喪失の意味




吹き抜ける初冬の冷たい風に、彼女の柔かい髪が舞い上がる。
神父が去り、人気の無い墓地は怖いくらいに静かだ。

葬儀が終わって尚、墓石を見つめたままの彼女。声を掛けないでいた。
今は、彼女の思う通りにさせてやりたかった。
いつまでもいつまでも、彼女の気が済むまで。
なのに霧雨が降りだしてきた。

誰かがどこかで、泣いているのか?この世を去った彼の為に。
さらさらと音を立てて、空から零れてくる。


「薫?…帰ろう。体が冷える」
仕方なく声を掛けた。
聞こえていないかもしれないと思ったが、ややして薫は無言で振りかえった。ゆっくりと。
「感謝している。ここまでしてもらって、本当に……」
けれど、その瞳は全く自分を見てはいなかった。自分の方を向いてはいたけれど、その声は空虚に響き、瞳は自分を捕らえては
いなかった。


彼女は泣いてはいなかった。……ずっと。
そんな感情とはもっと別の次元に、彼女の精神は追いやられていた。
無の状態にまで。

一歩、シャルルは前へ進むと彼女を抱き寄せた。薫の華奢な肩を包み込む。
「泣けよ。泣いて、いいんだよ。我慢なんて、する必要はない」
静かに語りかけた。彼女の心へ届くようにと。 
ぼんやりと彷徨っていた澄んだ瞳が、青灰の瞳をとらえた。
その瞬間、彼女の瞳からひとすじ涙が零れ落ちた。透明な筋を描いて、きらめきながら。

怒りにも似た感情が薫の中に生まれた。
置いていかれたものの哀しみを、どれだけ彼は知っていただろう。
なぜ、置いて行くの?なぜ、そうやっていつもいつも、自分で結論を出して自分だけで何事も決めてしまうのだろう。
次々に涙が零れる。薫はシャルルの肩に額を押し付けて泣いた。
声を、上げて。

ずっと。


「おっと……」
どれくらいの時間が経っただろう。かくんと薫の膝から力が抜けた。
崩れ落ちそうになる体を抱きとめて、シャルルは声を発した。
意識を失った薫を両腕に抱えて、車へと運ぶ。色白の肌に赤みはなく、青く、冷たかった。
あの日から全く睡眠をとっている気配はなかった。食事も。
車の後部座席からタオルを取り出すと、包み込むようにして髪に残る雨粒をふき取る。
運転手に車を出すように指示すると、毛布で薫を包みその身体が冷えるのを庇った。
眠らず、食事もとらずで数日が経っている。もともと丈夫ではない身体だ、風邪ひとつでも、大事になることもある。
 

十数分の後、二人を乗せた車はアルディ家の門をくぐった。
壊れ物を扱うかのように、シャルルは薫を両の腕に抱き上げると部屋へと運び込んだ。
ベッドに力なく横たわる姿は、痛々しかった。 

自分の意思とは違うところで、この世に彼は連れ戻された。
医者としての自分は誇れるところだ。あの状態の人間を元通りに治したのだから。
だがしかし……
人間としては、どうか。
酷薄なことをした。彼に対して。
自分は神ではありえない。連れ戻す技術があっても、本来なら行使すべきではなかった。

……できたはずだ、彼女だけを留めることが。
なのに、……彼をも引き留めた。この手で。
あの時拘置所で見た彼の晴れやかな顔が脳裏に焼きつく。
なぜ、あのまま逝かせてやれなかったのか。あのまま……。
その方が幸せだったのではないか、二人とも。


「……どうしたの?」
か細い声が語り掛けた。
「何が?」
いつのまにか目を覚ましていた薫が、うっとりとシャルルを見上げていた。
魅惑的な三白眼に、しかし今は消え入りそうな儚い微笑を含んで。
真実を見つめていた。
「何を気に病むことがある?……あんたらしくもない」
「何の話だ?」
睫毛を伏せて、シャルルは自分を隠す。
皮肉げな笑みを口元ににじませて、吐息をつくと薫は苦しげに瞼を伏せた。
「あんたが、自分を隠そうとする時は決まって、瞬きをする。リセット、だ。無駄だね、あんたの目は、あんたが思う以上に感情を
映し出す。”目は口ほどにものを言う”ってね。口にも、表情にもあんたは感情を出さないが、目にはしっかりと心が映っている」
シャルルは不愉快そうに眉をしかめる。

「何が言いたい?」
「あんたに哀れまれても困る。彼はそれ程馬鹿でも弱くもない。どんな現実を突きつけられたって、受容れようとする人間だ。
あんたは、自分の判断とその技術を信じていればいい……。誰もそのことで責めはしないし、恨みもしない」
重そうに、薫は瞼を持ち上げてシャルルを見た。
強ばった彼らしくもない表情が目に入る。
片目を細めて、薫は笑う。
「言っただろう?感謝していると、彼も、同じ気持ちだった。私は、そう信じている。…もう大丈夫だから……」
唇を微笑みの形に歪めたまま、薫は吸い込まれるように眠りに入っていく。
色白の繊細な手を両手に包み、シャルルはそっと自分の額へと引き寄せた。

「……ありがとう……」

今は誰より彼女が、救いの手を待っているだろうのに。
誰よりも、この世を嘆いているのは彼女のはずだろうのに。

精一杯、力の限り、悟らせまいと笑みを浮かべる。
儚く、哀しい微笑を。美しい笑みを。




君は、時として、乱暴にすぎる。
君は幾度、私に暴言を吐いたことだろう。
その瞳に憎しみを、怒りをこめて、私を見る。

なのに、今は君が私を救うのか?
私の罪を、許すのか?

 




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