そして
開演を告げるブザーが会場に鳴り響いた。 着飾った人達の姿が見える。しかめっつらの老人。 評論家の類だろうと彼は言った。 カジュアルな服装に身を包んだ学生風の二人は、この場に余り似つかわしくはなかったが、会場にいる誰よりも真剣な表情で、開演のブザーを聞いていた。 ステージにライトが照らされた。 舞台袖から出てきた今日の主役の姿に、二人は驚愕を覚えた。 一瞬、目を疑った。だがその顔は、明かに二人の知る人物であった。 ことの始まりは、1ヶ月前に遡る。 たまたま音楽好きの友人につきあって、彼が楽器屋に行ったことからである。 真剣にギターを見ている友人の傍で、何気なく音楽の専門雑誌をぱらぱらとめくっていた時である。 彼女の、リサイタルの記事が掲載されていた。 彼自身は、そんなに仲が良いわけではない。 ジリリリリリリ。大きな音を響かせる黒電話に、彼女は座布団を被せた。 どうせ、電話をよこすのは借金取りくらいだと思っていたからである。 けれども、しつこく鳴りつづける電話に彼女はいらだって受話器をあげた。 「はい、池田。今、留守よっ!!」 「マリナ?オレ。響谷がっ…」 まだ、朝と呼んでも言い時間だった。 マリナが寝ている時間である事は、彼も承知していたが、電話を掛けずにはいられなかった。 「あのねぇ、今何時だと思ってんのよ!!まだ寝てる時間なのよっ!」 「いいから、黙って聞け!」 和矢らしくない強い口調にマリナは口を閉ざした。 「響谷の、リサイタルが行われる。場所は、横浜第一ホール。日取りは、6月10日。……何か連絡は入っているか?」 「……何にも。もう、日本に帰ってきてるっていうこと?兄上は…!」 早口でマリナはまくしたてる。 和矢は溜息をつく。 「お前のところに連絡がないのに、俺にわかるかよ…。シャルルに連絡を取ろうとしたんだが、つかまらなくて……。チケットを取るから、予定あけておけよ。何かわかったら、俺も連絡するから」 何もわからないまま、二人はリサイタル会場へとやってきた。 ともかく、薫が元気でいることをマリナは願っていた。 固唾を飲んで開演のブザーを聞いた二人の前に、薫は姿を見せた。 紺地のサテンのドレスを身に纏って。ワンショルダーのシンプルなドレスは彼女の長身に、よく似合っていた。飾りのほとんどないそのドレスは、かえって彼女の美貌を際立たせていた。写真でしか見たことのない、ロングヘア。耳の横には、バラのコサージュ。軟らかい褐色の髪が、ウェーブを描いて肩から下へ垂れていた。 「知らなかった、響谷って美人だったのな。シャルルに負けてないぜ…」 うっとりと、ステージ上の薫を和矢は見つめた。 マリナはむっとして、和矢の足を踏みつけた。 「なにすんだよ、野蛮人」 「うるさいわね。演奏がはじまるじゃない、静かにしてよ馬鹿和矢」 二人のやり取りなど、関係なく演奏は始まった。 和矢は薫の演奏を一度しか聞いた事がなかった。 だから、以前の音と比較する事はできなかった。 マリナ自身も、音楽に造詣が深いわけではなかったのでその音の違いを 感じ取る事はできなかった。 けれども、わかる人にはわかる、その音の違い。 以前より、ずっと澄んだ音を奏でていた。 それでいて、叙情的で…。 こんなにも感情を込めていながら、澄んだ響きは失われない。 興奮が場内を包んだ。 最後まで、人々の感嘆は薄れる事がなかった……。 完全な復帰だった、ヴァイオリニスト響谷薫の。 「おめでとう、薫」 舞台袖で、彼女を迎えたのはマネージャーの東樹と日本に帰ってからの薫をずっと守ってきた祐樹。 「素晴らしい出来映えでしたよ」 落ち着いた声音で、その奥に控えていたのはユキ辻口。 「ありがとうございます、先生」 きれいな涙を浮かべて、彼女は二人の元に歩み寄った。 「涙を納めなさい、あなたに涙は似合いませんよ」 そう言いながら、薫を抱きしめた彼女の目にも涙が浮かんでいた。 「何とかなるだろう、警備員を増やしなさい」 「でも、ものすごい勢いで……」 控え室に戻った、祐樹と薫の耳にそんな言葉が届く。 控え室の入り口にいた、警備長と警備員のやり取り。不穏な会話に、 東樹が出る。 「何か問題でも?」 警備員は困ったように事情を説明した。 「若いカップルなんですが、響谷薫に会わせろって聞かないんですよ。どんなに止めても入るって聞かなくって……。ほっといたら、侵入してきますよ。それぐらいの勢いなんです」 最後まで聞いただろうか、薫が控え室を抜け出した。 「おいっ!薫、走るんじゃない!!」 東樹の止める声になど耳を貸さず、薫は入り口を目指した。 ドレスの裾を持ち、褐色の髪を風に舞わせる姿は、通路にいた人々を魅了する。 めったに見ることのない、響谷薫の晴れやかな表情。 「マリナ、黒須!!」 予想した通り、廊下の角を曲がったら旧友の姿が目に入る。 「薫!!」 警備員の手を振り切って、マリナが駆け寄る。 ぱふん。 軽い音を立てて、紺色のドレスにマリナは飛びついた。 「会いたかった!!連絡を何にもよこさないから!」 涙声で、マリナは叱りつけた。苦笑しつつ、薫はマリナを抱きしめた。聞きなれた、テナーボイスがマリナの耳に届く。 「会いたかったよ、マリナ。あたし達の再会に乾杯だ。今夜は眠らせないぜ」 「薫っ!!」 END |