満ちたる月
| 幾度目かの寝返りをうって、薫は溜息をついた。 昼間のシャルルとの会話が繰り返し繰り返し思い出されて、眠れない。 時計の針は、すでに2時を指していた。 眠くなるどころか、考え続ける頭はどんどん冴えて、眠りのふちから離れていく。 ……本でも読むか。そうすれば、少しは眠くなるかもしれない。そう思い、ベッドサイドのスタンドに明かりを灯そうとして手を 止めた。カーテンの隙間から月の明かりが漏れていた。ショールを羽織ってベッドから出てカーテンを開けると、明るい満月が 見えた。 美しい月を眺めていたが、しばらくして窓に映った自分自身が目に入った。 柔らかく頬に髪をまつわらせた自分は、どこからみても女性だった。髪型一つで、これほどに変わってしまうとは…。 窓に映る自分自身の姿を見るのが嫌で、薫はそのままバルコニーへ出た。 4月に入ったとは言え、パリはまだまだ寒かった。 それでも薫は満天の星空を仰いだ。手を伸ばせば届きそうなほど、間近に無数の星。そして、そんな星々さえも 打ち消してしまうほど明るい月が夜空を飾る。 寝静まった街を、館を、楽しむように月は照らしている。 バルコニーに据えてある椅子に腰掛けて、満ちた月を眺めながら薫は昔の自分を思いだしていた。 小さな頃、薫は周囲の人々から二人といない美少女だと誉められてきた。兄の巽も、兄弟のように仲の良かった従兄妹の 祐樹も、薫をかわいがってくれた。 殆ど家にはいない両親の変わりに、二人は薫を慈しんでくれた。 “君はなかなかの美少女だった” シャルルの言葉を思い出す。彼と会った時、髪に飾っていた白のリボンは7歳の誕生日のプレゼントに、兄の巽から贈られた 物だった。薫は嬉しくて毎日そのリボンを着けた。 もちろん、リサイタルにも結んで出るつもりだった。巽が傍でいてくれるように思えたのだ。 しかし、舞台にはそぐわないと、ドレスと同色の飾りを着けられて、薫は泣いて駄々をこねた。余りに泣くので、その時は 母の付き人の女性が、生花をあしらって舞台で見栄えがするようにしてくれた。 成長しても、薫のかわいらしさは変わることはなかった。むしろ、より洗練され美しくなった。身長こそ男性並だったものの、 憂いを帯びた大きな瞳、通った鼻筋、秀でた額、さらにはバラの花びらを思わせる唇。いつも女性らしい華やかさを身にまとい 綺麗だった。 だが、今更どうしろというのだろう。 薫だって、良家の子女として生を受けた。両親が留守がちでも、子供の躾は怠ることなくなされていた。立ち居振舞い、 日本文化に則って教え込まれた。両親は海外で仕事をこなしていたし、家にも海外からの客が少なくなかったので西洋文化は、 教えられるまでもなく身に付いていた。 意識せずとも、TPOに合わせて振舞うすべを身につけていた。 それをすべて捨て去ったのだ。 最初は、難しかった。 どんなにがんばっても身に付いた女性としての仕草が表に出てしまう。 苦労して、それを捨て去った。人目には、一晩で。自分自身では、もっと長い期間を掛けて。 今ではそれが、しっかりと身に付いていた。髪型一つ変えたところで、昔の自分には戻れない。 ……それでも……………。 明るすぎる月は、偽りの心を剥し去り、巽のそばにいたいと願う自分自身が見えてくる。 愛したい、愛されたい。いつまでも、望むがままに。 忘れなければならないのか、それとも、もう。 ……解放してもいいのか?この愛を? 告げても、許されるのだろうか?この思いを……。 答など、出ようはずもなかった。 |