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〜4、彼女の行方〜
「どういうことですか」 医師の言葉に耳を疑い、思わず強い声を発してしまい、慌てて口を閉じた。 初老の上品な医師は、そんな反応に馴れているのか動じずに淡々とした口調で 言った。 「今、申し上げたとおりです。精密検査をしてみないことには詳しいことは わかりませんが、まず状況から見て、妹さんの循環器に、もっと言えば心臓に 何らかの疾患があることは間違いないでしょう」 真新しいファイルに綴られたカルテに目を向かわせて、そう医師は説明した。 「まぁ、まずは検査をしないことには」 「では、手続きを」 同じく手馴れた様子の看護婦は、様々な書類を並べた。突然のことで、我ながら 情けないが、動揺していた。 ここのところ、いつも青ざめていた彼女の顔色。いつも残されていた食事。すべての 事象が頭を駆け巡った。 彼女の体はそうして不調を訴えていたはずだ。 なぜ気付かなかったのか、いや、気付かないふりをしていただけではないのか。 自分自身の考えが、自分自身を責めた。 とても重要であるはずなのに、いたって簡単な書類にサインをすると手続きはそれで 終わりだった。 病室に戻るのも気が重く、外来診療が終わって人のいなくなった薄暗いロビーで ソファに腰掛けた。 飽和、というのはこういう状態を言うのだろうか。 考えることは沢山あるはずなのに、なぜか空虚な感覚がした。胸ポケットに乱暴に 手を入れて、煙草を取り出すとくわえた。ほのかな煙草の香りが、少し自分を現実に 戻してくれたようだった。 ライターで火を入れると、肺のそこから煙を吐き出した。 『心臓に何らかの疾患が…』 ぐるぐると医師の言葉が頭の中をめぐる。 『どうもありがとう』 目を閉じると、いつかの光景が脳裏をよぎる。 少女は、生気のない目でぼんやりと僕たちを見上げて言った。 大学の音楽療法の講義で病院に実習へいったのはいつだっただろうか。 小児病棟の多目的室で、ささやかな演奏をした。 最高の演奏などでは決してなかった。とてもわかりやすい曲を、とてもわかりやすい 形で弾いた。 それでもこどもたちは嬉しそうに笑い、楽器に触れた。 その中で、体を起こすこともままならず、ベッドに横になったまま、むんくんだ顔で 音楽を聴いていたその少女は、重い心臓病だった。 最後に小さな声でそう呟いた。 頭の中で、薫とその少女の姿が一瞬、重なった。 薫があの少女のようになってしまったらと、つまらない考えが頭をよぎる。 振り払うためにもう一服しようと、ポケットに手を入れて、手帳に手が当たり、ふっと 思い出す。 重い気分のまま、手帳を繰る。一ヵ月後には、コンクールの予選が迫っていた。 全国大会の地区予選だ。 一位になった者だけが、本選へ進める。 たった一ヶ月しかない。もう一日たりとも練習を休める時期ではない。参加者たちは、 毎日何時間もヴァイオリンと向き合い、妥協せずに練習に打ち込む。薫も同じだった。 無茶な練習で体には、相当疲れが溜まっていたことだろう。 まして、薫は何を思ったかバスケ部にまで所属していた。 手を傷めてはと、何度言って聞くことはなかった。 両立は難しいに決まっている。それを可能にしているのは、きっと本人の努力なの だろう。 薫のそういうところは、良いところだと思うが、それでは負担が掛かって当然だ。 昨年、そのコンクールに薫は優勝候補と囁かれながら、本選の前に一週間も風邪で 寝込み、結局満足な演奏ができずに2位に終わった。 その時の悔しそうな瞳が、今も心に残って離れない。 今年は優勝すると、ずっと言っていた。 だが、今練習を休むと、よい結果の出ようはずもない。 そこまで考えて、天井を仰いだ。 どうすれば良い?自問自答を繰り返す。 迷いからは抜け出せない。 あんな表情をまた見なければならないのか……? 煙草の煙が、空気に溶け込んでいくのを見ていた………。 |