![]()
〜9、大人の彼〜
病室は中途半端な広さで、すすり泣く声が反響する。 自分自身の声が耳に入ると、さらに哀しみが増して涙が止まらなくなる。 瞳から溢れ続ける涙が掛け布団を濡らしていく。じわりじわりと広がっていく染みを 見つめながら、泣いていた。 そうやって自分ひとりの世界にこもっていると、突然、大きな音が響いて現実に引き 戻された。 思わず入り口を見やると、肩を兄貴に抱かれた晴留香が立っていた。 兄貴の表情は厳しくて、怒っていることはすぐにわかった。怒られるだろうと思ったが、 それに対して何かを思うより早く、兄に肩を抱かれている晴留香に嫉妬した。 離れろと、怒鳴ってやりたいと思った。 「謝りなさい、薫」 厳しいのに、全てを包み込むような大らかさを兼ね備えた兄貴の声。 ……謝らない、絶対。 言うことなんて聞いてやるもんか。兄貴の言うことなんて、何がなんでも聞かない。 兄貴は鋭い視線を投げかけた。本気で怒っていることはすぐにわかった。 珍しく大きな歩幅でベッドに歩み寄り、腕を掴まれたかと思うと引きずられていた。 ベッドから転がり落ちるように立たされていて、強い力で手首を掴まれていた。 掴まれた腕は、痛いほどで。 …本当は、怒られる側よりも怒る側のほうが辛いことを知っている。触れ合った 場所から、兄貴の気持ちが伝わってくるようで、辛い。何とか逃げようとするけれど、 兄貴の力は強くてもちろんさせない。 彷徨わせた視線の先で、兄のそれとぶつかった。優しすぎる眼差しが痛い……。 「薫、僕の言うことが聞けないか?」 素直でない自分を憐れんでいるかのように。 「聞けないか?」 心に染み入る暖かい声。 「薫」 「ごめんなさい……」 気付いたときには、口をついて出ていた。 兄貴の顔を仰いだら、視線がかすんでいてまた涙が出ていることに気付いた。 悔しかった。 謝ることではなくて、兄の言うことを聞かずにいられない自分が。 晴留香にひどいことを言ったことくらい、わかっている。ちゃんと謝らなければならない ことも。 けれども、それを兄に言われるのが嫌だった。 独りよがりのバカな考えだとわかってはいたのだけれど。 そっと空気が動いて兄の手に頭を引き寄せられ、そっと髪をなでられた。 同時に、晴留香に見えないようにかばってくれていることもわかった。 「晴留香ちゃん、ごめんね。今日はちょっと、具合が悪いんだ。また来てくれるかい?」 きっと憎らしいほど完璧な笑顔を浮かべているに違いない。 ややしてからりと扉のしまる音がした。 「…ふっ………」 抑えていたのに、泣き声がもれてしまった。 いつだって彼の言うことは正しい。 それでも、それを聞くのが愛しているせいに思えて、聞きたくなくなる。 彼の影響を受けたくない。 触れないでよ、あたしに。 なぜ構うの?傍に来ないで。 妹なんて、つまらない。家族愛なんて、そんなものいらない。 あたしを、愛してくれなきゃ意味がない。 妹なんかじゃない、あたし自身を愛してよ。 じゃなきゃ、そんな優しさ、意味がない……。 |