〜7、孤独〜


心臓が高鳴る。握りしめられた両手が熱い。きっと顔も赤くなっているに違いない。
そんなあたしの気持ちも、兄貴はしらないだろう。
まるでコドモ扱いだ。
この体勢になればあたしが大人しくなると思ってる、昔と同じように。
あたしが静かになるのは、兄貴が怖いからじゃない。その叱責を恐れているわけじゃ
ない。
触れられた両手が熱くて、その瞳を見つめてると哀しくなって、言葉を失くしてしまうだけ。


「よく聞いて、薫」
落ち着いた低い声が響く。素敵な、声。
切れ長の澄んだ瞳にあたしが映る。色素の薄い茶色の瞳。虹彩まで透けて見える。
その透明感のある瞳は、時として冷たく感じることもあるはずなのに、あたしが知る
ことが出来るのは、いつもいつも優しい色をしている。
「おまえの心臓には、疾患があるんだ…」
思ってもない一言に、兄を見返していた。
「冠動脈の一部分に狭まっている部分がある。先天性の奇形だよ。…今までは、特に
症状は現れてなかったけれど、心臓が体の成長に追いつかなくなったんだよ。
その心臓じゃ、無理を支えきれないんだ。………だから、コンクールなんて体に負担が掛かること、できないんだ……」
兄の端整な美貌を、長い睫毛を、眺めていた。その翳が瞳に落ちるのを、そっと
瞬くのを見ていた。
「だって……今までは何ともなかったのに…」
つまらない一言。そんなことしか言えなかった。どんな顔をしていたのか。
思い出すことも出来ない。


それでも。
本当は、ずっと気になっていた。
あの時感じた胸の重みはなんだったのか。
何のために入院させられているのか。
様々な検査はなんのためなのか。

もっと以前から。
疲れやすくなっていることに気が付いていた。
いつまでも動悸が収まらない、少しのことで息切れもして。
そんなことばかりが頭に浮かんで、不安になっていた。

「出てけ……」
「…薫?」
あたしの手を握る兄の手が震えてるように感じた。震えているのは、あたしの方かも
しれなかったけれど。
静かで、まるで海のような彼の瞳がきらめいて。かみしめられた口唇が、白かった…
……。
あたしはそれ以上兄を見てるのが辛くて、目をそらせていた。

何故だか、知っていた。彼が悔しいと思っていると、あたし以上に彼が悔しく思って
いることを直感で知っていた。
なのに、どうしていいかわからずに逃げた。
「出てけ」
語調がきつくなるのを、抑えられない。
「薫……」
少し、兄の肩が動いた。迷いを示すかのように。
「出て行って!…早くっ!!」
少しでも長い間握っていてほしかった兄の手を、精一杯の力を込めて、あたしから
振り切った。
置き去りにされた、白くて長い彼の手。
あたしは急に寒くなって、手は何かを求めていた。
兄貴の顔をそれ以上見なかった。見たらきっと、泣いてしまうに違いなかった。
弱すぎた、その時のあたしは。

行かないでと心の中で願っていた。
どんなひどいことを言われても、言っても。兄貴には傍にいてほしかった。
兄貴のことが好きだったから、とても。
拠りどころは、兄しかいなかったから。

そして、病室に残されるのは何より怖かった。真白の病室は不安を誘う。


椅子のきしむ音が、微かに聞こえた。
行かないで、そう叫べたらどんなに楽だっただろう。
ややして扉の閉まる音と、振動とが、伝わった………。
瞬間、涙が溢れていた。
寂しくて、不安で、混沌の中であたしは膝を抱えて……泣いた。


行かないでよ、ここにいてよ。


嘘ばかり、虚勢を張って。
出ていけだなんて。
傍にいてほしいのに…身勝手だ、本当にあたしは………。