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〜3、不安の理由〜
目が覚めたのは、学校からさして離れていない病院だった。 最初に目に入ったのは、殺風景な白の天井。 気がついた時、そこがどこなのか、いつなのか、なぜそこにいるのか、全く わからなかった。 頭の中はぼんやりとしていて体は重く、思い出そうという気力さえなかった。 しばらく天井を眺めていて、耳に残る晴留香の声を思い出した。 必死にあたしの名前を叫んでいた、よく通る高い声。 「気がついたの?もう、大丈夫よ」 ごく近い位置から語りかけられて、視線をめぐらすと若いナースだった。 堅そうな茶色の髪の毛を耳の傍で二つに結っている。 大きな瞳が印象的な童顔で、なんだかペコちゃんに似ていると、覚め切らない頭の 片隅で考えた。 「…ここ、どこ………」 「響谷?大丈夫か?」 ペコちゃん似のナースの背後から、顧問の声がした。 訳もわからずに頷く。 病院に運ばれたんだろうと、わかってきた。でも、特に痛いところも苦しいところもない。 「もう何でもありません」 大丈夫だけど、もう少し、状況を説明してもらいたかった。 聞きたいのはこちらのほうだから。 顧問では無理か、ただの若い社会の教師だから。自分より混乱してそうなそんな 戸惑った不安な様子だった。 口を開こうとしたが、ノックの音が響いて諦める。 静かな戸の引き方と歩き方には覚えがある。 「薫様、お目覚めでいらっしゃいましたか。ご気分は、いかがですか?」 落ち着いた口調は、響谷家の執事だ。 「ここ、どこ?もう帰ってもいいんだろ?」 「まだでございますよ、薫様。もう少しお休みください。今、巽様がこちらに向かわれて いますから、ご安心ください」 ぼんやりしていた頭が一気に晴れた気がした。 今日は辻口教授のレッスンだと言っていたはずだ。月に2回だけの、重要な……。 「ダメだ!今日は辻口教授のレッスンの日だろう!兄貴には知らせるな!」 上半身を起こして叫ぶと、あわててナースがあたしの肩を押さえつける。 「離せ!ペコちゃん!」 小柄なその体は、簡単に振り払うことができた。 後ろで吹き出した顧問を、小さな咳払いと冷めた視線で嗜めると、執事は静かな口調 で話しかける。 「薫様、私も重々承知しておりますよ。しかし、私にも責任というものがございます。 おわかりいただけますね?」 「わかってたまるか!」 瞬間的に、叫んでいた。 なぜそんな風に、みっともないまでに興奮していたのか。真っ白の病室はことのほか 恐怖に感じていたことに、随分後になって気付いた。 「薫、外まで声が聞こえるよ。みっともない」 新たな声が耳に届く。心地よい、良く知っている声。 優雅な足取りでベッドに近づくと、視線だけで執事を制する。執事がベッドから身を 引くと、跪いて視線を合わせた。 目の前には、穏やかな色を湛えた薄茶の瞳があった。 「大丈夫だったかい?」 泣きたくなるほどに優しい声。全てを投げ出して、助けてと縋ることができればどんな に楽だっただろうか。 「なんで来たんだよ……。今日は辻口教授のレッスンの日だろうが」 でもそれは出来ないこと。彼が兄で、あたしが妹である以上、許されない行為。 微塵にも表しては……いけないこと。 答えようとはせず、兄貴の右手があたしの首筋に回された。 何をする気かと見上げたが、彼の香りがして思わず緊張し、口を閉じた。 そのまま兄貴は、あたしが体重を掛けていた右腕を軽く引っ張り、支えを失って あたしは兄貴の腕の中に転がりこんだ。 「だまって言うことを聞きなさい」 言われるまでもなく、言葉なんて出てきやしなかった。彼の香りに酔っていた。 そのまま優しくベッドに戻された。逆らうことなどできなくて……。 「おまえは、僕の都合なんて気にしなくていいんだよ。だから、もう少し眠っておいで」 額に、兄の長い指先を感じた。長い指は額をなで、髪の中に潜りこみ、梳き流した。 包み込むように、兄の香りが充満した。心の中まで。 その気持ちのよさの中で、うっとりと目を閉じた。 「心配しないでいい、安心して眠りなさい」 いつかを思い出させることば。 この優しさの中で一生眠り続けることができたならば、どんなに幸せだろう。 あり得ない空想の中で、眠っていた。 |