序章







随分と伸びてしまったかもしれない。
頬にかかる髪を無造作に払いのけて、薫は思った。
考えてみれば、最後に髪をカットしてから4ケ月以上経っている。
伸びているはずだ。
多くレイヤーを入れたショートカットは、こまめにカットをしないとだらしのない印象になる。普段は2ヶ月と待たずに
カットしていたのだ。
もともと長めに残して流していたサイドの髪は、何もせずにおいたら肩に付くほどに伸びている。バックも、襟に掛かっていた
サイドテーブルに置かれたカレンダーに目をやる。確認するまでも無く、明日はシャルル自身による診察の日。
………頼んでみようか。
充分に迷惑をかけている身でわがままを言うのは気が引けるが、これくらいは許されるだろう。そう思い、薫は
読みかけの本を閉じ、ベッドにもぐりこんだ。


「薫様、シャルル様がお越しになりました」
翌朝、本を読んでいたところにノックの音が響き、メイドの声と共にシャルルが姿を現した。
思っていたより早い時間に薫は時計を見た。時計の針は、間違いなく朝の10時を指している。
彼が10時過ぎにしか目を覚まさないことを、薫は知っていた。そして午前中はあまり機嫌がよくないことも。だから
午前中は館の中がぴりぴりとしている。
3ヶ月をこの館で過ごしている薫にはそういった事情もよくわかっていた。
頼みごとをするには、向かない。
また今度にするか。なるべくなら刺激を与えたくない。
機会ならまたある。それにメイドを通して頼んだって構わない。ただ、主であるシャルルに頼むのが礼儀だと思った
だけだから。アルディ家の事情や使用人の考えはわかっても、彼の心の内だけは理解のし難いものだったから。
なにを言えば機嫌が悪くなるのか、それともどうやっておだてれば機嫌がよくなるのか、全くわかったものではない。
そして白衣を纏うと、冷ややかな美貌が際立ち、更に近づきがたく感じるのだ。
まるで人形のように表情が読み取れない。


シャルルは、薫が考え事をしていることを、部屋に入った時に気がついていた。
シャルルの顔を見た時、一瞬戸惑いの表情を見せたのだ。
昨日の夜から、仕事の都合で眠っていない。ために、朝にも関らずひどく感覚が冴えていた。
注意深く薫の表情を観察しながら、枕もとの椅子へと腰を下ろす。
「おはよう。気分は?」
「いいよ」
ぶっきらぼうに薫は応える。いつも通りの答に、シャルルは薫を見たままふっと笑った。どんなときでも、
悪いと言った例がない。カルテに視線を落とすとその薄い唇を僅かに動かした。
「この間の血液検査の結果、貧血が治っていない。体重も増えてない。痩せ過ぎだ。ちゃんと、食べているのか?」 
普段は創りもののように表情のない冷めた青灰の瞳が、真剣な光を宿して薫を見つめる。そんな瞳で見つめられると、
どう返していいかわからず視線をそらせてそっけなく答えた。
「食べてるよ」
「ならいい」
シャルルも深くは問わず、診察を続けた。それ以外に会話はない。
「いいよ。」
顔も見ずにそれだけ言うとシャルルは手元のカルテに視線を落とし、結果を書きこんでいく。
「他には?何か足りないものや不都合な事はない?」
「ないよ」
遅かった。聞かれた瞬間にシャルルと目が合った。何か言いたいことがあるとわかってしまったに違いない。
案の定、シャルルは薫を見つめたまま冷ややかに尋ねた。
「言えよ、なんだい」
「髪を、切ってほしいんだけど…」
伺うように切り出した薫に、シャルルは微笑んだ。それは、光を放つかと思うほど美しい笑みで、薫は思わず見とれて
しまった。
ただその後に続いた言葉は、その美しさとは対照的で、意地悪なものだった。
「確かに、見苦しいな」
薫が、三白眼をむっと光らせてシャルルを睨んだが、バラ型の唇が言葉を吐き出す瞬間にシャルルが口を開いた。
「私が、切ってやろう。今日は手が空いていてね。」
唖然とする薫をシャルルはある陰謀をもって、見つめた。
彼の中ではそれは陰謀などと言われるものではなかったのだが、薫の中ではそれは謀りいがいの何物でもなかった。


 





TOP   NEXT