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薫は、順調に回復していた。
相変わらず、屋外に出る事は禁止されてはいたが館内は自由に動く事が許されていた。
薫は、その殆どを図書室で過ごした。公立のそれよりも余程立派な図書室には日本語の蔵書も多く、貸出しを受けて部屋へ
持ちかえったり、図書室の大机に広げて読んだりもした。
情報処理室の片隅でインターネットを楽しみ、時には執事の許可を得てアルディ家所有の美術品や絵画を鑑賞したりもした。
休みの日には巽と語り合い、愛し合った。
今までには考えられないほど、平穏で幸せな日々だった。
心の奥底に漂う不安までも打ち消すほどに、この状態に慣れかけていた。
「薫、手が空いていたら僕の部屋まで来てくれないか」
巽の申出に薫は戸惑った。意外なほど、彼の部屋を訪れる機会はなかったからだ。
忘れかけていた不安が、再び心に沸き起こる。薫は、不審に思いながらも巽の部屋へ向かった。
閉ざされた厚い扉の前に立ち、深呼吸をする。いくら静まれと命じても心臓はドクドクと脈打つ。それでも、汗ばんだ手を
握り締めノックする。
「お入り」
ややして開かれたドアから巽が姿を見せた。濃いグレーのスーツに、白いシャツが映える。清潔な白さが巽の端正な美貌を
際立たせていた。
勧められるままにソファに腰掛けた薫は、居心地の悪さを感じていた。
今日の巽は、雰囲気が違う。いつもの通り穏やかな瞳。それが、今日は不安に思えて仕方が無い。落ち着こうと、出された紅茶の
カップを両手で包み込む。
じりっと熱が両手に伝わる。
「待たせたね」
奥の部屋から出てきた巽が手にしていたのは、ヴァイオリンケース。
見覚えのあるケースに薫はふと眉をひそめた。薫の視線の先で、巽の長い指が留め金をはじく。
中に納められていたのは、やはり。
「アマティ…」
知れず、薫はつぶやいていた。兄から贈られた、ヴァイオリン。
なぜ今、ここへ持ち出されなければならないのか。
巽がポンと弦を弾いた。艶やかな音が広がる。
「ちゃんと手入れをしてくれていたね。いい音だ。」
ヴァイオリンから目を上げて、巽は言った。薫は吸い寄せられるようにその瞳を見つめ返す。
穏やかな光が浮かんでいた。
「久しぶりにお前の音が聞きたい。……弾いてくれないか?」
何を考えているのか。巽の差し出すヴァイオリンを取れずにいた。
『ヴァイオリンは人生に変えられるものだ。いつか僕がいなくなっても
ヴァイオリンが内側から薫を支えてくれる』
「兄様が私の音を聞かない以上に、私は兄様の音を聞いていない。先に…弾いて、くれる?」
「いいよ。昔ほど弾きこなす事はできないけれどね。お前の音はとうに
僕を超えている」
再びヴァイオリンへと視線を戻すと、調弦を始める。次第に、その瞳は真剣みを帯びてくる。昔と寸分変わらない表情。
理知的な眼差し、引き結ばれた口唇。どこを、好きになったのだろう。
この人の。
今まで、考えた事も無かった思いがふと、心に浮かんだ。
優しい中に、時折見せる厳しい表情。気軽に声も掛けにくい、そんな孤高の表情にも惚れたのかもしれない。
調律を終え、ヴァイオリンを構えた。薫は瞬きもせずその姿を見つめた。
巽がいる幸せ。ヴァイオリンのことなど思い出しもしなかった。自分が弾きたいとは、一度も。
なのに、巽がヴァイオリンを持つ姿にこんなにも焦がれる。
大好きだった。小さな頃からその姿を見てきた。
憧れから恋へ愛へと変わったのはいつだったのだろう。
彼の指が、美しい音を奏でる。
その音に薫は顔を臥せたい衝動に駆られた。
人を近づけない、澄んだ音。入りこむ隙のない……。
哀しみは耳を濁らせる。変わりなく澄み、少し情熱的な巽の音。
それなのに聞いているのが辛かった。
一音も漏らさず、聞かなければいけないと、……知っていたのに。
最期の演奏だと、気付いていたのに。
心が、彼の演奏を受容れなかった。受容れられなかった。
「薫の、番だよ」
知らぬ間に、巽は薫の前に立ちヴァイオリンを差し出していた。
取らない訳にはいかなかった。
軟らかに光を跳ね返すニコロ・アマティの表面には、こわばった自分自身の表情が映し出されていた。
「リクエストを、してもいいかな?」
そんな薫の表情に気付いていながらも、巽はさらに冷酷な言葉を告げる。
わかってはいた。けれど、いつまでもこの状態に甘えているわけには
いかない。自分は、生きているべきではないのだ。
最期だ、これが。
怯えた薫の瞳が、巽の心に重くのしかかる。
「僕が、薫の演奏で聞いた事のない曲。『黒鈴のソナタ』を。
ユキ・辻口先生は、素晴らしい演奏だったと言っておられた。」
返答はなかった。無言で構えると、言う通りに弾きはじめた。
瞳からは、透明な涙が零れていた。幾筋も幾筋も……。
美しい音だった。
いつの間に、こんなにも美しい音を出すようになったのか。
僕が育て上げたと、思っていた。その、美しい心も、そのヴァイオリンも。
違っていた。もっと、高邁なところに彼女はいた。汚れたこの手からとっくに飛び立っていた。離れられなかったのは、
彼女ではなく、この僕のほう。
今日からは、離れられる。
こんなにも恵まれた最期もないだろう。豊かな気持ちで、巽はティーカップを取り上げた。
ぬるまった紅茶を、巽は飲み干した。
微かな刺激がのどに伝わった。
「……薫……」
第二楽章を弾き終えた時、巽が呼びかけた。
無心にヴァイオリンを弾く彼女。涙の代わりに、額から流れる汗が、頬をぬらしていた。
かみ締めた唇からは、荒い息が漏れる。
「息が、乱れている。すこし、長すぎたかもしれない。今のお前に弾かせるには。座りなさい」
自分の隣に薫を招く。
巽を見つめたまま、薫はぎこちなく腰掛けた。
巽は左腕を伸ばして、薫の肩を抱き寄せた。軟らかい褐色の髪が首筋に触れる。
「……にい…さ、ま?」
「お前は、いつも無理をしすぎる。時には、肩の力を抜いて人に頼ってごらん。ずっと、楽になる。昔から、僕に心配ばかり
掛けていた」
重い腕を上げて、肩の下まで伸びた薫の髪を梳いた。しっとりとした感触を楽しんだ。
重心を変えて、今度は巽が薫の肩に寄りかかる。
「無理をせずに、薫、よく憶えておいで。僕にとらわれていてはいけない。幸せに、なりなさい。その手に、幸せをつかみなさい。
……愛しているよ、薫………」
瞬間的に、肩の重みが増した。
知りたくもない事実を、直感で理解した。
「兄様……」
震える声で、呼んだ。
その頬は、まだ赤く、暖かいのに。
軟らかい唇から、甘い吐息がもれることはない。
こんなに間近にいるのに、彼の鼓動が聞こえない。
固く閉ざされた、瞼。
理知的な瞳は、もう見えない。
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