行く末
パチパチとかなりの速さでキィが音を立て続けている。 モザンビークへ送ったジルの変わりに、今は巽がシャルルの補佐をしていた。 何もせずに、世話になるわけにはいかないと彼が主張したためである。 構わないからと何度言っても、聞くような人間ではなかった。 ただ、余り人前に出る仕事ではいけないし、かと言って、使用人のような仕事をさすわけにもいかない。 そこで秘書代わりに動いてもらうことにしたのだ。 もともと巽は器用な性質でどんなことでもできるし、フランス語はもちろんドイツ語、英語もネイティブと変わらないくらいに彼は マスターしていた為、シャルルには有難い存在だった。有能で、信頼の置ける人物を探すのは困難なことだとシャルルは 知っていたからだ。 「失敗でもしたかな?」 部屋に入るなり、何も話さずにシャルルがずっと自分を見ているので、巽はシャルルに尋ねた。 視線を液晶のモニターに落としたまま、その手を止めることもなく。 「いえ、完璧ですよ。助かっている」 巽の静かな質問に、シャルルもまた、さらりと否定して見せた。 そして、しゃんと伸びたままの巽の背中に向けてまた静かな声を発した。 「今日、薫を診てきました」 その言葉に、巽は手を止めてコンピューターから背後に立つシャルルへと視線を動かした。ゆったりと向き直る。 「何か、問題でも?」 巽の穏やかな瞳の中に、心配そうな光が瞬く。 自らの身の処し方を決めている巽にとって、最も気懸かりなのは薫のことであった。 この世で一番愛した女性。手元で慈しみ育ててきた妹。一人残すには余りにも頼りなく思う。硝子細工のように繊細な、心と身体。 「順調ですよ、それなりにね。……心配するな、私は薫を殺しはしない」 一気に厳しくなった巽の視線に、シャルルは冗談めかして言った。 シャルルの白皙の頬にうっすらと笑みが浮かぶ。 「頼りにしている」 口調は冗談めかしていても、その瞳、その顔には感情がない。まるで蝋人形のように無表情だ。しかし、何よりも頼れる存在。 薫を救えるのは、彼しかいない。ここで目覚めてから、ずっとそう思っていた。 薫をまかせられるのはシャルル・ドゥ・アルディだけだと。 「薫の事で話したいことがあります」 整った眉を寄せて、シャルルを見つめたまま、巽は席を立った。 人払いが簡単にできるという理由で、シャルルが選んだのは、自室だった。 カードでキィを解除し、大きく扉を開いた。 「どうぞ」 「君のプライベートな部屋に入るのは初めてだね」 部屋を見渡して巽が言う。アルディ家の中で、巽が知るどの部屋より簡素に整えられていた。最も、所々に置かれた調度品は 全て高級品ばかりなのだが。 「掛けてください」 「話というのは?」 勧められたソファに腰を掛けようともせず、巽は切り出した。 シャルルは堅い表情のままの巽を見つめ、ややして優雅な素振りで自分はソファに腰を下ろした。 「……あなたは、薫を愛しているのでしょう?」 慎重にシャルルを、巽は無表情に見下ろした。 けれど、シャルルは見逃しはしない。巽の頬が一瞬引きつったのを。今でも触れられたくないらしい。 「だとしたら?」 「伝えてやるべきだ、その口で、はっきりと。彼女だってあなたの気持ちを充分に知っている。なぜ、伝えてやらないのですか」 「今さら、君の口からそんな言葉が出るとは思わなかったよ。君は、とうの昔に知っているだろう?僕はこの世で生きるつもりはない。 罪を償い、この身を風に還し、薫との血の繋がりを断つ」 言葉からは強い意志が感じ取れる。 繊細な眉をひそめて、シャルルはそっとかぶりを振った。 「もちろん知っているさ、だが、私だけではない。薫だってあなたの決心に気が付いている。だが彼女の心は、それを 受容れられないでいる。そしてその心を、身体が支えきれていないんだ。わかるでしょう?あなたは、薫を死なせたいのか?」 深く澄んだ青灰の瞳が潤んで見えた。 巽が願うのは、薫の幸せ。彼女が幸せに生きることをなにより望んでいる。 「同じような事を、昔、あの子に話したことがある」 シャルルに聞かせるでもなく、ひとりごちた。昔、薫の友人に話したことを、もう一度。そう、薫のことを思って拘置所まで やってきた池田麻里奈に。 人が変わり、その表現方法が違えども、結論は変わらない。どうしても、自分の気持ちを直接的に表現することはできない。 二人で愛を確かめ合ってはならないのだ。二人は確かに血の繋がった兄妹なのだから。 どんなに逃れたくても、忘れたくても、その真実に変わりはないのだら。 「薫には幸せになってほしい。幸せに、生きてほしい。昔から…今も………ずっとそう願っている」 「だったら、あなたがしてやるべきだ」 断定的な言いようでシャルルが口を閉ざしても、巽は顔を上げなかった。視線をそらし、空の一点を、見つめたまま。 「考えさせてくれ、今は、無理だ」 穏やかで、だがしかし、その心が変わっていないだろうと推測される一言を、彼は口にした。 −たった一回の人生だもの。たまには、はめをはずしてもいいと思うわ 巽の頭の中で、キンといつかの言葉が響いた。 |