変化




シャキシャキと軽快な音を立てて鋏が入れられ、切られた髪がはらはらと落ちていく。
手馴れた仕草に薫は安心した。
髪を切るのは薫は好きだった。新しい自分に生まれ変わるようで、何か新鮮な気分になる。切り落とされた髪の分だけ、
心の中の悩みも同時に剥がれ落ちていく思いになるのだ。ほとんど伸びてさえいないときでも、落ち込んだときには髪を切った。

ウェーブを描いた細い髪が、指に絡まる。
しっとりと濡れた薄茶の髪を手に取りながら、シャルルは初めて薫に会ったときのことを思い出していた。
10年前のことだ。
独特の物憂い雰囲気を醸し出す三白眼は今と変わらず、バラの花びらのように可憐な唇がかわいらしい美少女だった。そして、
肩の下まで伸ばされた褐色の巻き髪が、華やかに幼い美貌を彩っていて7歳のこどもとは思えない気品があった。その華やかさが、
彼女の気位の高さを助長していたことは言うまでもないのだが。
人目をひく美少女だった。


「さてと、」
ワゴンに鋏と櫛とを置くと、薫からケープと膝にかけていたストールを取り去った。
「シャンプーして、終わりだ」
薫の手を取って、立ち上がるのを手伝ってやりながら視線でシャンプー台へ移るように指した。
「鏡を置かないのは、あんたの趣味かい?」
シャンプー台へと歩み寄りながら薫は尋ねた。
髪を切ってる間中庭を見せられ、どれだけ切られたか、全くわからないでいた。
「さぁ、どうだろうね。ただ鏡を見てるより、庭を見ていたほうが退屈しのぎになると思ってね」
軽く質問をかわして、それ以上薫に口を利かせないために、顔にタオルを被せてシャワーの栓をひねる。
「熱くない?」
美容師を気取って、シャルルが尋ねる。薫が頷くのを確認して、するりとその髪の間に指を滑らした。
シャルルの細い指が気持ち良くて、薫はそっと目を閉ざした。
しゅわしゅわという泡の音とシャルルの指を楽しんだ。


「寝ている場合じゃないよ」
声と共に、顔を覆っていたタオルが取り去られると、ひんやりした空気が頬をなでる。
真新しいタオルで薫の頭を包むと、椅子を起こす。
途中からすっかり黙り込んでしまった薫への嫌味だった。
「寝てないよ」
ふっと笑いを滲ませるだけで何も言わずに、シャルルは薫を鏡の前に座らせて、軽く水分をふき取ってからタオルを取り、
そのままドライヤーの風を当てた。
ドライヤーの風に舞う髪を見て、薫は違和感を感じた。
鏡の中のシャルルに抗議の視線を向ける。シャルルはすぐに気が付いた。
「どんな風に、とは聞かなかったぜ」
手を止めることもなく、さらりと言ってみせた。最初からそういわれることを予測していたと言わんばかりのタイミングだった。
返された言葉に、薫はもう一度鏡ごしにシャルルを睨んだが、シャルルは無視した。
水分がぬけるにつれて、髪がドライヤーの風に舞う。
鏡に映っているのは、普段よりも少し表情が明るいシャルルと、その手に操られている自分の髪。そして、ひどく怯えた表情の
自分がいた。
それを見るのが辛くて、視線を手元へ移した。
シャルルは何も言わなかった。ただ、同じように薫の髪にドライヤーを当てるだけだった。
「鏡を見ろよ」
最後の仕上げにヘアワックスを手に取ったシャルルは、うつむいたっきりの薫に声をかけた。薫はそろりと顔を上げ、鏡を見た。
伸びかけのショートレイヤーは、シャルルのカットと元来の巻き髪によって、動きのあるボブに整えられていた。
長さをそろえるために、伸びているすその部分のみカットし、もともと短かった部分には手がつけられていない。
いつも後ろへ流していたサイドの髪は、やわらかな曲線を描いて頬にかかっていた。
昔のように。
そこには全く新しい自分がいた。顔を取り囲む巻き髪のせいで今までと雰囲気が変わり、随分と“女性らしさ”が強調されていた。



「どうぞ、お嬢様」
薫に右手を差し出し、見るものすべてを陶然とさせる微笑を浮かべる。
そんなシャルルを見ようともせず、薫は鏡の中の自分を見つめたまま低い声で言った。
「いまからでも遅くないだろう?」
「嫌だと、言ったら?」
言葉の足りない問いかけも、真意はそのまま伝わった。その回答は期待したものではなかったが。
シャルルのことばを最後まで聞こうとせず、薫は席を立った。追いかけようとはせず、シャルルは冷静な声で呼びかけた。
「私と初めて会ったときのことを憶えているかい?」
シャルルの意図がわからず、薫は仕方なしに振りかえって言った。
「憶えているよ。それがどうした」
その当時からシャルルはとても美しかったから。薫が隣に並ぶのを恥ずかしく思うほどに。光を絶え間なく反射する白金髪、
大きな青灰色の瞳とうっすらと赤みのさした白い肌。
少女だあった薫は最初、天使ではないかと思った。
「君はなかなかの美少女だった。憶えているか?君は、紺のベロアのワンピースを着ていた。髪は肩の下まで伸ばしていて、
後ろで結ばれていた白いリボンがよく似合っていた」

言って、懐かしむように微笑んだ。

「次に会ったのは、真冬の軽井沢だった。正直、驚いたね。瀕死の状態でベッドに横たわっていたからじゃないぜ。雰囲気が
まるで違ってたんだ。子供の時の君は、思った事を何でも口に出した。子供だったせいもあるけど、かなりのわがまま振りだった」
「今更、昔の恨みをここへ持ち出すつもりかい?何が言いたいんだ?」
「そんな風に、思いつめるタイプではなかった。少なくとも、子供のころは。薫、髪を切ったのはいつ?」
真正面から、薫を見据える。薫は不快気に眉を寄せる。
「自分の髪型をどう変えようと私の勝手だ。お前さんには関係ない。…なぜそんな事を聞く?」
「質問しているのはこっちだぜ。答えろよ」
薫は鼻で笑う。
「必要ないね」
「では、答えやすくしてやろうか。なぜ、髪を切った?……巽に気付かせないためか、巽を忘れるためか。あるいは自分自身を?」
小さく首を振って薫は瞳を閉ざす。知らず、瞳には涙が溜まる。思い出したくもない事ばかり。つらくて苦しい過去。中学生だった
自分にできるのはそれくらいだった。
断ち切りたいと願うのに、想いは増すばかりで。
「自分を追い込むな」
シャルルの透明な声が響く。重い心を流し去る天使のような声。
「自分の気持ちを押さえつける必要はない。巽は君のことを愛しているし、君の気持ちも知っている」
知っているからどうだと言うのだろう。
溢れ出る涙。そんな言葉は聞きたくない。
それならば、今までの苦労は?何の為に、苦しんできた?彼の気持ちは?
「自分の心を縛りつけるな。自由になれよ」
それ以上、彼を見る事ができなかった。反論の言葉さえ、見つからない。瞬間的に薫は、走り出していた。シャルルの瞳を見る事ができなかった。あまりに透明だったから。美しかったから。
そして天使のような美しいものが告げる内容は、残酷に響く。
だが彼女の今の体で走るのは無茶なことだった。
「おいっ」
数メートル離れた所で壁にもたれるように座り込む薫に、シャルルはあせって、駆け寄る。まさか、走り出すなんて。
精神力は時として、予想外の事態をも起こす。気力で治らない病気が治る事もあれば、自らの体を死に追いやる事もある。
薫の精神は明かに肉体に負の力を及ぼしていた。
強すぎる精神は、刃となって自らの体を傷つける。どれほどに体に負担をかけ、心臓を弱らせているか、本人は知らない。
「無茶をするな。大丈夫か?」
楽な態勢を取らせて、左腕の脈を取る。大きな息に上下する肩。
脈が正常に近づいたところで、シャルルはもう一度問いかける。
「大丈夫か?」
小さく薫が頷くのを確認してシャルルはほっと息を吐いた。まだまだ体調は整っていない。無理されては、治るものも治らなくなる。
ステントで広げてある狭窄部分に、再狭窄が起こればもう彼女の心臓は持たない。
シャルルにはそれがわかっていた。
「……離せ…」
「駄目だ」
シャルルは薫を両腕に抱き上げた。薫は抵抗しようとしたが、全身に倦怠感が漂い、シャルルの力には到底かなう事は
なかった。部屋へ戻ると、薫をベッドに休ませて部屋付きのメイドにお茶を頼む。彼女はカトリーヌと言って、看護婦の経歴を
持つ事から薫付きのメイドに任命された。
「少し眠るといい。体を休ませろ。昼食はその後に運ばせる」
「食べたくない」
「駄目だ、食べやすいものを用意させるから、少しでも食べるんだ。いいね」
大きなクッションに体をあずけていた薫は、うるさげに顔をしかめると、ベッドにもぐりこみ、シャルルに背を向けた。
「髪型を元に戻して……」
「わかった、ただ今日は駄目だ。体を疲れさせる。……でも、今の方が素敵だ」
シャルルはちょっと笑って言った。薫は何も答えはしなかった。
彼の方が余程、優美でたおやかだ。皮肉にしか取れない。受ける側の気持ちの問題だと知りながらも、薫はそう思った。

 




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