〜10、同情〜



検査の結果が正式に伝えられたのは、翌日のことだった。
僕の受け持つ講義は午後から1講のみだったので、都合が良かった。
昨日、あれから薫は殆ど口をきいていない、
たいていその顔には憂いを含んだような翳があったが、昨日からの様子はさらに
物思いに沈んでいるようにも見える。
病院の食事は美味しくないと、入院した当日から余り手をつけていなかったが、昨日
も今日も、全く口にはしない。落ち込むと、食事に手をつけない癖がある。体に良く
ないと、言ってきかせてもダメだった。


「薫、行こうか」
「……うん」
微かな声で小さく頷く。
僕以上に何も知らされていないのだから、不安に思うのも当然だろう。華奢な肩に
手を回し、そっと力を込めると、その震えが伝わった。
「大丈夫だよ、僕がついている」
「ああ………」
それでも緊張がほぐれている様子はなかった。
看護婦から指定された部屋に入ると、すぐに薫の担当医師が来た。
「お待たせいたしましたね」
当初からその医師には偉ぶったところがなく、信頼のおける相手だった。
腰掛けると、落ち着いた声音で発された。
「では、説明をはじめましょう」

淡々とした口調で全てが説明されると、30分近くが経っていた。丁寧に説明された
言葉を、ひとつひとつ自分自身のことばへ変えながら、漏らさぬようにと聞いた。
その上で要約し、整理をつける。
薫の冠動脈には先天的に奇形が認められ、一部に狭まっている部分があり、血流が
悪い。細い血管のまま、体が成長してしまい、負担が掛かるという。
疲労やストレスを避け、激しい運動をしなければ、日常生活には特に問題はない
だろうと、そういうことだった。



「コンクールは……やっぱり棄権?」
病室へ戻ってベッドに腰掛けながら、呟くような声が耳に届いた。
くいいるような視線は、じっと床を見つめたままだった。
「コンクール棄権の申出は事務局に正式に受理されている。……取り消しはきかない
んだ」
「そう」
小さく震えた声、見ているほうが辛くなった。


薫は小学生のとき、コンクールに出場したことはない。
コンクールで優勝を目指そうと思えば、ステージに上がることも、留学も諦めなくては
ならない。明けても暮れても、課題曲ばかり。申込から本選まで10ヶ月近くの準備が
必要だ。それくらいの練習量が必要なのだ。
だから、小学生の時には僕が出場させなかった。
たった一曲に縛られることなく、様々な曲に触れ、感受性を高めるために……。
だがコンクールに出場し、賞を得ることにも意味はある。
国際コンクールに出場するときには、よい経験になるだろう。今後、音楽家として
活動していく上にも、有利になるだろう。
出場しておくなら、中学のうちだ。一度出場すれば、十分だと思っていた。
だが昨年は、優勝候補と、優勝に間違いないとささやかれながら、本選直前に風邪で
寝込み、一週間近くもバイオリンに触れずにいた。
結局、体調も万全でないままで、満足な演奏ができないまま準優勝に終わった。
優勝した子があれで100%の演奏だったというなら、実力では薫の相手ではないと
思っている。ただ、コンクールは勝負事。勝負には実力だけでは勝てない、運が
必要だ。
運がない。そう思った。


僕は突然のことに、動揺していた。薫も同じだろう。
音は敏感に心を反映する。
こんな中途半端な状態では、良い音が出せるはずもない。
だから、棄権させた。それとも、勝てなくても出たかっただろうか。
「……悪かった………」
何も本人に告げずに、結果を出してしまった。
「…出たかったか?」
背を向けたまま、首を小さく振った。
「でも、悔しい……!」
細い肩が小刻みに震えて、泣いているのがわかった。
背後からその肩を包み込んだ。
ぽつんと、手に涙が落ちた。透明で綺麗な涙が、いくつもいくつも零れ落ちていった。
少しでもその心を守りたくて、やわらかい褐色の髪をなで続けて、薫が泣き止むのを
まった。
それは、なかなか訪れはしなかったけれど。

「来年は、勝とう。僕が勝たせてやる…!」
「死んだって構わないよ…、ヴァイオリンのためなら」
慰めだったつもりが、思わず口調が強くなっていた。
なき濡れた瞳でしっかりと僕を見上げた薫から、そんな言葉が漏らされた。死という
一言に、ドキッとした。
まだ中二のこどもの言うことだと、死の意味なんてわからないと、笑い飛ばせたら
良かったのに、その眼差しの強さに、薫の本気を悟った。
「死なせない」
死なせてたまるか。
僕の命に代えても、薫は守ってみせる。
「僕が死なせないよ」
心のそこから言った。
薫は少し笑ったようだった。