすぐに、静かに、でもはっきりとした声が返された。 もともと響谷家では、巽の意見が絶対で、自分のことも使用人たちは彼の言うがまま だ。退院してからは更にひどい。 いつでも穏やかな笑みを浮かべる様が、彼らにとって信頼に足るべきものなのだろう。 彼は人を動かすのが上手い。 「じゃ、兄貴に言っとくよ」 そう簡単に納得するとは思えなかったが……。 |