決意
礼拝堂にピアノの音が響き渡る。 それは、心を震わせる切ない音。美しく哀しい調べ。 唐突に音が止んだ。 新たな人物がその場に踏み込んだからだ。 「ショパン、ピアノソナタ第二番変ロ短調『葬送』…。君の指はヴァイオリン専用かと思ってた」 微かに笑みを含んだ口ぶりで、声が響いた。 「響谷薫子を母親に持って?……ありえないね」 「そう。……で?こんな時間にこんな所に呼び出したのは、まさか君の下手なピアノを聞かせるためではないんだろう?」 いささかの皮肉を込めて言った。 下手だと、ののしったつもりではない。けれど、もっと他に弾くべきものがあるだろうと、そんなつもりだった。 いつもなら更に痛烈な皮肉が返ってくるところだっただろう。けれど、まるでその言葉が届いていないかのように、彼女はその 視線を鍵盤に置いたままだった。 ややして、硬い声が響いた。 「……日本に、帰ろうと思うんだ」 少し緊張して、しかし振り返ったその眼はまっすぐに彼を見つめた。 「帰ってどうする?」 表情一つ変えることなく、冷ややかな声で彼は尋ねた。 ようやく彼女に表情が生まれた。歪んだ口元と細められた瞳は、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。 「さぁ?……でも、あんたの言う通り甘えてるんだ、この状態に。ここにいたら、ずっとそこから抜け出せない。だから、 日本に帰る。その後は……」 その瞳は哀しみに満ちていたけれど、後ろを向いてはいなかった。しっかりと前を見据えていた。力強かった。 「もう一度ヴァイオリンを始めようと思う」 まっすぐに自分をみ見上げてくる瞳は、どこまでも青く澄んで美しかった。 いつまでも一人の女性に捕らわれている自分とは大違いだ。 華奢な身体で、精一杯飛び立とうとする。何に踏みつけられることもなく。 「……なら、チケットの手配をしよう」 それだけ言って、彼は背を向けて礼拝堂から出て行こうとした。 ピンと伸ばされた背筋。その背中は人を拒絶していた、いつも。 それでも薫は知っていた。今、言わなければならない言葉を。 「シャルル」 堅い音を響かせていた足音が止まる。 「ありがとう」 彼は、振りかえらなかったし、何も言わなかった。 けれど、その言葉はしっかりと彼に届いていた。 ややして、堅い足音が再び響いて、礼拝堂の扉が静かな音を立てて閉まった。 もう一度、彼女はつぶやくように言った。 ……ありがとう、と。 ピアノの上に顔を伏せた。 瞼を閉ざせば、数々のことが思い返される。 指で、そっと自分の唇をなぞる。何度も繰り返しキスをしてくれた。 優しく、何度も。甘い口付けを……。 今度は、髪を梳く。 大きな手で、髪を梳いた。いとおしむ様に。 愛する彼は、もういない。 幾つも幾つも、彼との思い出がある。 この館には、日本で過ごした17年よりもずっと濃くて沢山の思い出がある。 いたかった、この館に。彼の匂いがのこるこの場所に。 けれど、この場所を去ろう。もう一度新しい人生を生きるために。 10日後、彼女はアルディ家を後にした。 空港で向かい合っても、シャルルと薫の間に会話はなかった。 沈黙を破ったのはシャルルだった。 小さな箱を取り出して、薫に渡す。 「これは、記念に」 薫は、小さな音を立てて箱を空けた。中身は時計だった。小さなフェイスの腕時計。 ちょっと笑って、薫は左腕を差し出した。 「我侭だな、姫は」 瞳に甘やかな笑いを滲ませて、シャルルは薫の腕に時計をはめてやる。 「羽田に迎えを頼んである。君の良く知っている人だ」 「誰?」 怪訝な顔をして、薫は尋ねた。シャルルは視線を下げて言った。 「巽から、頼まれていたんだ。君のことを頼める人間がいるとね。イトコだよ、君らの。響谷祐樹だ」 ふと、薫の瞳がゆらめく。 「いつも、そう。兄様は結局自分の考えた通りに、生きたんだわ。私が泣きわめいたって、頼んだって、彼は彼の考えを 変えないんだわ。知らないところで…、そうやって。私はいつもコドモ扱いなのね」 孤独な暗い光が彼女の瞳の中に瞬く。シャルルはそっと彼女の頬に手を添えて自分の方を向かせる。視線を下げたままの薫に、 シャルルは優しく語る。 「巽は、君を愛していた。君が巽のことを愛する前から、ずっとずっと。巽は永遠に君を愛している」 気品のある青灰の瞳を見て、薫は一つ瞬きをした。涙が一筋、零れる。 でもそれに続く涙は、今はない。 「知っているわ」 力強い一言。片目を細めてシャルルは薫は見る。 光を放つほどに、明るい彼女の笑み。 シャルルは軽く薫の滑らかな頬にキスをした。 「余り、無理をしないように。君の体は、昔よりずっと弱っているから」 透明で優しさを含んだシャルルの声。 薫は柔かな笑顔をシャルルに向けた。 「大丈夫よ」 別れのキスをシャルルに返して、薫は答えた。 そっとシャルルは薫の体を引き寄せた。 「君の主治医は私だ。何かあったらいつでも連絡をしてくれ。アルディ家の君の部屋はいつでも、空けておくから」 薫はシャルルの肩へ額を押し付けた。 溢れる涙を、押さえられなかった。 |