〜8、二人分の涙〜


受付で教えられたとおり、あたしは薫の病室へ向かった。
建て替えられたばかりの病院だったから、中は明るくて綺麗だった。
607号室。
ネームプレートに薫の名前が刻まれていることを確認して、あたしはノックをしようと
手を上げた。

「出てけ!」
そのとき中から大声が響いて、あたしは思わず手を止めた。
その声は間違いなく薫のものだった。
誰かが来てるのかな…。
何となく入りづらくて、ノックをするのも躊躇われた。
出直そうかと思って、あたしが病室の前でなやんでいると、急に扉が開いて中から
出てきた人と目が合った。
しまった…!
立ち聞きして立って思われるんじゃ……。
そう考えて、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
どう見ても、立ち聞きしてるようにしか見えないもん。


中から出てきたのは、20代の男の人。背が高くて、とてもかっこいい人。
誰かはわからないけど、薫によく似ている。
髪や瞳は薫と同じで色素が薄く、茶色かったけれど、その髪は薫みたいに巻いた
癖毛じゃなくて、さらさらしたストレートで額に掛かっていた。
スーツが良く似合うの。大人の人。
あたしがそこにいることに、そんなに驚いた様子も見せずに、静かに戸を閉めると、
整った笑みを浮かべた。
「薫のお友達?」
よく響く声。
ドキドキしながら、あたしは上ずった声で答えた。
「…あの、部活が一緒で…。牧野晴留香と言います」
「そう、いつも薫がお世話になっているね、ありがとう。僕はもう行くから、どうぞ入って。
薫も喜ぶよ……」
綺麗に礼をされて、道を譲られた。
「どうも…」
今思うと、もっとましな返答ができなかったのかと自分を疑いたくなるけど、そのときは
それが精一杯。
あんまりカッコ良すぎて。
「ごゆっくり」
社交的な微笑を浮かべて、さっていく彼を見送って、思い出した。
たしか、年の離れたお兄さんがいたはず。
あまり家のことを話さない子だから、あたしの記憶も曖昧だけれど、確か10歳近くも
離れたお兄さんがいるって聞いたことがある。
普通に歩く姿さえさまになっていて、あたしは舞い上がった気分で、勢いよく戸を
引いた。
……何ということか、ノックをしないままに………。


部屋は、思ったより広い個室だった。
あとで聞いたら、特別室なんだって。

そこであたしは、見てはいけないものを見てしまった。


ベッドでクッションに寄りかかるようにして座っていた薫が振返った。
……あたしは、薫のあんな顔は初めて見た。
瞳にはいっぱいに涙が溜まっていて、今まで泣いていたことがわかった。
けれど、あたしが部屋に入った瞬間にパッと輝いた。華やかな薫の顔に光が満ちた
ようで、流れる涙が星のように美しかった。
なのに…、あたしの姿を認めると、一瞬にして笑顔は消えてしまった。


暗く打ち沈んだその表情には、いつもに増してけだるげな様子だった。
「何?」
低い声で薫が言った。
尋ねてくれた訳じゃない。いつもの薫のように気を使ってくれたわけでは…。
人を近寄らせない雰囲気だった、ぴりぴりしていて。
あたしは動けずに、扉の傍に立ったまま小さな声で答えた。
「…お見舞い」
「いらない、帰って」
せっかく上げた顔なのに、また伏せてしまって低い声で言った。
「早く」
そっけない声で催促されて、あたしは戸惑った。
ひどい拒絶だった。
どうしていいかわからない。
お花を抱えたまま……。薫の傍に行って声を掛けることも、一人にしてあげる為に
出て行くことも、できずにいた。
「……聞こえない?」
薫はお祭り好きで明るいのりだから、いつも人に囲まれていた。
それでも特に親しい友達っていなくて、あたしの知る限りではたった一人。今年の
春の転校生だけが、辛うじて友人の域に入ってるくらい。たまに薫は一人で、
見ているほうが哀しくなるような孤独な瞳で物憂げに前を見つめていて、そんなときは
声さえ掛けづらい雰囲気だった。
でも、そういう時は薫がちゃんと気付いて、明るく振舞うようにしていた。こんな風に、
ひとにあたることなんてなかった。
それなのに今日は今まで聞いた事もないほどに、厳しい声だった。
「帰れって言ってるんだ」
「だって……」
放っておけなかった。
友達のつもりだった。先輩のつもりだった。
だから……。
薫はあたしの態度に痺れをきらしたのか、無言でベッドから出たかと思うと、つかつか
と歩き、突然両腕を掴まれて、病室の傍に引きずり出された。
「何すんのよっ!」
乱暴な行動に腹を立てて、そこが病院であることも忘れて大声で叫んだ。
いくらなんでもひどすぎる。
「晴留香、ここは病院だぜ。静かにしていられないのなら、さっさと帰りな。あたしは
晴留香と話をする気もないことだしね」
あたしは思わず手を出していた。
薫を殴っていた、力一杯。
派手な音が響いて、はっとして薫を見上げた。透明感のある白い肌が、ほんのり赤く
なってたけど、薫はそのことには怒りをみせず、相変わらず冷たい声音で言うだ
だった。
「帰りな、晴留香」
言い捨てて、さっさと自分は病室に戻ろうとする。
後を追ったあたしの前で、ぴしゃりと音を立てて、扉は閉じられた。
それが、そのまま薫自身の心の扉のように感じられた。


しばらくそうして立ち尽くしていたけれど、一向に扉が開く気配はなく、仕方なく病室を
後にした。
「晴留香ちゃん」
とぼとぼと歩いていたあたしは低い声に呼び止められた。
薫のお兄さんだった。
「何か…薫がひどいことを言ったみたいだね。ごめんね?」
大きな手で右肩に手を置いて、覗き込むようにして言われた。
優しくて暖かい手だった。
あたしはとても惨めで、持っていた花を握り締めた。
「綺麗なお花だね、僕から薫に渡しておくよ」
その物言いはとても穏やかで、でも憐れまれているようで、涙が出た。
花にどれほどの意味があるだろう。花が薫の慰めになるんだったら、何もしてあげら
れないあたしは、本当に意味のない人間だ。
泣いてしまったあたしに、お兄さんはハンカチを貸してくれた。
そのまま肩を抱いて、ノックもせずに薫の部屋の扉を勢いよく引いた。
驚いて振り向いた薫もやっぱり涙に濡れていた。
「……何?」
さっきよりもさらに冷たい、それでいて微かに震えた声だった。
するりとあたしからお兄さんの手が離れたかと思うと、お兄さんはつかつかと薫の
ベッドに歩み寄り、薫をベッドから引きずり出した。
唖然とするあたしの前で、殆ど転げ落ちるように床に下りた薫はお兄さんをにらんだ。
迫力のある三白眼で。


心底びっくりした、そうね、涙が止まるくらい。