前へ続く道
眠れぬ夜を、その日も薫は過ごした。 サイドボードの中には、睡眠薬が用意されている。但し、慢性になるからとごく軽いものだった。 その程度の軽い睡眠薬では、眠れなくなっていた。 眠らないまま、東の空は明るくなってきた。 腕には、シャルルの指の型にアザが残る。 それだけ彼も、必死だったのかもしれない。 力加減くらい、シャルルならできたはずだろうのに。それ程までに、彼もあの時は真剣だった。 ……自分の将来。 今までは考えた事もない。考える余裕さえもなかった。 また、怒られるかな……。 クロゼットから、薫は服とバッグを取り出す。 バッグの中から財布を取りだし、中身を確認する。 あの日、ウィーンから戻ったその時のままだった。 着もしない、沢山の服と靴が用意されている。全て、薫のサイズに合わせて作られていた。シャルルが用意させたものだ。 外に出るつもりもないのに、いつのまにか増えていく服を、ときどき眺めたりしていた。 黒の、サテンのワンピースを薫は選んだ。 ふんわりとスカートがふくらんだ、膝下まである丈が今年風で、上品な黒と洗練されたラインが甘くなりすぎず、シンプルで 薫は気に入った。 靴は、ローヒールのベージュのミュール。 入るときには厳しいだろうチェックも、出る時は意外なほどチェックは甘く薫は誰に見咎められることもなく、アルディ家を 後にした。 目的は特になかった。 けれど、アルディ家にいるだけでは何も見つからない。 巽との生活を思い出している日々から、いつまでも抜け出せない。 何より気分転換が必要だと思った。 ふらりとアルディ家を出てまず向かった先は銀行だった。 持っていた日本円をすべてフランに替えると、その足でメトロの駅へ向かう。 コインを券売機へ投げこんで、切符を購入し、行き先も確認せずに一番最初に来た電車に乗り込んだ。 どこでも良かった、行く先は。 パリの街を見てまわるのも久しぶりだ。 自然、身体が軽くなるのを薫は感じる。 乗りこんだメトロの路線から、薫はまず、オランジュリー美術館へと足を向ける。 しんと、静まった空気が身体を包む。美術館のこういった雰囲気が薫は嫌いではない。 一つ一つの絵を真剣に鑑賞したわけではない。薫はこの日、オランジュリーのどの一角を歩いたのか、何を見たのか全く 記憶には残っていない。 それらの絵や彫刻は、目に映っていただけだ。 頭はずっと別なことを考えていた。それでも、考え事をするには向いているように思えた。 ……自分の歩くべき道を。 シャルルの言うようにずっとアルディ家の中で、シャルルの庇護の中でいつまでも暮らしている訳にはいかない。 ちゃんと、自分で自分の生きるべき道を、やるべき事を選ばなければならない。 「申し訳ございません!」 「君のせいではない。謝っている暇があるのなら、探しに行け。この館の中にはいない。パリの街をくまなく探すんだ。服は 黒のサテンのワンピースを着ているはずだ」 冷ややかに言い放って、彼は大きく溜息をついた。 どうしてこうも、問題を引き起こすのか。疲労を感じながらも、彼は的確に人を動かす。 広いパリの街で一人の女性を探すのは難しい。 アルディ家の中でも、彼女の顔を知っているのはごく一部だ。 シャルルは、イツキの部屋へ向かう。薫を知っていて、更に薫の信頼もある貴重な人物だ。役に立ってくれるだろう。 軽くノックをして、返事を確認してからシャルルはイツキの部屋へ入った。 「珍しいね。君がオレの部屋へ来るなんて」 いつも通りの軽口を無視してシャルルは冷めた顔つきのまま、口を開く。 「薫が、いなくなった。悪いが、探すのを手伝ってもらえないか?」 「え…?」 イツキの顔つきも厳しいものになる。 「この館にいないことはわかっている。どこに行ったのかもわからない。……それに、今の彼女の体調は最悪だ」 「わかった」 イツキの回答は早かった。返事と共に、もうその体は動いている。 そして、最後にシャルル自身もパリの街へ出た。どこへ行っているだろう。 車のエンジンを掛けながら、シャルルは考える。 多分、考えても無駄だろう。薫は何の目的もなく、あちらこちらをほっつき歩いているに違いない。なら……車よりも歩いて 探した方が……。 彼女自身、車で動いているわけではないはずだから。 薫は高級ブティックの建ち並ぶフォブール・サントノレ通りへやってくる。 小さな頃、母親に連れられてよく歩いたものだ。そんな時は、決まって二人だった。 ピアノのことしか考えていないように見えて、彼女も娘との時間を大切にしていたのだろうか。 奔放な正確の母は、薫に構うことなく見たい店に入り、ついでのように薫にも色んなものを買い与えた。 それでも不思議に、似合っていた。 どうでも良いことばかりが頭を巡る。 何気なく歩いていた薫の目に、ウィンドウに飾られた靴が目に付く。 『靴は、いいものを履きなさい。他がどんなに安物でも、だらしなくても。靴だけは、素敵なものを履きなさい。そうすれば、 靴がちゃんと、あなたを良いところに連れていってくれるのよ』 目に入ったのはシンプルな黒いパンプス。エナメルの切り替えと、小さなエナメルのリボンが付いた、華奢なローヒール。 それでも、その上質さが伝わってくる。 薫は、昔に聞いた母親の言葉を思い出す。 彼女は靴を大切にした。服よりも、アクセサリーよりもバッグよりも。 何より靴にこだわっていた。 薫は、吸い込まれるようにその店へ入る。 母親の言葉が本当なら。 ねぇ、私をどこかへ連れていって。私の道を決めて。 ウィンドウに飾られていたパンプスに足を入れる。それは、まるで薫を待っていたかのように足に馴染んだ。初めて履く靴とは 思えないくらいに。 綺麗に収まった。 「これ履いて帰れるかしら?」 薫は店員に確認する。 「もちろんでございます。今日のお洋服にもとても似合っておいです」 その後も薫は何点かの服を買った。何がほしい、という訳でもなかったが余りに日常からかけ離れた生活を送っていた自分に 気が付いた。 ぶらぶらと外を歩くことが、1年ぶりなのだから。 一日歩きとおした薫は、さすがに疲れて公園の隅のベンチに座り込んだ。 それでも、まだアルディへ帰ろうと思わなかった。 まだ、答えを見つけられていない。 きっと、アルディ家では自分がいないことで騒ぎが起こっているだろう。 エロイーズは随分怒られているかもしれない。 早く帰らなければならないことはわかっていたけれど、騒ぎを起こしてまで抜け出したのに、なにも、得られていない。 何も変わっていなかった。 そっと、両足を抱えて……薫は空を仰いだ。 オレンジと、藍に染まった空がある。 時だけが過ぎて行く。 刻々と空は色を変え、時を刻んでいく。自分だけが、置いていかれるようだ。 その時、風に乗って薫の耳にヴァイオリンの音色が聞こえた。 軽やかな楽しい音。 音のしてくる方へと自然足が向く。 弾いていたのは、30代後半の男性だった。 公園の片隅に、楽譜を立てて弾いていた。とても楽しそうに。 公園を行く人は、立ち止まって聞いたり、気にも止めずに通りすぎる人もいる。 聞きもしないのに、コインを投げる人もいれば、立ち止まって聞いても何もしない人もいる。 それでも、彼は弾いていた、楽しそうにヴァイオリンを。 薫は、彼の正面に立ってずっとその演奏を聞いていた。 何曲も何曲も。 周囲の人が、数曲聞いては立ち去り、新たな人がまた、彼の演奏に立ち止まる。 「随分、熱心に聞いてくれるね」 薫以外の人がいなくなったとき、その演奏者は薫に声を掛けた。 「お礼に、なにかリクエストに応えるけれど?なにかある?」 「触らせて?」 演奏者はちょっと驚いたようだったが、すぐに笑ってヴァイオリンを差し出した。 彼はその時、薫がヴァイオリンを弾けるとは思っていなかった。 ただ、ずっと聞いていた外国人の女の子が物珍しくて、その演奏者は大切な楽器を手渡した。 薫はそのヴァイオリンを受取ると、すっと構えて弾きだした。 彼は、目を見張った。それは深く澄んだ美しい音だった。同じ楽器から出ているとは思えないほどに。 薫の頭にはずっと、その演奏者の楽しそうな顔が巡っていた。 自分だって、弾けるはずだ。ヴァイオリン一色の生活を送っていた時期もあったのだから。 ヴァイオリンの音は、心の隙間に染み渡り満たしていく。 まだ、夢中になれるものがある。 ヴァイオリンなら、もう一度私を立ち直らせてくれる。 それは、直感のようなものだった。まだ、大丈夫だと。まだ、がんばれる。 彼の残してくれた音がある限り。私はまた、がんばれるのかもしれない。 その純粋な音は、彼の耳にも届いた。 彼の耳は、微かな音も間違えることなく薫の音だと理解した。 彼は早足で歩き出す。 「いい音。こんなところで弾いてたら、傷みそうなものなのに。とてもいい音を出すのね、この楽器は」 手元のヴァイオリンを眺めて薫は本来の持ち主へ語り掛ける。 「ありがとう」 演奏者の元へ、静かにそのヴァイオリンは戻された。演奏者は、呆然と薫を見た。 「君は、素晴らしい音を出すね」 「あなたが余りに楽しそうに弾いていたから……」 薫は苦しそうに顔をしかめながらも、笑顔を作り言った。 「だから、弾けたんだわ」 「薫?」 シャルルはようやく薫を見つけることができた。一日中、探し回ってやっと。 予想した通り、薫は真っ青な顔で立っていた。今の彼女に、一日中歩き回る体力などあろうはずもない。 唇を歪めて薫は笑った。 「見つかった?」 「当たり前だ、帰るぞ」 薫にそうと知れないように、シャルルはそっと薫の背中に手を回すとその体を支えた。 シャルルは片手で携帯を操作して、イツキとアルディ家に連絡を入れる。 「無茶ばかりして。帰るぞ?」 ぼんやりとしている薫にもう一度、声を掛ける。 ゆったりと物憂い眼をシャルルへ向けて、薫は素直に頷いた。 「また、おいで。お嬢さん」 街角のヴァイオリニストは、声を掛けた。 ふわりと、薫は笑みを見せた。 |