〜6、強硬姿勢〜



「どういうこと?」
想像していた通り、薫の第一声は冷ややかに響いた。


気弱な態度やあいまいな言葉は、彼女のために良くないと思い、努めて冷静を装った。
「言った通りだ。昨日、棄権の申し出をして受理された」
僕の冷静な声に応じるように、薫もまた冷ややかな無表情で虚空を見つめていた。
それが何より彼女の怒りの前兆であることを、僕は良く知っていた。
端整な美貌。いつもの人を小ばかにしたような、そんな色味のない冷めた低い声が
色素の薄い唇から発された。
「誰が?………誰が棄権すると、いつ、言った?」
一つ一つの言葉にアクセントを付ける。軽さがないだけに凄みが増す。
「僕が先日から考えて、そう結論した。何か問題でも?」
僕は笑みにならない程度に、唇をゆがめた。
「ふざけるなっ!本人の了解も得ずに棄権だって!?そんな話、聞いたこともない。
あたしは、コンクールに出る」
彼女の言葉が心に刺さり、息が苦しくなる。
薫を苦しませたいわけではない、悲しませたいわけでは…。それでも、そうしなければ
ならないのだから。それくらいの怒りは、想像していたはずだ。
承知の上でも結論だ、間違ってなどいない。
そう自分に言い聞かせて、僕は軽く息をついた。わざとゆったりとした動作で僕は
腕を組み、クッションに体を預ける薫を見下ろした。

「聞こえなかったのか、薫。お前の耳もわるくなったものだ、残念だよ。もう一度だけ
言う。僕は、コンクール棄権の申し出が受理されたと言ったんだ。わからないのか?
もうお前にコンクールに出場する権利はない」

薫が振返ったと思った瞬間には、薫は僕めがけてマグカップを投げつけた。
とっさに避けた僕の左手を掠めて、カップは壁にぶち当たり派手な音を立てた。
カップは、そのまま僕の顔があったところを通っている。こういう時の薫は容赦がない、昔から。
薫が愛用していたブルガリのシンプルなカップは、中に入っていたミネラルウォーター
と共に無残な姿で床に散乱する。
「どけよ」
当の薫は全く意に介しない様子で、ベッドの傍らにたつ僕を押しのけるようにして
立ち上がる。
そのまま病室の片隅から洋服を取り出し、ベッドに投げた。

「どうする気だ」
「本人から出ない申し出なんて、無効にしてやる」

とっさに、薫の腕を掴んでいた。
力を込めて無理矢理体の向きを変えさせ、正面からその瞳をのぞきこんだ。
「薫、このことは山田教授も承知なさっている。聞くんだ、薫。コンクールは今年だけ
じゃない。だから、今回は諦めるんだ!」
思わず激しい口調になってしまった僕に、それでも薫は頑なだった。
「嫌だ」
青みを帯びた瞳は、年上の僕でも凄みを感じるほどだ。
「何も言わないくせに。そうやって兄貴は何一つ、理由を言おうとしないじゃないか!
それで納得しろだなんて、無理に決まってるだろう!教授の言うことなんか関係
ないっ!それをわかってるから、そうやって逃げるんじゃないのか?言えよ、理由を。
納得させてみろよ!!」

怒りのために、大きく肩で気をしながら、大声で叫ぶ。
その顔が、青ざめていることに僕は気づいた。
これ以上、薫を興奮させておくのは体のために良くないことだと思った。
「わかった、話そう…」
薫の体から力が抜けるのを確認して、ぼくはその腕を離し、ベッドへ戻るように促した。
手近にあった椅子を引き寄せて腰掛けると、僕は彼女の手を握って正面に座った。
こどもの頃、よくそうして薫を叱ったことがあった。
彼女の瞳を見つめて。

薫の手は少し冷たく、そして、少し震えていた………。