告げられる愛
カトリーヌが異変に気が付いたのは、朝になってからだった。 いつもは、彼女が起こしに行く7:30には身支度を終えているのに、今朝はまだ、ベッドで眠ったままだった。 カトリーヌが入ってきた気配に起きる様子もなく、眠りの浅い薫にしては珍しい。 注意深く、様子を見ながら落ち着いた声で呼びかける。 「薫様?」 薫からの返答はない。 躊躇いながらも、カトリーヌは手を伸ばして、顔を隠している柔らかい褐色の髪を払いのけた。 一瞬にして、カトリーヌの表情が厳しいものになる。 「40.2?」 カトリーヌは目を疑った。呼び出した医者が来るまでにやっておくべき事は、体温と血圧に脈拍を測ること。 薫を目覚めさせないために、そっと耳へ当てた体温計のデジタル表示を見て、カトリーヌは声を出してしまった。 もちろん、そんな高熱に侵された彼女がそれくらいで目を覚ますはずもなく、荒い呼吸の音だけが部屋に響いていた。 普段なら、まだベッドで眠っているはずの時間だと言うのに、薄いブルーの医師服に身を包み、殺気立った様子で足早に 通りすぎる彼にアルディ家の使用人は挨拶をする勇気もなく、廊下をあけた。 細い髪が乱れて頬に纏わるのも気にとめることもない。 ウィン、と軽い音を立てて自動扉が開き、無機質な空間が彼を迎え入れる。 全身に消毒を浴び、雑菌の入らないようにして、さらに奥の空間へとシャルルは足を向けた。 シャルルは、若い医師よりカルテを受け取るとざっと目を通し投げるようにして置いた。プリンターからは、心電図の波形を 写し取った連続用紙が吐き出され、床にたまる。 心電図には特に異常な波形は認められない。脈もいささか早くはあったが、乱れはなかった。 昨日の時点では、異常は認められなかった。 後は、検査中の血液だ。これほどの高熱となると何らかの感染症の疑いがある。 もちろん、そうでなくてもこれだけの高熱となればそれだけで体力を消耗する。 すぐに危険な状態になる事だって考えられるのだ。 そっと頬に触れると、通常よりも熱い体温と、肌理の荒れた感触が伝わる。 綺麗な眉を少し寄せて苦しげな表情のまま目覚める気配もない。 担当の医師に簡単な指示を残して、シャルルは治療室を後にした。 「薫が?」 「ええ、今は面会謝絶にして治療室のほうへ」 まだ私室にいた巽に、シャルルは簡単に報告をした。 ソファへ腰を下ろして、巽はシャルルを見上げた。 「状態は……悪いのか?」 冷静に見えるが、少し揺らいでいる瞳にその動揺が見て取れた。 シャルルは癖のないプラチナの髪をゆすって、穏やかな笑みを浮かべて巽の懸念をとりのぞく。 「いえ、風邪ですから心配はないでしょう。ただ、熱が随分高いので。高熱は体力を消耗させるものですから…面会を禁止に。 もう少し熱が下がれば、許可できます」 小さく頷いて、巽はため息をつきながらどっさりとソファにもたれ掛かった。 「わかった。ありがとう。そろそろいい時間だ……仕事の準備をする」 「仕事をするのですか?」 感情の乗らない澄んだ声で、シャルルは確認した。 音を立てずに巽は立ち上がり、まっすぐにシャルルを見詰めた。 「当然だ」 巽が薫に面会を許されたのは夕方近くになってからだった。 とりあえず、危険な菌には感染していなかったからだ。とはいっても、肺炎になる一歩手前だった。どちらにしろ危険な状態で あったことに変わりは無い。 このときばかりは、巽もシャルルの言葉に甘えて、仕事を早々に切り上げて治療室に向かった。 そっと部屋に入り、音を立てないようにベッドへと歩み寄って椅子に腰掛けた。 薫は目覚めもせず、辛そうに眉を寄せている。 熱のせいか、普段よりも赤みの指している頬。バラの花弁を思わせる唇はわずかに開いて、浅い呼吸を繰り返す。 −いつにまでこの子は病に苦しめばいいのか。いつまで見守っていられるのか、苦しむこの子を。 いつからだろう、こうやって病に苦しむようになったのは。 この繊細な子はいつからか病に取り付かれてしまった。 代わってやれたらいい。他に何もしてやれない僕だから。 その苦しみを全て引き受けてやれればいい。 そっと手を伸ばして頬に触れる。思ったよりも熱い頬に驚く。 昔から熱を出すことは多かった。40度を越える熱を出したことも何度かあった。 そんなことを思い出しながら、頬に指を滑らしたとき、薫が目を開けた。 刺激しないように静かな声で尋ねた。 「気分は、悪くない?」 浅い笑みを浮かべて、薫は頷く。 ぼんやりと見上げてくる瞳は、虚ろで、まるで生気がない。 「可哀想に、辛かったろう?ずっとついているから、安心して眠りなさい。僕が、代わってやれればいいのに……」 その時巽を見つめる薫の瞳が焦点を結び、澄んだ瞳から涙があふれた。 頬に置かれた優しい兄の手。昔と変わらずにそこにあった。その手も、その優しい心も、何一つ変わらずにあった。ずっと 離れていた、このぬくもりから。発作で倒れても、殺されそうになっても、幾度呼んでも、求めても、決して触れることが かなわなかった。 けれど今、ここにあった。彼の手も、心も、望んだままに。 自らのすぐ傍に。 薫は片手を伸ばした、巽へと。 優しくその片手を包み込み、巽は心配そうな瞳で覗き込む。 「どうした?苦しいのかい?」 薫はかぶりを振って否定する。 「……行かないで……」 掠れた声で口にした言葉は、それだけだった。 何年間も押さえてきた想いを、なぜ言ってしまったかわからない。 どうしても、喪いたくなかった。…その手を。 無理矢理身体を起こした。 引き込まれるような眩暈を覚えて、縋りつくように巽へと腕を伸ばし……。 巽を抱きしめた。妹としてではなく、女として。 「行かないで、傍にいて。兄様、…ここにいて。…ここに」 熱い身体に抱きしめられて巽は戸惑った。 「どうした?ここにいるから、付いているから…」 落ち着かせようと巽は言ったが、薫は首を振った。 巽の胸から顔を上げて、潤んだ瞳で巽を見た。……まっすぐに。 「置いて行かないで。私を残して逝かないで。」 逝かないで、はっきりと発音された響きに、巽は眉を寄せた。 そんな巽の顔を両手で包み込み、薫は口付けた。一瞬だけ、…甘く。 熱い吐息が、彼女の唇からもれる。 見上げた薫の眼と、薫を見つめる巽の眼。恋の炎が燃え盛る。そのまま愛したい衝動を、巽は押さえ込む。 「愛してる、兄様を、永遠に……」 昔のように『兄様』と呼んで……。 力なくもたれ掛かる体を強く抱きしめた。腕の中で吸い込まれるように眠りにつく熱い体を、離せずにいた。 何度、抱きしめたいと思ったか。その華奢な体を。 絹のように滑らかな、色白の肌に触れたいと……。 何度、夢見たか。 深く、もう一度巽は薫を抱きしめた。 「ラブシーンを演じるのも結構だが、もう少し症状が安定してからにしてもらえると、嬉しいね」 「覗き見とは、趣味が悪いね。君らしくもない」 突然割り込んだ、冷ややかな声にも巽は動じずに応じた。 壊れ物を扱うようにそっと、薫の身体をベッドへと横たえるとシャルルを振りかえった。 厳しい巽の視線に、シャルルは困ったような笑みを浮かべて、二人の元へ歩み寄る。 「点滴針が、血管からずれる、心電図の電極は外れる。ここへ来るしか仕方ないでしょう?」 巽はふっと薫を見下ろした。気のせいか、片腕が腫れている。 現実を認識して、巽は少し視線をそらせた。 「悪かったね」 その態度に、シャルルは苦笑いを浮かべた。 「大分、落ち着いてきています。もう心配はいらないでしょう。もう少し、付添っていても構わないが…、あなたも、無理をせずに休んだ方がいい」 「ありがとう、そうするよ」 シャルルは、素早く点滴の針を直すと心電図の電極を取外して病室を後にした。 その背中を見送って、巽は椅子に座りなおした。 薫の白い手を両手に包み込んで、巽はベッドに伏せた。 …愛している、薫から発された言葉。 愛している?お前が僕を? 違うよ、薫。僕がお前を愛していた。ずっと、長い間。お前の気付かぬところで僕は幾度、邪な気持ちでお前の手に触れたことか……。 ヴァイオリンを持つお前の手に触れるたび、僕の胸は高鳴り、止まなかった。 もう少し、眠っていてくれ。 その間だけ、僕はお前の手に、触れていられるのだから。 |